125.一年前よりも早く

 お兄様と殿下の戦いは、ギリギリの所で殿下が勝利を勝ち取った。手紙の続きが読めなかったことが少し寂しいような、人前で読まれずに良かったような、不思議な気持ちでいっぱいだ。


 二人が取っ組み合いの喧嘩に発展しそうになったのを止めたのは、他でもないお母様だ。騒がしくしていたせいで、何事かと慌てて来たそうだ。普段、私とお兄様ではドタバタと大きな音を立てることはないもの。驚いて当然と言えば当然だ。


 お母様は、本来居る筈のない殿下の姿を見て、絹を裂くような悲鳴を上げた。お母様の悲鳴によって、一触即発の二人も動くのをやめたのだ。悲しそうにひらりひらりと床に落ちた手紙を、そっと助け出したのは誰にも秘密。


 母は強し。と言うけれど、今、私達は三人並んで座らされている。私の右隣には殿下が、左隣にはお兄様が。お母様は目の前で仁王立ちだ。


「殿下がこちらにいらっしゃるとは、お聞きしておりませんでしたわ」

「突然の訪問に応じて貰い、夫人には感謝している」


 お母様の苛立ちを殿下はさらりと躱す。お母様の頬がヒクヒクと動いた。それもその筈、お母様は突然の訪問に応じた覚えなどないのだから。お母様からしたら寝耳に水。私にとっても寝耳に水なのだけれど。


「勿論、この事は王宮では周知のことでしょう?」

「ああ、今頃迎えの為の護衛と馬車が王宮を出たことだろう」


 お母様の眉根が寄る。私は隣でひたすらハラハラし通しだった。お母様のにこやかな笑顔が増すたびに、生きた心地がしない。お母様が怒っているのは誰の目にも明らかで、私はこの怒りをどう鎮めれば良いかずっと考えている。


 ちらりと隣に座るお兄様を見れば、我が事ではないと言わんばかりに、興味なさげに窓の外を眺めながら眺めていた。


 絶対にお兄様が殿下を呼んだ筈なのに、まるで人ごとだ。助けを求めるように、小さくお兄様の袖を引いた。すぐに振り返ったお兄様は、にっこり笑って私の頭をそっと撫でる。


 そういう意味ではないのだけれど。


「殿下は護衛の一人も付けずに、お一人でいらしたと言うことでしょうか」

「察しが良いな、夫人は」

「この様な遠方までお一人での行動は危のうございます」

「少し、羽を伸ばしたくなったんだ。許せ」


 羽を伸ばすにしても遠すぎる。お母様が何を言っても殿下は反省の色を見せない。お母様は殿下をジッと見つめた後に、大きなため息を吐いた。それはそれは大きなため息で、私達の前髪がふわりと浮きそうなくらい大きいものだ。


「わかりました。迎えが来るでの間、この屋敷でお寛ぎ下さいませ」

「夫人の心遣い感謝する。さあ、ロザリー。折角来たんだ。この辺を案内してくれるだろう?」


 殿下は待ってましたと言わんばかりに、素早く立つと、私に手を差し伸べた。手を取って良いものかと、お母様をちらりと見ると、お母様はもう一度大きなため息を吐いた。


「ロザリアは着替えて来なさい。そのような格好では、失礼ですよ」


 泣きはらしたせいで酷い顔だ。それに、袖は涙を沢山吸わせてしまったし、髪の毛も乱れている。酷い姿で、殿下の前にいることに気づいて、血の気が引く思いだ。


「私は気にしないが、ロザリーの違う格好が見ることができるというなら役得だな」


 殿下は小さく口角を上げると、私の頭をポンポンと撫でた。


 こういう時、どんな顔をして良いか分からない。緩む頬を叱咤するように、唇を噛み締めた。



 ◇◇◇◇



 殿下の言う『案内』なんて口実で、私達三人は別荘近くの池の周りで子供のように走り回った。「とびきりお洒落をしましょう」というシシリーの提案を断って。動きやすい格好にして貰って良かったと思う。


 秋の花を探してまわり、魚を見つけるために池の中を覗き込んだ。ふかふかの黄色い絨毯に寝転んだ時は、なんだか悪い事をしたような気分だった。だって、淑女はこんなことしないもの。そして三人で、背中にいっぱい付いた葉を払いあった。全部取れた所で、殿下に両手いっぱいの葉を掛けられてしまう。折角綺麗になった服にはまた沢山の葉がついてしまった。殿下を睨むと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべている。仕返しにと、スカートに葉を貯め始めた時は、お兄様と殿下に慌てて止められてしまった。


 沢山走り回って、笑い合う。それはなんだか、空白の六年を取り戻すようだ。私達の真っ白だった時間に色が塗られる。小さな部屋のベッドで寄り添った小さな双子の兄妹は、一人の王子様に腕を引かれて外に出ることができたのだ。


 お兄様が殿下と言い合いながらも楽しそうに笑っている。私に向ける笑顔とは全然違うの。いつも優しく微笑むお兄様の笑顔は大好き。


 でも、今の笑顔はもっと好き。


 私はお兄様と殿下の口喧嘩を見ながら、腹を抱えて笑った。嬉しくて、楽しくて、また勝手に涙が出てきたから。誤魔化すように、もう一度黄色い絨毯に寝転んで、うつ伏せになった。


 お兄様と殿下の心配する声が降ってくる。私は起き上がるのに手こずる振りをして、袖口で涙を拭った。


 心配そうに紫水晶の瞳が揺れる。きっと、お兄様の瑠璃色の瞳は騙せない。泣いたことを誤魔化したことが、知られてしまっているような気がする。


「大丈夫」と返事をする代わりに、とびきりの笑顔を向けた。


「お兄様、アレク。かくれんぼしよう」


 お兄様と殿下が目を合わせた。目で会話をするようにジッと見つめ合っている。いつの間にそんなに仲良くなったのか。二人の間でどんな会話が繰り広げられたのか、少し気になるところ。私の耳には一文字も入っては来なかった。


 相談は終わったのか、殿下が口角を上げる。


「クリス、栄えある最初の探し役――悪魔の役をお前に与えよう」


 かくれんぼは、セノーディアの子供なら誰もが知っている一般的な遊びの一つだ。悪魔役から最後まで隠れきれたら勝ち。単純な遊びだけあって、屋敷の中でもできるから、私達もシシリーやクロードを巻き込んで遊んでいた。


「ただロザリーの手を取って逃げたいだけでしょう? ロザリー、変なことをされたらすぐに声を上げるんだよ」

「クリストファー!」

「殿下、早く隠れないと日が暮れますよ」


 殿下の眉根がグッと寄る。気にせずお兄様が目を瞑り数を数え始めると、殿下は諦めたのか背を向けた。殿下の背中を見送ってから、逆側へと行こうと思っていたのに、彼は当然のように私の腕を掴んで歩き出す。


 声を上げれば逃げる方向がお兄様に伝わってしまう。あれよあれよと言う間に、殿下に木々の間に押し込まれてしまった。


「二人一緒だと、すぐに見つかってしまうよ?」


 かくれんぼの鉄則は、一人で隠れることだ。微かにお兄様の声が風に乗って流れてきた。まだ時間はあるし、私が移動すれば。と、立ち上がろうとしたけれど、殿下に肩を押さえられてしまう。


「大丈夫。すぐには見つからない」

「でも……」


 肩に置かれた手は力を抜いてはくれなかった。

そうこうしている内に、お兄様の声が途絶えてしまう。数え終わったお兄様は、私達を探し始めた頃だ。


 結局、殿下と二人並んで小さくなった。こうなったら少しでも小さくなって見つからないようにしないと。スカートの裾がはみ出してしまっては元も子もないと、裾を掻き集め、殿下にぎゅっと寄った。


 殿下が少し驚いたように目を丸くして私を見る。少し寄り過ぎてしまっただろうか。


「狭かった?」


 小声で声を掛けながら首を傾げると、慌てたように頭を左右に振っている。風に吹かれた木々のざわめきを聞きながら、私達は並んでジッとお兄様の気配が近づいてきていないか耳を澄ませた。


 まだ、こっちの方には来ていないみたい。


 ちらりと彼の横顔を伺うと、紫水晶の瞳がかち合って、ドキリと胸が跳ねた。今更になって、この距離が恥ずかしい。彼から視線を反らして、足元に向けた。


「アレク……今日はありがとう。お兄様が笑ってた」

「クリストファーが? いつも笑っているだろう?」

「ううん。いつもとは全然違う。アレクのお陰」

「双子にしかわからない違いかもしれないな」

「そうかな?」

「ああ、そうだよ」

「そっか。でも、ありがとう」


 触れる肩から熱が伝わってくる。暖かくて離れがたい。だから、「まだ見つからないで」と心の中で唱えた。


「ロザリー、覚えているか?」

「何を?」

「昔、庭園で君に求婚プロポーズした日のこと」

「そんな事、有ったかな?」


 庭園で遊んだことは何度だってある。お母様に連れられて、殿下に会いに行く時は、決まって庭園の花を見ていた。


 王子様に求婚プロポーズされたら忘れないと思うのだけれど。私は思い出せなくて、小首を傾げた。


「結婚してくれと言ったら、君に大泣きされた」

「嘘……!」

「本当だ」


 殿下は眉尻を下げて、肩を竦めた。彼の様子から嘘では無さそうだ。


「あの時は、先走って求婚プロポーズしたら、『皆がお兄様を取る』って泣かれて、途方にくれた」

「ああ! 思い出した。あの時はちょうど、お兄様と私に別々の家庭教師がついて、一人になるのが不安だったの。アレクのことが嫌いとかそういう意味ではなくて」


 慌てて、あの頃の言い訳を口にする。今更だというのに、弁明しなければと言う気持ちが優った。


「母には叱られるし、家庭教師には段階を踏まなければと言われるし、あの時は散々だった」

「ごめんなさい……」


 知らない内に悪い事をしてしまったようだ。素直に謝れば、殿下は頭を横に振った。


「良いんだ。あの時は俺が悪い。だから、仕切り直しをさせてくれ」


 殿下の熱い手の平が、肩に置かれた。思わず身を震わせてしまう。けれど、殿下は気にした様子は見せなかった。


「……仕切り直しって?」


 顔を上げて彼を見ると、瞳が真っ直ぐに向けられる。


「手紙は、どこまで読んだ?」

「えっと……かくれんぼをして……あと一枚ってところまで」


 続きを読む前に、本人が来てしまったのだ。


「そうか。……花束は今度用意する」

「……うん」


 手紙のことを言っているのだろう。手紙にも書いてあった。花束を持って私を見つけると。


 肩に置かれた手が離れていって、ほんの少しだけ寂しい。彷徨う彼の手を追いかけると、宙で揺れていた私の手を捉えた。寒くもないのに、手から直に伝わる熱に肩が震える。


真っ直ぐに向けられた瞳は、私の何もかもを映し出す。少しの気恥ずかしさと、胸に秘めた期待。そして、恋心。


「ロザリー、君のことが好きだ」


 私達の髪を弄んでいた風がやみ、空気が止まった。近くの池の魚が跳ねた水音がしなければ、時間が止まったのかと錯覚しただろう。


 もう、紫水晶の瞳に映る私がどんな顔をしていたかなんて、確認することは出来ない。長い睫毛も、サラサラと風に揺れるプラチナブロンドにも目を向けることができず、私は視線を落とす。けれど、次に目に入ったのは形の良い唇で、何故か胸が跳ねた。


 握られた手を見るのすら恥ずかしくて、逃げるように宙を彷徨う。いつまでたって居場所を見つけられずにいると、殿下の肩が揺れた。


「今更そんなに動揺する必要もないだろう?」

「だって……!」


 初めてなのだ。ロザリアとして、彼の好意を真っ直ぐに向けられるのは。頬が熱を持っている。きっと、殿下の手よりもずっとずっと熱い筈だ。


 私の手から離れた彼の手の甲が、私の頬に触れる。


「熱い、な……」


 確かめるように頬を滑る手が恥ずかしくて、更に熱が頬に集まった。胸の音が耳元で鳴っているみたいに強く速く走る。


「ロザリーは?」


 覗き込むように紫水晶が私の瞳を捕らえた。今、そんなこと聞かないで欲しい。口を開けたら、心臓が出てしまいそうなの。


「ロザリー?」


 それでも追い打ちをかけるように、彼の瞳が近づいた。


「好き……私も。好きだよ」


 震えた声が尻すぼみになりながらも、最後まで出し切ることができたと思う。その証拠に、彼は嬉しそうに笑った。


 口から出なかったものの、まだ心臓は大きな音を立てて走っている。すぐ近くにいる彼の耳にも届いているのではないかと、気が気じゃない。


 胸の音を落ち着かせる為にも、もう少し彼から離れたいのに逃げ場もなくて、私はまた視線を泳がせた。恥ずかしくて、逃げるように顔を反らしたけれど、呆気なく彼の手に阻まれて紫水晶の瞳の中に戻されてしまう。


 彼の長い睫毛の本数を数えることも叶わなくて、私はそっと目を閉じた。彼の存在をすぐそばで感じる。この後、唇と唇が重なることは容易に想像できてしまって、恥ずかしさに小さく震えた。


 けれど、彼の熱を感じるよりも早く、大きな音が襲う。


「みーつけた」


 突然の声に、今日一番大きく胸が跳ねた。そのまま止まってしまうのではないかと思った程だ。胸と一緒に肩も跳ねたと思う。


 慌てて後退りながらも振り返れば、お兄様が草を掻き分け、にっこりと微笑んでいる。お兄様は、私をそっと引き寄せると私の肩を抱いた。


 まだドクドクと心臓が駆けていて、どうして良いかわからない。両手を胸に当てたけれど、どうにもならなさそうだ。


 殿下は苦虫を噛み潰したような表情で、お兄様を睨む。


「……くっ……お前、悪魔か?」

「ええ、悪魔役を仰せつかっております。それで、殿下? 後で、特別に私が段階・・というものを教えてさしあげましょう」

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