113.青薔薇の貴公子8
マリアンヌはその後、呪いが解けたようにダンスに興じた。今までのことが嘘のように、彼女に集まる誘いに一つ一つ丁寧に答えている。時折寂しそうな表情を見せる彼女に、私は不安で一杯になったけれど、この先の彼女の物語には偽物の王子様も悪い魔法使いも出てはこないだろう。
一つの恋の物語を終わらせたお姫様の新しい物語は、本物の王子様が現れた時に一頁目が描かれるのだから。
会場の視線がダンスホールに向いている間に、私は人知れず会場を離れた。
馬車寄せが埋まる前に、私は迎えの馬車に乗り込まなければならない。そして、屋敷には戻らず隣街の宿まで向かうのだ。
アカデミーに備え付けられた大きな置時計は、約束の時間がまだ先であることを示していた。
けれど、これ以上会場に居たら愛着が沸いてしまって、時間通りに離れられないと思ったのだ。夏の風が悪戯のように、会場の音楽や笑い声を乗せて私の所まで届ける。小さく漏れ聞こえる曲は、今流行りの曲。誰かが口ずさんでいるのを聞いたことがあった。目を瞑れば、皆の笑顔が脳裏に浮かぶ。後ろ髪を引かれる思いを断ち切るのには、まだ時間が掛かりそうだ。
「楽しかったな」
ぽつりと零した言葉は、夏の風がどこかへ持っていった。月夜の静けさと、風の優しさは今までのことを思い出すには十分で、私はゆっくりと息を吸い込んだ。
「何が『楽しかった』だ」
気持ちがまだ会場にいるからだろうか。殿下の声まで鮮明に響く。まるで近くで声を掛けられているようだと、私は自嘲気味に笑った。
「感傷に浸っている所悪いな、クリス」
ポンッと肩に手を置かれて、私は目を見開いた。一番に目に入ってきたのは、夜空に浮かぶ満月だ。雲のドレスを着こんで、星屑とお喋りに興じている。けれど、今はそんなものに目を奪われている場合ではない。肩の重みに視線を這わせれば、すぐ側で殿下が少し眉を寄せて私を見ていた。
その声は幻聴の類いではないらしい。そして、私が夢幻を見ているわけでもないようだ。肩にはしっかりとした感触がある。紫水晶に映し出されている私は、驚きのせいかだらしなく口を開いていた。
「アレク?」
何故ここに?
なんていう安易な質問は彼の小さなため息によって抑えられた。「少し考えれば分かるだろう」とでも言われそうな質問をしなかったのは幸いだ。けれど、その代わり首を傾げることにした。今頃どこぞの令嬢とダンスにでも興じているか、会話でも楽しんでいると思っていたから。私が会場を抜けた時には、数人と楽しそうに話をしている姿を目にしている。まさか、私の後を追ってくるとは思いもしなかった。
「令嬢達とは別れを惜しむのに、ずっと近くにいた友人には別れも言わずに消えるなんて、酷いと思わないか?」
「それは……」
今更、というと語弊があるけれど、殿下に改めて別れの言葉を伝える必要は無いように感じたのだ。けれど、事情を知っているとは言え、数か月離れるわけだから、挨拶も無しに去るのは失礼だった。私は反省と共に、眉尻を下げる。気分を害させたと思いきや、彼は「まあ、いいさ」と呆れたように笑った。
月明りが彼のプラチナブロンドを照らす。彼は私の前に立つと小さく口角を上げた。
「別に怒ってはいない。これは私の自己満足だ。だから付き合え」
「いえ、私の方こそ申し訳ありませんでした」
私が頭を下げれば、「気にするな」と殿下は首を振る。顔を上げれば、優しい笑みに迎えられてしまった。
「『さようなら』だ。クリス。世話になった」
「いいえ、私の方が沢山助けられました」
言うまでもなく、友としてもロザリアとしても殿下にはこの一年と少しの間、沢山支えられ助けられてきた。思い返せば切りがない程だ。
「ありがとうございます」
最後まで、彼はこうして私をクリスとして扱ってくれる。それだけでも頭が上がらないというのに、彼はいつも私のことを守ってくれる王子様だ。あんなに本を読んで勉強した王子様も、本物には敵わないのかもしれない。
「その……なんだ、ロザリーに伝えて貰いたいことがある」
ロザリー。つまり、私にということだろうか。私は小首を傾げた。
「何でしょう?」
「『待っている』と」
殿下は少し恥ずかしそうに、唇を歪めるとそっぽを向いてしまった。ほんの少し耳が赤らんでいるような気がするのは気のせいだろうか。
彼の短い一言に、浮足立つ。言葉に込められた意味を感じていると、自然と頬が緩む。そんなだらしのない顔が最後になるのはさすがに惜しくて、私は唇を強く結んだ。
「畏まりました。お伝えいたしましょう」
私は恭しく胸に手を当てると礼をすれば、その姿に殿下は少し笑うと大きく頷く。
「よろしく頼む。あと
敢えて「クリストファー」と呼ぶと言うことは、私ではなくお兄様を示しているのだろうか。私は小首を傾げた。
「『お前の代わりはいない』」
真っ直ぐに伸びた紫水晶が、私の瞳を通してお兄様に向けられたような気がした。その言葉、しっかりとお兄様に伝えよう。私は大きく頷いた。
「はい」
冬にはお兄様と殿下が並んでいる姿が見ることができると思うと、何だかとってもわくわくする。きっと王宮でも夜会でも皆の注目の的だ。想像するだけで胸が熱くなった。
私はそんな彼らの側にいても良いだろうか。お兄様と殿下と私。三人で王宮の庭園を見て回った日のことを思い出す。あの日はとても楽しくて、次の約束が叶う日を指折り数えたものだ。
殿下の言葉を早くお兄様に伝えたい。
このわくわくとドキドキを共有したいと強く思えば、遠くから
ウィザー家の家紋を背負った馬車が近づいてくる。
「迎えが来たようだな」
約束よりも少し早い迎えに、私は喜んで良いものか気落ちすべきか悩ましい。けれど、これ以上ここに居れば、「もっと」という気持ちが膨らんでしまうだろう。だから、丁度良かったのかもしれない。複雑な気持ちを胸に抱きながら、彼に笑顔を返した。
馬車は、私達のすぐ側で止まる。
軽やかな足取りで降りると、私の奥に殿下の姿を見つけたのか、慌てて姿勢を正す。きっと、他に人がいると思っていなかったのだろう。その様子があまりにも可愛らしくて、私は思わず笑ってしまった。
「クリストファー様、お迎えに上がりました」
シシリーは腰を曲げて綺麗な挨拶を見せる。何事も無かったような態度ではあるけれど、内心とても焦っている筈だ。そんな彼女の心情を想像してしまって、私は肩を揺らしてしまう。
笑いを堪えられずにいると、シシリーから物言いたげな目を向けられた。彼女にしてみれば、目の前に王太子殿下が突然現れたのだから一大事だ。笑っては可哀想。
私は小さく咳払いすることで、どうにか笑いを鎮めることに成功した。殿下は呆れ顔で私を見たけれど、シシリーの行動を咎めたりはしない。気にした様子もなく、私を方を見た。
「本当の本当に、これで最後だな。もうクリスに会えないと思うと少し寂しい気もする」
「そうですね。私も少しだけ寂しい。けれど、きっと『クリス』消えたりしません」
私はにっこりと笑って見せた。今日が終われば一年半も連れ添った『クリス』とはお別れだ。けれど、そんな単純な話でもない。
「
「そうだな。そうなると……一生の付き合いになりそうだ」
殿下は肩を揺らして笑った。私は彼が「一生」を当たり前のように言った事に嬉しくて、目頭が熱くなるのを感じた。誤魔化すように一緒になって笑ったけれど、誤魔化せただろうか。
「ならば、『さようなら』は撤回しよう。クリス、またな」
「はい。また冬にお会いしましょう」
私が深々と礼をすると、彼はくるりと背を向けた。彼が建物に消えていくまでの間、私は夏の風を感じながら静かに彼の背を目で追った。
遠くから、楽しそうな音楽が聞こえる。本当なら盛り上がるのはこれからで、今頃投票の結果が発表されて、ラストダンスを披露する二人が決まっている筈だ。
ラストダンスは折角企画したというのに、結末をこの目で見ることができない。それは、とても残念なことだと思う。アンジェリカに後でどうだったのか聞かなくては。こういう時、殿下はあてにならない。絶対に「覚えていない」と首を振りそうだ。
最後に私はゆっくりと息を吸い込む。楽しい思い出と共に、暖かな空気が身体中を包む。
そして、私は姿勢を正すと、右手を胸に深々と頭を下げた。
「ありがとう。そして、さようなら」
私の声は、夏の風に乗って会場まで届いただろうか。『クリストファー』の最後を見送ってくれたのは雲のドレスで着飾った満月と、お喋りが大好きな夏の風。そして、紫水晶の宝石だけだった。
芸術祭編 了
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