エピローグ~ARURU‘S side①~

 「……二人とも、息災でな」

 

 ホンスさんがそう言って、わたくしたちに向かって手を差し出します。

 

 「嬢ちゃん、色々と世話になった」

 

 「いいえ、いいえ、こちらこそ」

 

 「男やもめが長かったからな。あんな手の込んだ美味い料理なぞ久しぶりじゃった。家中きれいに掃除もしてもらったうえに、こんなジジイのボロまで繕ってもらって、すまんかったの」


 「そんな……当然のことをしたまでですわ。こんな素性も知れぬ者たちに何も聞かず温かな寝床と衣服を与えてくださっただけでも十分ですのに、こんな立派な馬車まで用意していただいて……。感謝の念が尽きません。……本当に……本当にありがとうございました」

 

 わたくしはホンスさんの手を取り、深々と頭を下げます。

 

 まるで年輪のように幾重にもシワが重なった手のひらの感触。

 

 長年の野良仕事のために固く筋張ったその指に、この老人の実直で誠実な生き様がそのまま表れているようです。  

 

 「あんちゃんも、ありがとうな。おかげで随分と楽ができたわい」

 

 「別に大したことは。……アルルも言ったことですけど、本当にこちらこそ世話になりました」

 

 「道のりは長い。道中、おまえさんがしっかり嬢ちゃんを守ってやるんじゃぞ」

 

 「ええ、もちろん。この命に代えても」

 

 「だからすぐに死にたがるんじゃない」

 

 「言葉の綾ってやつです」

 

 「おまえさんが生き急ぎと死にたがりの区別もつかんうちは、たとえそれが言葉の綾だったとしても、周りの人間は気が気ではない。……今回のことで十分思い知ったじゃろ?」

 

 「……はい」

 

 「こんないい娘にいらん心配をかけるんじゃない」

 

 「……ホンスさんこそ、あんまり一人で無理して体壊さないでくださいよ。もういい歳なんですから」

 

 「ふん、まだおまえさんみたいな小僧っ子に心配されるほどしょぼくれちゃおらんわ」

 

 「それじゃ、その若さで新しく飯炊きや掃除の得意な嫁さんでももらってください」

 

 「もちろん、ずっとそのつもりで生きとるよ。ただ、なかなか好みの女がいなくての」

 

 「乳の大きさで選り好みしてるからじゃないですか?」

 

 「バカ者、だからおまえさんは小僧なんじゃ。女と言えば尻じゃろうて」

 

 「亡くなった奥さんは?」

 

 「あれほどの素晴らしいケツとは是非もう一度巡り合いたいもんじゃ」

 

 「女のケツばかり追い回すジジイってどうなんでしょう」

 

 「ふん、言ってろ……」

 

 軽口をたたき合いながらガッチリと握手を交わすイチジ様とホンスさん。

 

 互いに口の端をひん曲げて生意気な笑みを浮かべているさまは、まるで同年代の友人同士のよう。

 

 やはりこの二人の間には、異性のわたくしには入り込めない、特別な絆みたいなものが生まれているようです。

 

 それに嫉妬を覚えるほど、わたくしは狭量ではありません。

 

 残る者と行く者……。

 

 前途が不明瞭な旅へと出立する際、殿方が悪友へとそれぞれ送る言葉とは、こういったものなのでしょう。

 

 

 ……そう、旅立ち……。

 


 突如としてドナの街を襲ったあの災厄の夜から、早いものでもう三週間。

 

 どれだけたくさんの犠牲を払ったとしてもまた変わらずにやってきた朝に、わたくしたちは一路ラ・ウールに向けて旅立つのです。


 

 

 この三週間、様々なことがありました。

 

 わたくしにしろイチジ様にしろ、気力・体力・魔力など、あらゆる力がすっからかんな状態。

 

 それらの回復に努める傍らで、及ばずながらわたくしたちは街の復興をお手伝いさせていただきました。

 

 亡くなられた多くの方々の遺体の埋葬。

 倒壊した建物の瓦礫の撤去。

 

 怪我をされた方の傷の治療、目には見えずとも深い傷を負った人々の心のケア。

 住まいを奪われた人々のための仮住まいの建設。

 

 交通網の整備。

 多くの犠牲を出した議会の再編。

 

 ただ一夜にして奪われた『街』という機能を元に戻そうとするには、時間にしろ労力にしろ、その何倍も、何十倍もかかるのだと痛感いたしました。

 

 ……そして、何より。

 

 わたくしは人の持つ『強さ』というものを本当の意味で垣間見た気がします。

 

 無残に奪われた命……身元がわからないほど損傷が激しい遺体も数多くありました。

 

 ただでさえ、小さな街の小さなコミュニティです。

 

 住人のほとんどが顔見知りと言っても大袈裟ではないほど、人々はそれぞれに何らか繋がりを持っていたことでしょう。

 

 建物にしてもそうです。

 

 商店にしろ住居にしろ、街議会が壊滅状態の今、壊れた建物に対する補償は期待できません。

 

 仮にこれから何らかの救済措置が適用されるにしても、今日明日の話というわけにはいかないのです。

 

 その間、職や財産を失った人たちの生活の見通しは端的に言って不透明。

 

 悲嘆にくれて茫然と立ちすくんだとしても、誰が責めることができるしょう。

 

 ……しかし、彼らは決して立ち止まりません。

 

 黙々と瓦礫の下や通りの端から遺体を運び出す住人達。

 

 こびりついた血を洗い、焼け焦げた石壁をせっせと補修する住人達。

 

 昨日まで当たり前にそこにあった『わが町』の変わり果てた姿を前に、それでも彼らは絶望に搦めとられて立ち止まるということはしないのです。


 


 「……強いよな……」


 そうポツリと呟いたのは馬車の手綱を握るイチジ様。


 彼もまた、わたくしと同じくドナの人々の姿に感銘を受けていたようです。


 「家族や大切な人を亡くした人だっていただろうに……どうしてあんなに気丈になれるんだろう」


 「……気丈……ではないのでしょう」


 「……ま……そうだよな」


 「内心では、みなさまこの理不尽に泣き出したくて怒りたくて仕方がないはずです。……家族にしろ大切な人にしろ思い出の詰まった住居にしろ、それを無理矢理に奪われることの絶望感と喪失感……簡単にわかった風なことを言ってはいけないのでしょうが」


 ええ、本当に、知ったような口を聞いてはいけない……。

 

 その時わたくしの脳裏には、泥や血で汚れた白衣をひるがえす女性の後ろ姿がよぎっていました。

 

 街の人々の家族や大切なものを奪った元凶。

 

 それが彼女、シエルさんにとっての最愛の家族であり、一番大切な存在であった夫でした。

 

 侵略者にして略奪者。

 

 己の欲求を満たすためだけに他者をかえりみることのなかった愚か者。

 

 結局は人であることを辞めたまま、ドラゴンの復活にさいしての贄としてチリも残さず消えてしまった最期が、その罪に対する罰だったのでしょうか。 

 

 そして、彼の犯した罪は他にもう一つ。

 

 堕ちるところまで墜ちてしまった自分をそれでも信じ、誠心から愛してくれた奥方の元に帰ってこなかったという大きな大きな罪がありました。

 

 「シエルさん……今日も怪我をなされた方々の治療のため、奔走しているのでしょうね……」

 

 「主犯の男の奥さん……だったっけ?俺が知る限り、彼女が止まっているのを見たことがなかった」

 

 「おそらくはあの夜から一日も休んではいないのでしょう。……ご自身もまた、深すぎる傷を負ったというのにも関わらず……」

 

 「……話はできた?」

 

 「はい、病院でお手伝いをした際に少しだけ……」

 

 彼女がいまや街唯一となった医師として右に左に忙しなく走り回るほんの束の間。

 

 互いが互いの仕事へと向かう廊下ですれ違うようにしてではありますが、シエルさんはわたくしと話をするためにわざわざ時間をさいてくれたのです。

 

 「彼女の願いもむなしく、ジョルソンさんは人として逝けなかったこと。そして引導を渡したのが紛れもなくこの手であること。……わたくしは包み隠さずシエルさんに打ち明けました」

 

 「彼女はなんて?」

 

 「……ありがとう……と頭を下げられてしまいましたわ……」

 

 ありがとう、街を救ってくれて。

 ありがとう、わたしたちを守ってくれて。

 

 ありがとう……夫を解放してくれて。

 

 「それ以上の会話もなく、ずっと頭を下げたまま、ありがとうとシエルさんは繰り返すばかりでした。わたくしに対する恨み言一つ、背中にのしかかる責任の重さ一つ、……涙一つ零すことなく、また怪我人の治療へと駆けてゆきました。『無理だけはなさらないでください』とその背中に声を掛けたのですが、振り返った彼女は『でも私にしかできないことがありますから』と笑ってみせてくれました」

 

 「そうか……」

 

 私にしかできなないこと……。

 

 その言葉が、わたくしには『私がやらなければいけないこと』と聞こえたような気がしました。

 

 「……俺は主に力仕事を手伝っていたわけだけれど……」

 

 わたくしに続いて、今度はイチジ様が語ります。

 

 「建物の再建に必要な資材の運搬や、それこそ生き埋めになった人を救助して病院や救護施設に搬送したりもあったけれど、主だった仕事は瓦礫の撤去と称した遺体の回収だった。……君にも想像ができる思う。どれもヒドイありさまだった。瓦礫をよけた下から両親が子供を庇うようにして挟んだ遺体とかも結構あってさ……」

 

 「……はい……」


 「……その時……一緒にいた人たちが言ってたんだよ。『一刻も早くこのチンケな石くれの下からみんなを掘り出して手厚く葬ってあげたい。少しでも早く元の通りの賑やかな街を見せてあげたい。それが生き残った俺たちにできる一番の弔いだ』って。……何かに忙殺されることで気を紛らわしているっていう側面もあるにはあるんだろうけれど……」


 「生き残った者としての責務……」


 「……何よりもその一心が彼らを駆り立てているみたいだった。……本当に……本当に強い人たちだよ……」

 

 前方を見つめたまま、イチジ様は静かな声でそう言います。

 

 同じように家族や大切な人たちを失った過去。

 同じように生き残った……一人だけ生かされた人。


 世界調和魔法・≪アンサンブル≫の創造を前に、魔素化したイチジ様との同調をした際、図らずも覗き見てしまった彼の記憶の中で、ドナの方々と同じくらい深く深く傷ついていたイチジ様。


 あの心象風景……かつて確かにイチジ様が立ちすくんでいたであろうあの赤い街から、彼がどうやって再び歩き出したのか。


 街の人々を『強い』と思うその心は、自分自身のことをどう評しているのか。


 赤い街に辿り着くまで……そして、わたくしと巡り合うまで、一体、どのように生きてきたのか……。


 そこまでの記憶を辿ることができなかったわたくしには、何一つ確信めいたことは言えません。


 「…………」


 わたくしは腰掛けた隣から、そんな彼の横顔をうかがいます。


 表情に特に変化は見られません。

 

 ≪幻人とこびと≫として転生を果たそうが。

 ≪龍神の子≫としてその身にドラゴンの牙を内包させようが。

 

 相も変わらず感情にも表情にも乏しいお顔です。

 

 白目が多い黒の瞳は輝きなどまるでなく、とろんと気だるげでいかにも覇気がないのですが、姿勢よく手綱を操り、巧みに馬を操舵するお姿はほれぼれするほど凛としています。

 

 ……これこそが、イチジ様。

 

 わたくしの知る、わたくしがお慕い申し上げるタチガミ・イチジその人です。

 

 「…………」

 

 ただ、あの時のイチジ様……。

 

 ドラゴンの圧倒的な存在感を前に心が挫けたわたくしの前に現れた時のイチジ様。

 

 わたくしの知らない……わたくしが伸ばされた手に反射的に怯えてしまったあのタチガミ・イチジもまた、彼なのです。

 

 この三週間の療養生活の間、それとなく聞いてみたのですが、彼はその時のことを何も覚えてはいませんでした。

 

 山賊の頭領とともにギルド会館に赴き、そこで数体のサラマンドラと交戦したところで記憶は途切れ、気が付けばわたくしの膝の上で目を覚ましていたらしいのです。

 

 おそらくは激しい戦闘の弊害によってわたくしの施した魔力コーティングが剥落し、その切れ目や割れ目部分から世界の修正力がゆっくりとイチジ様を侵食していった結果、魔素中毒にも似た酩酊状態におちいったのだと推察されます。

 

 一度、完全にイチジ様の存在を消滅せしめたあの世界の無慈悲さを。

 

 肉体も魂も根こそぎ消し去ったあの抗いようもない力を目の当たりにしているからこそたてられる仮説なわけなのですが、それだけではあの時のイチジ様の別人ともいえる様子に説明はつきません。

 

 ……ええ、別人。

 

 まるで『虚無』が人の形をとって顕現したような。

 まるで『空虚』が実体をもって歩き回っていたような。

 

 冷徹な雰囲気にしろ、粗野な口調にしろ、紛い物とはいえ相当量の力を持っていたドラゴンをまさしく一蹴のうちに蹴り殺した戦闘力にしろ。

 

 あれはもはや別人……いいえ、『人』という域を軽々と踏み越えた領域に達していました。

 

 わたくしの知るイチジ様の意識が混濁した時に、深淵の奥底から這い上がってきた別人格……。

 

 そう、定義してしまえば簡単です。

 

 簡単なのですが、あまりに安直すぎてどうにもしっくりとはきてくれません。

 

 「……≪龍神≫……ドラゴンの子……」

 

 「……ようするに『バケモノ』なわけだ、俺は」

 

 答えを探して巡らせる思考から知らず漏れ出てしまったわたくしの声に、イチジ様の方はハッキリとした応えを示します。

 

 「あ!そ、その……。も、申し訳ございません……」

 

 「いいよ、別に隠すようなことでもない。それに元からアルルには聞いておいて欲しいと思っていたから」

 

 言葉の通り、イチジ様は別段気にした様子もなく前を見据えたままで続けます。

 

 「とはいえ、俺自身にもよくわかっていないってのが正直なところなんだけれど。『龍神たつがみ』の……まぁ、俺が育てられた、団体?会社?コミュニティ?とにかくその長であった男が、ある日偶然、土砂の中に埋もれた祠を見つけ、好奇心のおもむくまま探索してみたら、そこで俺がスヤスヤと眠っていたらしい」

 

 「祠ですか。……≪現世界あらよ≫、その中でも日本において祠と言えば、神を祀る神殿みたいなものですわよね?」

 

 「その辺りの地域では昔から稲作が産業の主軸となっていたんだ。だから俺がいた祠に限らず、そこでは神といえば≪龍神≫。稲作という農業を行う際もっとも重要とされる水を司る神を祀っていたそうだよ。……アルルがイメージするドラゴンとは少し毛色が違うかもしれないけれども」

 

 「……ですが、どうしてそれだけでイチジ様が≪龍神の子≫などと呼ばれなくてはならないんですの?埋もれた祠で眠っていただけ……というのもそれはそれでおかしな話ですが、かといって安易に人外扱いするのは反応が過剰過ぎるような気がします」

 

 「『祠』という表現からくるミスリードかな」

 

 「え?」

 

 「確かに祠ではあったけれど、正確には俺が眠っていたのはその更に地下部分。仰々しい祭壇の下にあからさまに隠された階段を下りたところにあった、カプセルの中だったんだ」

 

 「……かぷ……せる??」

 

 思わず気の抜けたような声が出てしまいました。

 

 ミスリード?

 カプセル??

 

 「アルルが俺以上に≪現世界あらよ≫の知識が豊富だってことを踏まえると、多分、君が今頭の中で考えている通りの光景でいいと思う。いかにもな大小さまざまなパイプや色とりどりのコード、いかにもなコンピューター機器のあれこれ、人が一人入るだけのいかにもなカプセルの中に、いかにもな生体保持のための培養液がひたひたと入り、俺はその中にプカプカと浮かんでいたんだそうだ。……まぁ、俺自身まったく覚えがないし、人づてに聞いた上に、聞かせてくれたやつが漫画だアニメだのに被れにかぶれていたから、そんないかにもサイバーパンクな模写になっちゃったわけだけれど……大筋は外していないんだろう」

 

 「……人造人間……ですの?」


 わたくしは背筋に走る怖気に気が付かないふりをします。

 

 「その定義が科学的にどんなものなのか……いくらなんでもさすがに異世界人の君に説明するのは難しいから端折るけれど、いわゆる『人造人間』とはまた違うらしい。子供の頃に一度だけ体中……中から外からいたるところまで検査されたことがあったんだけれど、俺は限りなく人間に近くてどこまでも人間から逸脱したものだという陳腐な言葉遊びみたいな結果が出た」

 

 「…………」

 

 「なんだそりゃ?と検査をした方も検査をさせた方も思ったらしい。じゃぁ、一体このガキは何なんだって。……それで今度はその『人間のようで人間じゃない』という結果を踏まえて別の角度からの検証をした。動物から昆虫から幾つも『人間じゃないもの』のDNAサンプルと比較してね。……そうしたら見事、一つだけヒットしたDNA配列があった。数あるサンプルの中で、誰かがネタのつもりで入れていた、誰もが予想だにもしていなかった大穴中の大穴……それを俺は見事に引き当ててしまったわけだ」

 

 「……それが……」

 

 「そう、≪龍神≫。……俺とともに土砂に埋もれていた、その祠で御神体として祀られていたと思しき骨の欠片から採取したものと一致した」

 

 「……そんなことって……」

 

 「……その骨自体が手の平に乗るくらい小さなもので、骨格再生をしようにもあまりに情報量が少なすぎて結局なんの生物の骨かはわからなかった。ただ、≪龍神≫を祀った祠。各地に点在する≪龍神≫に関する書物や口伝の類。過去のものでも現存するものでも地球上のどの生物のものでもないDNAの配列。……そしてその祠の……その明らかにオーバーテクノロジーな研究施設みたいなところで無人で稼働するコンピューターの中身をほんの一部とはいえ解析した結果……タチガミ・イチジは≪龍神≫……肉体年齢は人間でいえば十歳前後だったから≪龍神の子≫であるという結論が導き出されたわけだ」

 

「…………」

 

「実際、それが一番しっくりくるところなんじゃないかな。『人造人間』と呼ぶには『人造』なのか『人間』なのかもハッキリとせず、どこからもたらされた技術なのかも判然としない。……出自というか俺が生み出された目的に関してはまったく、皆目、わからずじまい。……そんな曖昧なわけのわからない存在に『神』という曖昧で摩訶不思議なわけのわからない名前は実に相応しいと思う」

 

 「…………」

 

 さすがに予想だにしていなかったイチジ様の出自の秘密に絶句してしまいます。

 

 とつとつと、とうとうと……。

 

 卑下するように投げやりでもなければ、辛さを滲ませるわけでもなく。

 相貌崩すわけでも語気を荒げるでもなく。

 

 まるで他人事のように自分を語るイチジ様。

 

 自分のことをわけのわからない存在だなんて悲しいことを言わないで欲しい。

 

 そう名付けた人たちのように、そんな『神』だなんて曖昧なものでくくって納得なんてしないで欲しい。

 

 わたくしは憤りなのか悲しみなのかよくわからない激情をイチジ様に向かってぶつけてしまいそうになります。

 

 「……ま……そんな俺だからこそ……」

 

 そう言っておもむろに手綱から離した片手を、イチジ様はそっと自分の胸の中心に添えます。

 

 「この中にいまさら龍の牙が入っているとかいわれても別に気にもならない。最初は体が妙に熱いし、何だか違和感があったにはあったけれど、もうすっかり馴染んでしまったみたいだ。……うん、まったく問題ない……生活にはまったく支障はないだろう」

 

 「……イチジ……様?」

 

 「とにかく、こうやって俺がここにいられるのは君のおかげだ。何度も言うけれど、ありがとう、アルル。俺を生かしてくれて」

 

 ……口から出かかった言葉を、わたくしは飲み込みます。

 

 飲み込まざるをえません。

 

 ……仕方がないじゃないですの。

 

 だってこれは……

 

 「わたくしのため……ですの?」

 

 イチジ様のらしくない自分語り……。

 

 確かに語り口調そのままに、イチジ様が特別自分の秘密について思うところはないようです。

 

 ……たとえあったにしも、それは過去のこと。

 

 おそらくはもうイチジ様は既に悩みに悩み、辛苦の限りの煩悶を通り過ぎた段階にいるのでしょう。

 

 もはや蒸し返す必要のない話。

 

 ベストな解は得なくともベターな落としどころは得た問題。

 

 ……それを今、わざわざわたくしに語ってくれました。

 

 わたくしに聞いて欲しかったのだと言って。

 自分のことを知って欲しいのだという方便で。

 

 とつとつと、とうとうと……。

 

 無理矢理この≪幻世界とこよ≫へと拉致してきたあの時とまったく同じ。

 

 イチジ様の意識がないのをいいことに身勝手を振り回し、死に場所を探していた彼を無理矢理生かしたことを内心では気に病んでいたわたくしのため……。

 

 どれだけこの世界がイチジ様一人を受けいる器として創られたとはいえ、了承も得ず無断で≪幻人とこびと≫へと存在を作り換えてしまったことを気にしていたわたくしのため……。

 

 気にしていない、自分なら大丈夫。

 

 生きていく、ありがとう。

 

 それだけを言いたいがために、イチジ様はこの長い一人語りをしてくれたのです。

 

 ……ああ……本当に……この人は……。

 

 根っから素直なくせに肝心なところがわかり辛い。

 だいたいなんでも器用にこなすくせに、変なところでとことん不器用。

 

 人の気持ちがわからないような鉄面皮を被ってるくせに……。

 

 誰よりも人の心の機微に敏感で、そしてその心に寄り添うことのできる優しい優しい人……。

 

 「あああんんん♡♡♡イチジ様ぁ~♡♡♡」

 

 「……てぃ」

 

 「ぴゃい!!」

 

 あまりに昂った激情に。

 たぎりにたぎったリビドーに。

 

 ガバリと抱きついたわたくしの脳天に、乾坤一擲、鋭いチョップが落ちてきます。

 

 「運転中にそんなことしたら危ないだろ」

 

 「ぴゃ~……ひどいですのぉ。乙女の純情を木っ端みじんにする無慈悲な正論の一撃ですのぉ」

 

 「純情な乙女はそんな飢えた獣みたいにギラギラした目で抱きついてことないと思う」

 

 「冷たいですのぉ。冷酷ですのぉ。ツンドラですのぉ。……だが……それがいい♡♡♡(ガバァ!!)」

 

 「そい」

 

 「ぴゃみゅ!!……うううううぅぅぅぅ……」

 

 「……コイツ目が死んでいないだと?……もはやチョップごときでは制御できないというのか……」

 

 ごめんなさい、イチジ様。

 

 もう抑えきれないのです。

 

 でも、あなたが悪いのですわ。

 

 あなたのその優しさが……。

 わたくしへと向けられた信頼と愛情が……。

 

 わたくしの乙女回路のリミッターを易々と取り払って、欲望を丸裸にしてしまったのですから。

 

 「もうイチジ様ったらぁ♡♡♡こんな昼間から、それもこんな往来の真ん中でわたくしのすべてをひん剥いてどうする気ですのぉ♡♡♡」

 

 「どうもしねーよ」

 

 「三分待ってください。即席ではありますが、わたくしが開発した魔道具『マジカル・コロコロ』でお肌のコンディションを整えます。ことに及ぶのはどうかそれからで」

 

 「及ばないから、そのパチモン美顔器ローラーをしまいなさい」

 

 「はっ!『ありのままの君を愛するよ、アルル』という解釈でよろしいでしょうか!?」

 

 「拡大解釈もはなはだしい……」

 

 はぁ、とイチジ様は溜息を吐きます。

 

 あらあら、照れていらっしゃるのでしょうか?

 

 思えば、ここのところわたくしが積極的に迫っていくたびにこんな疲れたような吐息を漏らしていますわね。

 

 プレイ?そういうプレイですの?

 

 そうやってつれなくしてわたくしの気を極限まで高め、然るべきときが来たら極大爆発という焦らしプレイなんですのね?

 

 ふふふ、見え見えですわイチジ様。

 

 そんなところも愛おしい……。

 

 ですが、心配には及びません。

 

 今のわたくし……いいえ、いいえ。

 

 あの日、熱い口づけを交わしたその瞬間から。

 

 わたくしの想いは常にビッグバン。


 あの彼女に負けず劣らず、あなたと二人だけの新世界くらい軽く創造できちゃいますわ。

 

 「……落ち着いてくれよ、アルル……」

 

 ポンとイチジ様の手がわたくしの頭の上に乗ります。

 ああ、そんなことされたら、また極限値を振り切るほどの……。

 

 「子供も……見ているんだしさ……」

 

 「…………」

 

 シュゥゥゥゥゥ……

 

 ……それはまるで≪マホウ≫。

 

 沸点を越えてたぎったわたくしの情熱……というか純情な劣情を一撃で沈める必殺の≪マホウ≫の言葉。

 

 イチジ様ったら……本当に器用でいらっしゃる。


 魔素の加護を得たばかりのその身で、いつの間に魔力の運用方法を覚えましたの?

 

 「ジィィィィ……」

 

 ええ、わかってました。わかっていました。

 

 ええ、ええ、別に忘れていたわけではありません。

 

 ええ、ええ、ええ、せっかくのわたくしとイチジ様の婚前旅行に、余計な同行者がいたこと。

 

 決して、決して、忘れていたわけではないのです。

 

 ですから、終始、真面目な話をしていたではありませんか。

 

 ……ただ、ちょっと、そんな邪魔者の存在なんて霞むくらいに。


 ホント、まったく、これっぽっちも眼中に入らなくなるくらいに。


 イチジ様への想いが溢れだしただけなのです。

 


 「……なぁなぁ、オカン?ウチなぁ、妹か弟が欲しいんやけど」

 


 誰がオカンか。

  



 


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