エピローグ~ICHIJI‘S side~

 何か長い夢を見ていた。

 あるいは夢のような何かを見ていた。

 

 どちらにしても内容なんてからっきしだったし、その残滓や余韻みたいなものも残ってはいない。

 

 妙な体の火照りと倦怠感はあるけれど、それは純粋に寝相と疲れからくるものだろう。

 

 とりたてて暗示めいた熱でも、特別な示唆を孕んだ思わせぶりな気だるさというわけでもない。

 

 普通に眠って、普通に起きた。

 それだけのことだ。

 

 ……ただ、一つだけ。

 

 暗く静かな眠りの中で、煌めく何かに導かれるように意識が覚醒していったのだけはなんとなく覚えている。

 

 清く、正しく、美しい、溢れんばかりの光の粒子。

 

 その眩しさにつられ、俺は否応なく叩き起こされたのだった。

 

 「…………」  

 

 ゆっくりと目を開く。

 

 今もなお、目蓋の上からジワジワと眼球に染みこんでくる光に誘われて。

 

 俺は目を開く。

 

 

 

 ……朝日だ。

 

 

 

 連なる山々の間を縫うようにして顔を出した太陽が、俺を真っすぐに照らしていた。

 

 遠くの空がうっすらと明けなずんでいるところを見れば、朝はまだ訪れたばかり。

 

 清く、正しく、美しく、おまけに新しい光。

 世界をあまねく照らす、天照。

 

 なるほど、これは目を覚まさずにはいられない。


 サァァァァァ……


 なにせ、こんな心地よい風が吹き抜ける素晴らしい朝だ。

 いつまでも眠ったままではもったいない。

  

 


 「……イチジ様……」

 

 少女がいた。

 

 「お目覚めですの?」


 白く輝く髪をなびかせ。

 銀に煌めく瞳を眩しそうに細め。

 静かな微笑みを口にたたえ。


 こちらの顔を覗き込むように屈みこんだ、少女がいた。


 美しい……。

 

 その在り方が本当に美しいと、そう思った。


 雨にでも降られたのか、全身をずぶ濡れにして。

 それでも洗い流せなかったくらい、体中、顔中をススと傷と乾いた血で汚して。


 隠し切れない疲労感をにじませていてもなお。


 同じようにボロボロになった男を、新鮮な朝日を一身に受けたまま膝枕する白銀の少女は。

 

 ただただ美しく、聖女のように神々しかった。

 

 「……そうか、ここは天国か」

 

 「いいえ、幸いにも天国には行き損なってしまったようです」

 

 もちろん地獄にもですが、と少女はクスクスと可笑しそうに、上品な笑い声をあげる。

 

 「ここは異世界……そして、ただあなたの為だけに創造された世界」

 

 「……なるほど……」

 

 「本当にわかっていますの?」

 

 「……いや……全然ピンとこないな……」

 

 「あなたの『なるほど』の使いわけ、なんとなくわかってきましたわ」

 

 「……ごめん、足、辛いだろ?今、どくから」

 

 「どうということもありませんわ」


 「恥ずかしいんだったら無理しなくてもいいんだよ」


 「いいえ、無理だなんて。……わたくしがしたいからしているだけなのですから、遠慮せず」


 「……裂けた服から下乳が見え隠れ……というか見え見え隠れくらいの割合で見えてるけれども」


 「見られて恥じ入るような粗末なものではないと自負しておりますので、どうぞ、好きなだけご覧くださいまし」


 「……はぁ……」


 やれやれ、完敗だ。


 なんだかちょっと見ないうちに、あのオボっ娘が百戦錬磨の美魔女みたいなこと言うようになっちゃったよ。


 「……色々、あったんだろうね?」


 「……ええ、それはそれはもう盛りだくさんな一夜でしたわ。……イチジ様は?」


 「……まぁ……あったっちゃあったし、無いっちゃ無いのかな?」


 「ふふふ、なんですの、それ?」


 「……色々とあったし、色々と考えた。それこそ、こんなに濃い一夜なんてそうそうないだろうってくらい、色んなことが盛りだくさんだったし、たぶん、まだ俺の知らない色々もそこに一緒に盛らなくちゃならないんだろう」


 「……はい……」


 「それでもね、アルル?」


 「はい」


 「結局俺は……何にも変われなかったよ……」


 「……はい……」


 「相も変わらず空っぽで、相も変わらず『バケモノ』のまま。いつまでもいつまでも過去の亡霊に引きずられてグダグダとウジウジと不貞腐れながら生きている、そんな情けない男のままだ。……いつだか君に随分と偉そうなこと言ってしまったけれど、見事なまでのブーメラン。君とチームだと自分で言っておきながら、一人で抱えて、突っ走しって……」


 「……はい……」


 「そうしてきっと、また君に助けてもらった。命を救われた。君が俺を……拾ってくれた……」


 「……わたくし一人の力ではありませんわ……」


 「それでもね、それでも……」

 

 俺はジッとこちらを見下ろすアルルの真っ直ぐな目から顔を逸らす。

 

 ……また、逃げた。

 

 自分の冷たさ、自分の罪深さ、自分の女々しさ。

 

 そんな汚いものばかりで造られたような穢れた俺に、その銀色の瞳は少し綺麗過ぎたから。

 

 俺はまたしても彼女の視線から……彼女から逃げてしまった。

 

 「それでも、俺は自分の命を大事に思えない」

 

 「…………」

 

 「同じようにまた街が焼かれ、赤い炎と死の気配が漂う場所があったなら、きっと俺は性懲りもなく、一も二もなく無闇に飛び出していく。……それは街のためじゃない、それは人の為じゃない。それは決して正義の為なんかじゃない。……いつかの自分の無力を清算するために……そこで失ったたくさんのものを拾い集めようとするみたいに……俺はたぶん、わき目もふらずに突っ込んでいく。……そうして、そこで……」

 

 「散ってしまいたいのですわね?……彼女や彼らと同じように。彼女や彼らと同じところにいこうとして。そこを死に場所として選びたいのですわね、イチジ様?」

 

 アルルが俺の独白……というか自分の醜悪さを自虐的に、露悪的に晒す身勝手な告解を、先回りして遮る。

 

 驚くことにその内容は、寸分たがわず俺が続けようとしていたことだった。

 

 「……俺ってそんなにわかりやすい男だったかな?」

 

 「わかり辛いにもほどがありますわよ……」

 

 アルルが心底、呆れたような溜息を吐く。

 

 深々と吐かれた息が横を向けた頬にこそばゆい。

 

 「ええ、まったく、全然、これっぽちもわからない。いつだってぬぼらぁ~っと気の抜けたような表情で、悩みなんて何もないんだと……他人のことも自分のことにも大して興味がないんだとばかりに澄ました顔をして。……その顔を一枚めくったその裏側があんなにも傷だらけだったなんて、未だにジクジクと乾かずに血を垂れ流し続ける深い深い傷口が開いているだなんて、わかるわけないじゃないですの」

 

 そんな俺のくすぐったさに配慮してくれたわけではないだろう。

 アルルは俺の両頬を掴み、グイっと顔を向きなおらせる。

 

 「……過去に何か辛い経験をしたのだろうということには薄々勘づいておりました。あの星空の下、自分のことを『生きぎたない』と、『絶対に死んではいけない』と仰った時の、どこか遠くを……決して見ることの叶わない遥か遠くをそれでも見ようとする寂しそうな顔。……それが唯一、あなたが見せた隙らしい隙。あなたの弱さのかけら。……こんなことを言うと随分ヒドイ女だと軽蔑なさるかもしれませんが、その時、実はわたくし嬉しかったのです。あの鉄面皮の下の素顔、あなたの本当の想いを、他でもない、わたくしに晒してくれたのだと、言葉の切なさに胸を締め付けられる半面で、少しだけ喜んでしまっているわたくしがいたのです」

 

 「……そっか……」

 

 「……ですがそんなもの……所詮はあなたの一端に触れたに過ぎなかったのですわね……」

 

 「……アルル?」

 

 「……あんまりです。……あれは、あまりにもあんまりです……」

 

 そして、改めてジッと俺の瞳を見つめたかと思うと、これもまたいつかのトレース。

 

 体を屈め、俺の顔をその豊かな胸に抱き寄せた。

 

 あの懐かしい……姉から香った柑橘系の香りとはまた違う。

 

 彼女の魂をそのまま顕わしたような、甘くて清潔な香りがした。


 「言ってください、イチジ様。……仰ってください、イチジ様。……あんな辛い記憶……あんな救いなんてどこにも見当たらない赤い記憶……一人で抱え込もうとしないでくださいまし……」

 

 「……アルル……」

 

 「わたくしみたいな小娘一人、何が出来るのかはわかりません。ええ、どれだけ魔術が使えたって、≪魔法≫を発動できたって、あなたの抱えるその痛み、わたくしが癒せるとは言えません。……ですが……ですが……ですが!!」

 

 ギュッと、アルルの腕に力が増していく。

 

 「それでも、癒したいと思うのは迷惑ですか?あなたを癒さなければと、救わなければと思うことは傲慢ですか?……だって……だって……本当にあんまり……あんまりに過ぎます。……そんな過去の贖罪にだけ囚われ続ける人生だなんて……今、こうやって刻んでいるその鼓動が、命が、今に向いていないだなんて、そんなの、イチジ様の命があまりに可哀そうでなりません!!」

 

 

 ドクン、ドクン、ドクン……



 押し付けられた胸の奥から、アルルの心臓の鼓動が聞こえる。


 気丈に振舞って見せてはいたけれど、やっぱり恥ずかしいのだろうか?


 ……そんなわけ……ないよな。


 その早鐘のようにはやる鼓動が。

 いつだって真っ直ぐに生き、いつだって真正面から俺に向き合ってくれている命の証しが。 


 彼女の偽らざる内心を暴き立てる。


 内心……。


 そう、この白銀の少女の心。


 高潔で、穢れなく、誰よりも真っすぐなその心には、俺ではなく、無造作に捨て鉢にされる俺の命が、可哀そうに見えるのだという。


 ああ、本当に、敵わない。

 

 これまで彼女と接してきて、何度そう思ったことだろう?

 

 まるで正反対の像を映しだす鏡のよう。

 

 こんなにも清廉で清浄で、何よりも強い精神を前に、ますます俺の存在なんて矮小なものに感じてしまう。

 

 「……覚えていますか。イチジ様?つい数時間前……わたくしが言った言葉を」

 

 「…………」

 

 覚えている。

 

 彼女の口から紡がれた一言一句を。

 その時、彼女がとった一挙一動を。

 

 覚えてい過ぎて、アルルが今どの言葉を取り上げているのか迷うくらい。

 

 彼女の言葉は不思議と記憶に刻み込まれている。

 

 「どれだけ辛い現実にも目を逸らすことができず、逃げることもできず、世界の良いところも悪いところもありのまますべてを受け入れてしまうあなたを救うには、きっと世界そのものを変えてしまう以外に方法はないのだと……」

 

 「……ああ、覚えてる」

 

 その後に、それでも俺は変わらないと。

 

 過去は過去で、俺は俺。

 背負いたくて背負っているだけなんだと格好つけて、うそぶいて……。

 

 そうやってはぐらかして、彼女の真っ直ぐさから目を逸らした自分の小ささまでハッキリと覚えている。

 

 ……思えばアルルは最初からこうだった。

 

 自分のせいで俺を大変な目に合わせたと反省をし。

 自分には俺を守る責任があるのだと無理をし。

 

 一刻も早く自分の国へと帰りたいところを、俺の体を気遣って旅路を決して急かさず。


 そして今、こうやって俺を胸に抱きしめて、優しく、されど厳しく、俺を諭してくれている。


 ……そのどれもが真剣だった。


 真剣に、真摯に、心の芯から俺のことを想い、俺のことを見ていてくれている。


 ……見ていてくれていたじゃないか。



 ドクン、ドクン、ドクン……



 心臓が高鳴る。



 ドクン、ドクン、ドクン……



 ハッと目が見開かれる。

 体の火照りとはまた違う、まったく違う種類の熱が体中を巡る。



 ドクン、ドクン、ドクン……



 そうだ……そうだった。


 俺はこの≪幻世界とこよ≫に来てからずっと。

 この異世界とかいう右も左も何もかもがわからない場所に来てからずっと。


 決して一人ではなかったんだな……。


 「……改めましてイチジ様」

 

 姿勢はそのままに、アルルは言葉で居住まいを正す。

 

 「まだ状況をあまり把握してはいないと思いますが一つだけ、先に言っておきますわね」

 

 「うん?」

 

 「……ようこそ≪幻世界とこよ≫へ。あなたにとって、もはやここは異世界ではありません」

 

 「さっきもそれ聞いたけれど……もしかして……」

 

 「はい、あなたの肉体も精神も、頭の先から心の底まで隅々の端々まで≪幻人とこびと≫に転生されました」

 

 「……転生……」

 

 「もう、魔力のコーティング剥がれを気にする必要はありません。何に触れようが干渉しようが制限なし。あなたは晴れて≪幻世界とこよ≫の住人として認められたのです」

 

 「ふむ……」

 

 「……反応、薄すぎませんの?」

 

 「……なるほど……」

 

 「あ、またピンときてないやつ」

 

 「俺が眠っている間に、転生の儀式……『洗礼』?だかをしちゃった?」

 

 「正確には『洗礼』よりももっと凄いこと、しちゃいました」

 

 「しちゃったかぁ」

 

 「ええ、しちゃいましたの。それも完璧も完璧。我ながらほとほと天才過ぎて怖いくらいですわ」

 

 「……なるほど……」

 

 「……一応の納得はしてくれたみたいですわね」

 

 「……ま、過程や手段はどうであれ、俺が異世界人の仲間入りをしたんだなというところは」

 

 「相変わらず、嘘みたいに状況に対する順応が早いですのね……」

 

 「そう……相変わらず。……相変わらずなんだよ、アルル」

 

 何も変わらない。

 

 ≪幻人とこびと≫だとか≪現人あらびと≫だとか。

 ≪幻世界とこよ≫だとか≪現世界あらよ≫だとか。

 

 カテゴライズやホームグラウンドが変わったところで。

 

 俺という存在は何一つ変わったようには思えない。

 

 何を聞かされたところで、嘘みたいに変わらない。

 

 こんな聖女のような少女に抱きしめられ、大切に想われても……。

 

 そう簡単にこの業は拭い去ることはできない。

 

 「……ここまで自分がヒトデナシだとは、我ながらほとほと怖くなる。……いや、実際は怖いとすらも思えない俺は、もう末期なんだろうな……」

 

 「……否定はしませんわ……」

 

 アルルが肯定する。

 

 あらゆる罪を受け入れ、認め、許し、諭し、導く聖女が、居た堪れないか細い声で。

 

 俺をヒトデナシであると肯定した。



 サァァァァァァァ……



 そりゃそうだ。


 多くの人が焼かれた。

 多くの人や獣が血を流した。

 多くが死んだ。たくさん死んだ。


 一夜にして死に彩られた死んだ街。


 そんな街の惨状を忘れ、通りを吹き抜けていく風を一度でも心地よいだなんて思ってしまった俺は。


 もう、どうしようもないのかもしれない。 


 

 

 ドクン、ドクン、ドクン……



 「ええ、否定はしません。できません。……ですが……ですが……わたくしは……」


 「できるのかな……」


 「え?」


 それでも俺を見放しはしないのだと必死で言葉を紡ぐアルルの声を、今度は俺の方が遮った。


 「俺に……こんなもう行きつくところまで行きついてしまった俺に……まだできるのかな?……俺を……自分を変えるということが……」


 「っ!!イチジ様!?」


 ガバリとアルルが体を起こす。

 驚きのあまりに大きく見開かれた銀色の瞳と、再び視線が交錯する。


 「ここでなら……この≪幻世界とこよ≫でならさ……」


 「……はい……はい……」


 「俺は変われるのかな?」


 「……(グスッ)……はい……はいっ!!変われます!変われますわよ、イチジ様!!」


 「変わっていいのかな?」


 「もちろん、もちろんです!!あなたは変わっていいんです、イチジ様!!」


 「受け入れてくれるのかな?」


 「ええ、受け入れます!!たとえ世界が拒んだとしても、わたくしはあなたを受け入れます!!」


 「認めてくれるのかな?」


 「ええ、認めます!!たとえあらゆるものが否定しても、わたくしはあなたを認めます!!」


 「許してくれるのかな?」


 「ええ、許します!!たとえ罪が、宿業が、過去の亡霊がいつまでも追いすがってきたとしても、わたくしはあなたのすべてを許します!!わたくしだけは……わたくしだけは絶対にあなたを許しますわ!!」



 ポタリ……



 「こんな俺でも……生きていていいのかな……」

 

 「……はい……はい……生きて下さい……生きていて下さい、イチジ様……」


 

 ポタリ……


 「こんなどうしようもない俺だけれど……」


 俺は手を伸ばす。


 体の重さも気だるさもまた、いつかのよう。


 あの時はクシャクシャと銀髪を撫でた手。

 数多くの名もしならぬ命を奪ってきた手。

 幾つかの大事な命をこぼれ落とした手。


 ……大切な人の左手をギュッと握った右手。

 ……大切な人の左手を最後まで握り続けられなかった右手。

 

 そんな汚れ切った右手の指で。

 この穢れなき白銀の少女の瞳から落ちる、大粒の涙を拭う。


 「君は一緒にいてくれるのかな、アルル?」

 

 「――――――っつ!!!」

 

 頷きはなかった

 言葉もなかった。

 

 なにせ頷こうにも、アルルの首は体ごと俺に覆いかぶさり。

 

 言葉を発しようにも、その唇が、俺の唇へと強く押し当てられているのだから。

 

 「……ちゅ……んちゅ……ちゅ……んちゅ……」

 

 顔がさかさまになったままの、たどたどしいキス。

 

 慣れていないことがわかる、溢れだす想いばかりが盛大に空回りした拙い口づけ。

 

 ……しかし、それでも決して乱暴なものではなく。

 

 甘くて、柔らかくて、そして温かな唇だ。

 

 「……ちゅ……イチジ様ぁ……イチジ様ぁ……んちゅ……ちゅう……ちゅ……」

 

 息継ぎを挟むように俺の名前を呼び、また唇を重ねるという繰り返し。

 

 俺はそのアルルの熱烈なキスの嵐になんの抵抗もせず、黙って彼女にされるがままになっていた。

 

 この歳になって一回り以上年下の女の子にキスをされたということに素直な驚きはあった。

 

 幾ら人らしい感情が大いに欠落した『バケモノ』でも、さすがにこれはビックリする。

 

 とはいえ別段、まな板の上にさらされたように硬直していたというわけじゃない。

 

 確かに驚いた。

 確かに突き放そうとするには体が重すぎた。

 確かに言葉でやめさせようとするには唇の自由が文字通り奪われていた。

 

 アルルがそんなことまで計算しているとはまず思えないけれど、拒むにはいささか不利な状況ばかりが出そろっていた。

 

 ……けれど、抵抗できないわけではなかった。

 

 本気で俺が拒もうとうすれば、他にいくらでもやりようはあった。


 「……イチジ様ぁ……イチジ様ぁ……んちゅ……イチジ様ぁぁぁ……ちゅ……」


 それでも俺はジッと動かない。


 貪るように重ねられるアルルの唇を、静かに受け入れる。


 ……そのとろけるような熱くて甘美な感触を。


 俺の中に深く根付いた真っ黒くな塊が、ゆっくりと彼女の白銀に侵食されていく耽美な感覚を。

 


 俺は今。



 強く強く、求めていたんだ。




 ………

 ……

 …

 

 

 「はぁぁぁぁ~~~~……イチジ様ぁぁぁぁ♡♡♡」

 

 どれくらいの時間、俺たちは唇を重ねていただろう。

 

 やがて満足したように長い長い溜息を吐きながら体を起こしたアルル。

 

 満足も満足。

 

 まさにご満悦といった感じに彼女が妙にツヤツヤとしている反面で、俺の体の倦怠感がドッと増したような気がするのは言わないのが紳士としての嗜みだろうか。

 

 「イチジ様ぁぁ、イチジ様ぁぁ、イチジ様ぁぁぁぁ♡♡♡」

 

 今度は自分が膝枕をして欲しいとせがまれて貸した膝の上で、さきほどから溜息を吐くか俺の名前を甘ったるく呼ぶかしかしていない。

 

 ……この子は一体誰なのでしょう?

 

 王家の威厳も、淑女の嗜みもどこへやら。

 清廉さも高潔さも遥か深淵へと放り投げ。

 

 子猫のように……というか子猫の可愛さにメロメロになり過ぎて頭のネジが外れた愛猫家のごとくジャレついてくるこの子は、本当にあのアルルさんで間違いないんでしょうか?

 

 「……えっと……アルル?」

 

 「んんんん???な~んでぇ~すのぉぉぉぉ~」

 

 「……そろそろ、ここから移動しない?」

 

 「もぉ~すこしぃ~♡旦那様ってば気が早いんですのぉ~♡……って、きゃぁぁぁ♡♡♡旦那様だなんて、わたくしの方もなんて気が早いのでしょう♡♡♡そう呼ぶには、まず国を挙げての正式な婚礼の儀を……って、婚礼っ♡♡♡婚礼ですって、わたくし♡♡♡きゃぁぁぁぁぁ♡♡♡」

 

 「…………」

 

 なんだ、この頭の悪そうな会話は。

 

 ちょっと背筋がゾワゾワとしてしまったのに気が付かないふりをするのが、紳士として、人としての常識だろうか。

 

 前からちょいちょい桃色時空に脳ミソを吹っ飛ばす傾向にはあったけれど、今回の暴走は脳天にチョップをいれるくらいでは魂を呼び戻すことはできそうにない。

 

 「小さくても庭の広い、緑とお花がたくさん溢れた白い家で暮らしましょう。家の壁と同じくらいに白くてフワフワした子犬を飼って、やがてはあなたに似た優しい男の子と、わたくしに似た可愛らしい女の子が生まれて、雪が降る寒い日曜日に暖炉で温めたシチューをみんなで食べて……」


 ああ、俺はなんて無力なんだ。


 この癒し系女性シンガーソングライターがピアノで弾き語るポップスみたいなアルルの思考を止める術なんて、俺は持ち合わせてはいない。


 なにかこう、もっと衝撃的かつ効果的。

 それでいてワイルドかつ繊細な一撃を与える何かが無いものだろうか……。

 


 「(ニヤニヤ)……」


 ……ん?



 「(ニヤニヤニヤ)……(コソコソコソ)……」


 ……んん??



 「(シィ)……」


 ……んんん???

 


 「娘の結婚式で、あなたは決して泣きません。だって彼女にとって、あなたはいつでも強くて大きな父親だったんですもの。たとえその手を離れてしまう時が来ても、あなたは娘にとって理想の父親であり続けようとしているのです」


 「ふむふむ……」


 「……ですが式が終わり家に帰ったあなたは、着慣れないタキシードの上着を脱ぎ、ネクタイを緩め、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出してからリビングの椅子に座ります。そしておもむろに……誰も見ていないというのに、さもさも今思い出しましたという風を装って、上着のポケットをまさぐります」


 「ほうほう、それで?」


 「…………」


 「それで、そこから取り出したのは一通の手紙。……披露宴で娘が読み上げたあの手紙です」


 「あ~なるほど、なるほど。それで?」


 「あなたは一人、その手紙をリビングのテーブルで開きます。大して長い文章ではありません。最後まで目を通してもそれほど時間がかかるものではありません。ですがあなたは缶ビールをチビチビとすすりながら、何度も何度も……何度も何度も手紙を読み返します。娘と辿ってきた二十数年間を……彼女の父親となってからの二十数年間の思い出を、一つ一つ一緒に読み返しでもするかのように、ゆっくりとゆっくりと。何度も何度も」


 「思い出を一緒に?ふむふむ、詩的じゃのぉ」


 「…………」


 「……ポタリ……それは一体、何往復目だったでしょう。不意に手紙へと水滴が一つだけ落ちてしまいます。ええ、一つだけ。たった一つだけなのですが、とてもとても大粒の、色んな感情が溶け込んだ大きな水滴……。『おっと、やっぱりグラスにしたほうがよかったか……』とあなたは誰に向けるでもなく、それはビールの缶についた水滴が落ちたのだと言い訳をします。本当にそれがただの水滴だったのか、あるいは他の何かだったのか……その背中をそっと見守っていたわたくしの方からはわかりません」


 「おお、グッときとる。今、グッときとるよ、我」


 「…………」


 「ただ、後日。あなたの書斎を掃除していたわたくしは、机の引き出しの隙間から少しだけはみでた白い封筒を見つけます。見覚えがありました。ええ、読み上げられこそしなかったものの、わたくしだって母親として、娘から同じものを受け取っていたのですから、それが何なのかわからないわけがありません。……わたくしは誘われるように引き出しを開け、手紙を取り出し、そして見つけてしまうのです。……手紙の最後の行……ちょうど『私のお父さんでいてくれて、ありがとう』という文章の真ん中に、うっすらとインクが滲んだ跡があることに……」


 「う~む、ドラマじゃ。ドラマじゃのぉ~」


 「……電報のCМ?」


 「いえいえ、ドラマでもCМでもありません。これはあなたと、そしてわたくしが紡ぐ未来の話。無限に広がる未来予想図の……ん?……?……」


 「お主の描く未来予想図には我もバッチリ組み込まれているようで、なんだか面映ゆいのぉ」


 「あ」


 「……この子、アルルの知り合い?」


 「知り合いも知り合い。一緒に死線をくぐり抜けた戦友であり、煮え切らないヒロインの背中を厳しくも優しく押してあげる親友でもある」


 「……ぴゃ」


 「あれじゃな。ソウルメイトってやつじゃな。正確には一度は切れた縁が魂の導きによって再び結ばれた、いわばソウルメイト・アゲインじゃ」


 「……なるほど……」


 「ぴゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」



 ソウルメイト・アゲイン……もとい髪から服まで全身、黒ずくめの幼女の登場が。


 図らずも、アルルの魂を衝撃的かつ効果的に俺の元へと引き戻してくれた。


 ……ふむ、さすがはソウルメイト・アゲイン。



 ワイルドかつ繊細そうな魂の繋がりは、伊達じゃないらしい。


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