双つの青薔薇編

114.偽りの終わり

 満月は、どこに行っても丸い形をしている。私は馬車の窓から何度も見上げた。着ていた雲のドレスを脱ぎ捨てて、満月は本当の姿を見せている。美しい月を讃えるように、星屑がキラキラと揺れていた。夜空も舞踏会で忙しいのかもしれない。


 私の何度目かの欠伸あくびは、狭い馬車の中に容易く広がる。


 長距離移動を考えた馬車の揺れは比較的少ない。それでも、不規則な揺れは不快感となり眠気を飛ばすもの。けれど、朝から大忙しだった私には、そんな揺れすらも揺り籠と変わりない。揺れる度に襲う睡魔に勝てるだろうか。


 馬車にはお兄様とシシリーと私。お母様は演劇を鑑賞した後、すぐに屋敷を出ている。本当はお兄様もお母様と一緒に出る予定だったけれど、わざわざ私を待っていてくれたようだ。


 取り換えっこも今日で終わりだというのに、相変わらずお兄様は『ロザリア』の顔をして出迎えてくれた。もう私とシシリーしか見ていないのに、「最後までやり通さないと」と笑うお兄様に私も背筋の伸びる思いだ。


 馬車の中で今日有ったことを報告すれば眠気も飛ぶだろうと考えて、私はひっきりなしに今日のことを話した。けれど、疲れには勝てないようで、私の口からはまた大きな欠伸が溢れてしまう。


「今日は疲れたでしょう? 到着まで眠っていて」


 お兄様は優しく笑うと、私の頭を引き寄せて肩の上に乗せてしまった。「大丈夫」と返そうとしたけれど、それに気づいたお兄様は小さく頭を横に振るだけ。


「私は夕刻まで休んだから、眠くないの。ね?」


 お兄様はもう一度笑う。馬車の揺れとお兄様の温もりそれだけでも眠るには十分だというのに、シシリーが正面から柔らかなブランケットを私の上から掛けた。そうなると、もう抗うのは難しくて、私の瞼はもう一つの世界へと向かう為の準備に取り掛かってしまう。


 次に私が瞼が開いたのは、隣町の宿屋の前に到着した時だった。それまで私の重い頭をずっと支えてくれていたお兄様は、隣で何事もなかったかのように笑う。


 随分ぐっすりと眠ってしまったらしく、体がギシギシと音を立てる。馬車から降りながら、私が首や肩を回していると、シシリーがくすりと笑った。


 私のクリスとしての最後のエスコートはお兄様。


 当たり前のように、馬車から降りるお兄様に手を差し伸べれば、お兄様は目を丸くする。思えば、お兄様と馬車に乗るのは、入れ替わってから初めてのことだから当然かもしれない。今では当たり前の様に手を差し出すようになった。『クリストファー』が板についた証拠だ。けれど、それもこれが最後だと思うと感慨深い。


 私の気持ちを汲んでか、お兄様は嬉しそうに礼を言うと、淑女らしく私のエスコートで馬車を降りた。深夜だというのに、宿屋の主人が直々に出迎えてくれ、部屋まで案内してくれる。朝にはすぐに発ってしまうから、寝るだけの仮宿。けれど、寝るだけのベッドが置かれたような部屋ではなく、ソファーやテーブル、調度品なども置かれ、屋敷の客間と遜色なかった。


 部屋では先にいらしていたお母様と、侍女のメアリーに笑顔で出迎えられる。こんな遅くまで起きて待っていてくれたことに、少しの申し訳なさと、嬉しさが込み上げてきた。


「明日も早いですから、準備をして眠りますよ」


 私達はもっともっと北に行く。ウィザー家が管理する領地の中では最北端。自然豊かな避暑地だという。そこには小さな別荘があって、人知れずデビューの準備をするにはもってこいだとお父様は言っていた。


 その小さな別荘で秋を過ごした私達は、冬の舞踏会でクリストファーとロザリアとして、本当の意味で社交界にデビューすることになる。


 私は一夜限りの仮宿をぐるりと見渡した。窓から入る月明りと数か所に灯されたランプが部屋を照らす。大きなベッドが一つ。他にも部屋はあるみたいで、皆別々に眠ることになるらしい。


 広い部屋にお母様とお兄様と私。そして、側にはシシリーとメアリーが控えていた。お兄様が小さく指示を出すと、シシリーが大きな鞄の中から布に包まれた長細い何かを取り出す。シシリーの手からお兄様の手に渡る。


「お兄様、『ロザリア』をお返しするわ」


 お兄様の微笑みは、ランプの明かりに溶けそうな程温かく優しい。ずっしりと重たい何かが私の手に乗せられた。――ナイフだ。


 あの日を思い出す。


 お父様にもお母様にも、シシリーにさえも隠して計画した月夜の儀式。その日の月と双子みたいにそっくりな満月が今、この部屋を照らす。すっかり伸びたお兄様の髪の毛は、後ろで一纏めにされた。


「私が切るの?」

「勿論」


 きっとメアリーに切って貰った方が綺麗だし、安心だ。だというのに、こんな大役を私に任せるなんて。


「私はお兄様が良いの」


 お兄様の押しに負けて、私は椅子に座るお兄様の後ろに立った。月明りがお兄様の飴色の髪の毛を優しく照らす。後ろに立てば、何だか本当に女の子の髪の毛に刃を入れようとしている気分になって胸がざわついた。


 お兄様もあの日、こんな不安と戦っていたのだろうか。私は手元のナイフをジッと見つめる。


 私がなかなか手を動かさないものだから、お兄様はしびれを切らして振り向いた。


「あの日と違って、元に戻るだけ。何も怖いことなんてないよ」


 お兄様の笑顔は暖かくて、そして優しくて。私の胸まで温かくなっていく。「大丈夫」というお兄様の言葉に私が一つ頷くと。お兄様はまっすぐ前を向いた。折角伸ばした飴色の髪に、手をかける。


 ナイフが月明りにキラリと光って、私が今何をしようとしているのかを知らしめた。私は震えそうになる手に力を込めながら、少しずつ飴色の束に刃を入れていった。


 最後の一房に刃を滑らせると、纏められた飴色の髪の毛は、お兄様から離れて私の手元で揺めく。お兄様の優しさが詰まった髪の毛が、月明りに照らされて優しく輝いていた。


 お兄様の髪の毛は私の手からシシリーに。シシリーはお兄様の髪の毛を柔らかな布で包むとナイフと一緒に大きな鞄にしまった。私はただそれを呆然と見守るばかり。なんて呆気ない。けれど、私の時もそうだったのかもしれない。


長い髪を切った時、私にとっては人生最大の出来事だった。思い返してみれば、ただ髪を切って終わりだもの。あの日もきっと記憶しているより呆気ない出来事だったに違いない。


次の出番は私と言わんばかりにメアリーがお兄様の後ろに立つと、お兄様の髪の毛を綺麗に切りそろえていった。


「お兄様みたいな王子様にして下さいな」


 お兄様がメアリーに笑顔で言うと、メアリーとシシリーは顔を見合わせて楽しそうに笑った。


「やっぱり双子ですわね」

「さすが双子です」


 どうやらあの日の私も同じことをお願いしていたらしい。良く覚えていない私は、首を傾げるばかりだ。メアリーの手で、私と同じように切りそろえられていくお兄様の髪をぼーっと眺めていると、瞼がまた重さを増していった。床にはらりと落ちる飴色の髪の毛。目で追う度に、かくんっと頭まで落ちる。


「先にお休みになられますか?」


 心配そうに私の側に寄ってきたのは、シシリーだった。周りを見えれば、椅子に座ったお兄様も、髪の毛を整えていたメアリーも。側で一緒に見ていたお母様も私のことを心配そうに見つめていた。


 私は大きく頭を横に振る。少しでも眠気を飛ばす為に。


「大丈夫。最後まで見ていたいから」


 私の言葉に誰も苦言を呈することはなかった。はらりと髪の毛が落ちる度に瞼が落ちて、何度ともなく己の頬を強く摘まんだ。


 すっかり『クリストファー』の姿に戻ったお兄様が現れる頃には、頬が真っ赤になっていて、冷やした手拭いが頬に当てられてしまう。お兄様は苦笑いで私の頬を何度も撫でくれた。


「待たせてしまってごめんね」


 瑠璃色の瞳が優しく揺れる。私はこの瑠璃色の瞳が大好きだ。私と同じ色をしているのに、私の持っているそれよりも優しく輝いているから。


「『ロザリア』を返すよ」


 お兄様が私の髪の毛に触れた。もしもこの世界に魔法が存在するならば、きっと私の髪はこの一瞬で腰までふわりと伸びたのかもしれない。けれど、そんな御伽噺のようなことが起こる筈もなく、お兄様の手は、首筋でするりと宙に放り出される。


 涼しい首筋は涼しいまま。お兄様はすっかり『クリストファー』に戻っていたけれど、私は服装も髪型も『クリストファー』のままだから、何だか実感が沸かない。少しずつ『ロザリア』が私の中に戻って行くことを期待して、私はお兄様に笑顔を返した。


「今まで『ロザリア』を守ってくれてありがとう。お兄様」


 その日私達はお母様の駄目だというのにも関わらず、同じベッドで横になった。私の不安を埋めるように、お兄様の温かい手が私の手を包みこむ。


 私は、『ロザリア』に戻った。けれど、どこかぽっかりと穴が開いている。その穴の埋め方がわからなくて、朝になるまで私はお兄様の温かい手に何度も縋った。

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