第三章・赤い異世界生活~ARURU‘S view①~
「ホンスさん!もっと急いで!」
「ええい、わかっとる!これでも目一杯じゃ!」
そう言いながらも、ホンスさんは荷車を引く馬の手綱を激しく振ります。
気持が急いているのは、どうやらわたくしと同じなようです。
荒々しい運転に車体は揺れに揺れ。
用心のために揃えておいた武装のレイピアや魔道具を入れたポシェットがカチャカチャと音を立てて、余計に気持ちを煽ります。
早く。早く。もっと早く……。
―― アルルはホンス爺さんを起こして安全なところまで避難してくれ! ――
そうおっしゃった時のイチジ様の顔が、わたくしを不安にさせてしまいます。
どんな状況下においても。
焦りでまごつくことも、怒りに染まることも、恐怖におののくことも。
微かにでも笑みを浮かべることさえまるでなく。
感情がロクに現れない平坦なあのお顔。
それでいて、驚いたり、楽しんでいたり、呆れていたりするんだなと、ちゃんとこちらに伝わってしまうあの表情。
わたくしをもちろんのこと。
ホンスさんや街の人たちが、何故か簡単に心を許してしまいたくなる。
不愛想なのに愛想が良くて。
無感情なのに感情がとても豊かで……。
イチジ様のお顔は、そんな不思議な魅力を持ったものですの。
それが、あの時。
遠目から望んだ街の赤々とした景色を前に。
とても痛々しそうに歪んでいましたの。
おそらく、彼が、わたくしに感情らしい感情をはじめて見せたあの時。
わたくしは、イチジ様がその直前まで語ってくれた。
彼の生き方みたいなものが。
彼の生き様みたいなものが。
本当の意味で理解できたような気がします。
「……イチジ様……」
ひどく断片的。そしてとても抽象的。
何一つとして、具体的なことは語ってはくれませんでした。
ただ、何か辛い過去があったのだと思います。
彼自身を持ってして『生きぎたない』と言わせてしまうほどの、辛く苦しい過去が。
安全の保障された閉じた世界の中で、ぬくぬくと育ってきたわたくしなど及びもつかない。
こんなたかだか16年しか生きていない小娘などには想像すらできない。
壮絶で凄惨で、苛烈で熾烈な世界の只中を、もがきながらも彼は生き抜いてきたのでしょう。
そんなかつての記憶が。
いつか見た様々な光景が。
後ろから、そして内側からイチジ様を責め立て、さいなみ。
わき目もふらず街の方へと彼を走らせてしまったのだと、わたくしにはわかります。
「ホントにええかっこしいなんじゃから、あの小僧めが!」
ホンスさんが手綱遣いの荒さもそのままに、放り投げるようにして言い捨てます。
物言いはあれですが、このお方もイチジ様の身を本当に案じていてくれているのだということに、わたくしは不謹慎にも少しだけ嬉しくなります。
就寝中にたたき起こされ、すぐにでもイチジ様の後を追いたくて焦るわたくしにあれこれと捲し立てられ、事情もよく理解してはいなかったホンスさん。
ですが、こうやって今、避難どころかわたくしを乗せて荷馬車を駆り立ててくれている姿に、男同士、わたくしのあずかり知らないところで絆を深めていたんだなと感じます。
「なぁにが避難しろじゃ!自分の街のことくらい自分で面倒みれるわい!」
「確かにあれは爆発音でしたわ。それに、濃密な黒煙と真っ赤な炎。……ただの火事とは違う、もっと危険な何かだと、きっとイチジ様はそう直感的……あるいは経験的に感じたのでしょう」
「ふん!何かってなんじゃ!?そんなに自分の勘に自信があるなら、わざわざ危険に単独で突っ込んでいくんじゃないわい!もしも、その勘が当たっていたとして、あんちゃん一人で何ができる!?」
「……それでも、イチジ様は何とかしようとしているのですわ。おそらくは過去に同じような光景を目にして、そして何もできなくて。……その二の舞にだけはならないようにと……」
「過去か……ワシの半分も生きていないような若造に、一体どんな過去があったというんじゃ?」
「……わかりません」
「一緒に旅をしてきた相棒なのにか?」
「はい……はい、そうなのです。わたくし、あの方について何も知らないのです……」
「……危ういの、おまえさんら……」
危うい……確かにハンスさんの仰る通りなのかもしれません。
どんな人間かも知れない殿方と常に寝食を共にしてきたことに対してか。
それとも、そんなわたくしたちの関係性についての言及なのか。
いえ……おそらくはそのどちらもなのでしょう。
わたくしとイチジ様。
その関係は、あくまで加害者と被害者。
どれだけイチジ様が気にしないと言ってくれても。
わたくしも普段はあまり意識しないようにしていても。
やはり、どこか後ろめたさが付いて回っていたのは否定できません。
ホーンライガーとの戦いで見せた鮮やかな体術。
驚くほどに手慣れた野営の手際。
家族、恋人、趣味趣向。
何を見て、何を聞いて生きてきたのか。
何を見据えて、何に耳を澄まして生きているのか。
さきほどその一端をイチジ様は語ってくれましたが、所詮は末端の一端。
それもイチジ様が自ら歩み寄ってきてくれたからというだけのことです。
イチジ様をこの異世界に慣れさせるため。
その知識を得てもらうのが最優先というのを免罪符にして。
わたくしからイチジ様自身のことを尋ねるのを避けてまいりました。
そう、わたくしは避けてきたのです。
しつこく追及して嫌われたどうしよう?
踏み込んだことを聞いて空気が悪くなってしまったらどうしよう?
決して笑顔は見せてくれませんが、それでも微笑んでくれているような穏やか顔。
しょうがない奴だなと呆れながらも、ポンポンと頭を撫でてくれる優しくて穏やかな時間。
そんなすべてが。
そんな幸せな何もかもが。
わたくしが無神経にズカズカとイチジ様の心に踏み入ろうとした途端に、ガラガラ音を立てて崩れてしまうこと。
それが、わたくしは怖かった。
彼との心地よい関係が壊れてしまうのが本当に、本当に怖かった。
だって、そうでしょう?
何も知らなくてもイチジ様はイチジ様。
わたくしを庇うように前に立ってくれた頼もしい背中。
わたくしの未熟を諭して厳しくも優しく導いてくれた大きな手。
わたくしの作った料理を美味しいと褒めてくれた言葉。
わたくしが語る≪
まだ出会ってから一週間です。
互いに存在すら知らなかった彼とわたくしの人生が初めて交わったのは、つい一週間前なのです。
それなのに。
彼のすべてが、わたくしの心を震わせます。
彼のすること言うことのいちいちが気になってしまいます。
ええ、そうです。そうなのです。
わたくしは、一週間前。
自分の手で無理矢理に拉致してきた異世界の殿方に。
過去も今も、何一つ明確なことがわからないあの人に。
たぶん……いいえ、違いますわね。
この際、お茶を濁して胡麻化すのはやめましょう。
これは恋です。
わたくしは、ハッキリとキッパリと。
タチガミ・イチジに紛れもなく恋をしているのです。
ええ、そうです。そういうことなのです。
肉親以外の殿方と初めて密な時間を過ごした故の勘違いだ。
危機的な状況を共にくぐり抜けたことによる吊り橋効果なだけだ。
きっと、誰もがそう思うことでしょう。
こんなのでも一応は一国の姫君。
身元も住所も不定ならば、その存在ですらまだまだ不安定。
いつイレギュラーな事態が発生して消えてしまってもおかしくない。
そんな不良物件相手に、何を血迷っているのかと非難されてしまうことでしょう。
ええ、わかります。わかりますとも。
ご高説、ごもっともです。
ご忠告、痛み入ります。
……ですが、あえて言わせてもらいます。
しゃらくさいですわ。
勘違いで結構。
吊り橋効果?なにそれ美味しいの?
思春期乙女の純情、舐めるんじゃありませんの。
わたくしがいかに天才でも優秀でも。
次代を担う一国の誉れ高きプリンセスでも。
所詮は恋に恋するお年頃の真っただ中。
灰色の度合いが濃くっても、目下、青春時代の真っ盛り。
頼もしい年上の殿方に憧れて何が悪い?
ちょっと優しくされただけでコロっといって何が悪い?
自分との身長の開きにトキメキだって覚えます。
偶然手が触れ合っただけでドキドキだってしちゃいます。
他の女性とただ話をしているだけでムカムカだってきちゃいます。
ええ、もう、ホント。
隣の寝床に忍び込んで寝顔にキスをしてやろうと考えたのは一度や二度ではありません。
あの厚い胸板に顔を埋めてクンクンしたりベタベタしたりしたいと思ったのも二度や三度じゃききません。
ええ、もう、なんとでも言って下さいまし。
はしたなかろうが、恥ずかしがろうが。
後ろめたさがあろうが、関係の崩壊を恐れようが。
恋する16歳なんて、大体そんなものではありませんの?
そう、どんなお人でもイチジ様はイチジ様。
これまでの一週間、それこそ四六時中、一緒にいて、触れて、接してきて。
わたくしが自分で判断した末の結果。
そうです。
わたくしはイチジ様に恋をしているのです。
心からお慕い申し上げているのです。
ですから言いつけだって破ります。
ですから今こうやって人の良いお爺様を巻き込んでしまっています。
ですから……。
ですから……イチジ様?
「……どうぞ……どうぞ、ご無事で……」
わたくしたちを乗せた荷馬車が猛烈な勢いで坂を下っていきます。
愛しい人が走り抜けていったであろう。
何かを心に抱いて、何かに背中を押されて懸命に駆けていったであろう、その道を。
早く。早く。もっと早く……。
わたくしを、あの人のところへ……。
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