126.壁一枚

 三人で日が暮れるまで遊び倒した後は、部屋の中でチェスをした。お母様に怒られなければ、きっと朝まで遊び倒していただろう。


 夜半になって「殿方と夜中まで遊ぶなど、はしたない!」と目を吊り上げたお母様によって、半ば強制的にお開きとなった。その後も、私は興奮が冷めなくて、なかなか寝付けない。


 壁一枚隔てた先に殿下がいる。そう考えただけで、どうしようもなく胸が騒ついた。


 小さな別荘に用意された客室は少ない。一番大きい客間が、たまたま隣の部屋だったのだ。


 彼が触れた場所がまだ熱を持っているような気がして、何度も肩をさすった。勿論そんなことはなく、いつもの私の体温だ。落ち着かない気持ちを表すように、広いベッドの上で何度目かの寝返りを打った。寝返りを打つたびに昼間のことを思い出す。


 目を瞑り、夜に溶けようとする度に、触れそうで触れなかった唇が脳裏をぎる。その度に胸が高鳴って、今夜は寝付けなさそうだった。


 少し頭を冷やそう。


 裸足のままベッドから降りると、部屋の大きな窓を両手でゆっくりと開ける。キィと小さく音がなるものだから、誰かが起きてきやしないかとヒヤヒヤした。思わず後ろを振り返って扉を凝視する。けれど、扉の向こう側からは誰の足音も聞こえてはこなかった。


「ロザリー?」


 思わぬ場所から名前を呼ばれ、心臓が飛び跳ねる。声の主は窓の外。聞き慣れた声に右を振り返れば、声の主はすぐ隣にいた。


「アレク?」


 まだ心臓が落ち着かない。頭を冷やす為に外の空気を浴びたのに、先程よりも熱が上がってきたような気さえする。


 殿下も同じように眠れない夜を過ごしていたのか。私と同じように窓を開けて、秋の風を浴びていた。


「ロザリーも寝付けなかったのか?」

「……アレクも?」


 殿下は答える代わりに、肩を竦めた。長い夜の熱に参りそうだった気持ちは、彼の横顔でいとも簡単に取り戻す。なんて単純な心なのだろうか。


 私達は隣で並んで夜空を見上げた。丸い月が、私達を照らす。何度も共に月を見上げたのに、今日の月は一際眩しく見えた。秋の風が私の頰を掠め、殿下の前髪を攫う。風に乗って私の熱や胸の高鳴りが伝わってしまうのではないかと、ひやひやした。


「髪、伸びたな」


 彼の言葉に我に返って頭を触る。眠るためにカツラを外した後だ。髪の毛に沿ってなぞれば、首元でするりと抜けた。


 北の領地で暮らし始めてから伸ばし始めた髪の毛は、どうにか顔の輪郭を隠す程になっていた。それでも、元を思えば些細な変化だ。


「まだまだ、カツラ抜きの生活には程遠いですけど」


 人前に出るには短すぎる。こんなに短い髪をした女の子を、私は見たことがなかった。自嘲気味な笑うと、殿下が眉根を寄せた。


「短い髪も似合っている」

「でも、男の人みたいでしょう?」

「そんなことはない。そのまま外に出たって可笑しくはない」

「まさか!」


 こんな短い髪の毛に、ドレスを着て舞踏会に出たらどんな陰口を言われるかわからない。想像するのは容易い。少し離れた所でこそこそと耳を寄せ合う人の姿。あからさまな軽蔑の視線。


 髪を切ることを選んだのは私。だから私が軽蔑されるのは構わない。けれど、家族や殿下に火の粉が降りかかることを考えるとカツラを外すことは考えられなかった。


「我が国には『女性は髪の毛が長くなくてはならない』なんていう法律はない。もっと自由に切って良いものの筈だ。皆何故、長さに固執するんだろうか?」


 殿下は難しい顔をして夜空を見上げる。執務室で良く見る顔だ。口の中でブツブツと呪文を唱え始めた。少し離れた私の耳には、言葉としては届かない。何を考え始めたのかと、眺めているとふと殿下が視線を向けた。


「クリスはどう思う?」


 これは、私に聞いているのだろうか?


 私の知っている『クリス』と言えば一人しか居ない。――私だ。けれど、思わずお兄様に話しかけたという可能性もあるだろうか。


「いや……すまない」


 殿下は二度、目を瞬かせると、バツの悪そうな顔をして、片手で口元を覆ってそっぽを向いてしまった。


 殿下の耳が朱に染まっているのは気のせいだろうか。本当のところは暗がりで、良く分からない。


 殿下も間違えることがあるのかと思うと、急に笑いが込み上げてくる。笑い声が抑えきれず、私小さく声を出して笑った。


「ロザリー……」

「すみません。だって」


 咎めるような声が耳に入る。けれど、間違えたのは彼だ。頑張ってみたけれど、笑いが止まらなくて、声を殺せば肩が揺れる。一頻り笑うまで、私の肩の揺れはおさまらなかった。


 笑いがおさまると、コホンッと小さく咳払いをして背筋を伸ばした。


「失礼しました。長い髪の理由でしたっけ?貴族の矜持、富の象徴、女性らしさの定義。この辺りでしょうか」


 揶揄からかう意味も込めて、クリスらしく答えてみれば、殿下の眉根が少しだけ寄った。


「だから悪かったと言っているだろう?」


 予想通りの反応に、もう一度声を殺して笑ってしまった。私の笑いを止めるように、殿下が少し大きめの咳払いをする。本題に戻る合図に、私は笑うのをやめ、背筋を伸ばした。


「貴族の矜持、富の象徴、女性らしさの定義……どれも曖昧だな。そんなもの、王太子妃になる予定の公爵家の令嬢が変えれば、皆手のひらを返すと思わないか?」

「私が変える?」

「そう、君が変える。君の髪が長くても短くても、ウィザー家の富は揺るぎないのは明白だろう。それに、髪が短くても充分ロザリーは魅力的だ。長くなければ女性らしくないとは思えない」


 真面目な話をしている時に、さらりと褒められて、なんと返して良いのか分からない。俯いて、小さな声で「ありがとう」と言った。秋の風が私の声を乗せて、殿下の元まで届けたのかはわからない。


 常識を変える、か。長い髪が当たり前の世界に短い髪もおかしくはないと思わせる。それって簡単に言うけれど、難しいと思うのだ。


 私だって短い髪で表に出ることに不安を感じている。


「でも、短い髪の姿を俺だけが知っているというのも悪くないな」


 殿下の小さな笑い声が風に乗ってやってきた。悩みを消し去るような、調子の良い笑い声だ。


「変なの」

「変かな?」

「変だよ」


 願うことなら、月明かりがこの瞬間だけ弱まりますように。熱くなった頬を隠す為に。


 願いを込めて丸い月を見上げた。けれど、空気の読めない満月は、いつもの調子で空に佇んでいた。


「短い髪で舞踏会に出るのは不安。私もずっと長い髪が常識の世界で生きてきたから。けれど、いつかカツラで隠していたとしれてしまったらと思うと、それも不安」


 十分な長さになるまで、毎朝鬘を被る生活は余り建設的な方法とは思えなかった。これから社交界に出ることを考えれば、伸びるまで屋敷の中で丸くなっているわけにもいかない。


 下手をして鬘だと知られてしまっては、元も子もない。それなら一層のこと、短い髪を見せて歩いた方が気が楽だろうか。


「そんなに不安か?」

「うん、不安」


 誰かに悪く言われるのはとても怖い。一度短い髪で外に出てしまえば、後悔しても鬘を被り直すことは難しいだろう。


「ロザリーには、頼りになる父も優しい母もいる。それに、クリストファーも。何も不安に思うことはない」

「うん、そうだね」

「それに、これからは俺が君を守るから」

「……うん」


 紫水晶の瞳が月の下でキラキラと輝いて、真っ直ぐに私を見ている。嬉しくて、でも、恥ずかしくてすぐにでも目を逸らしたい。けれど、月明かりに照らされた紫水晶がとても綺麗で、吸い込まれるように見つめ返した。


「憎いな」


 殿下がポツリと呟いた。わけも分からず、首を傾げる。すると、殿下は窓枠に置いていた手を窓の外、私の方へと伸ばした。


「遠い」


 彼の短い一言に、私は目を見開いた。遠すぎる距離ではない。隣の部屋。壁一枚しか隔たれてはいないのだから。けれど、窓と窓の距離は絶妙で、手を伸ばしても届かない。届かないとわかっていて、私も身を乗り出して一緒になって手を伸ばした。

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