102.魔法2

 ずっとクリスであり続けた私は、きっと昔の『ロザリア』とは違うものになってしまった。十六年間のたった一年と少しの時間だったにも関わらず、クリスという存在はしっかりと私の中に根付いたと思う。


 今の私は『アレクの友』で、そして私の中には確かに『アレクセイ様を好きな女の子』がいる。そのどちらも正真正銘、私だ。


 きっと『クリストファー』をお兄様に返したとしても、私の中にはクリスが残り続けるだろう。


「ねえ、アレク。私は我儘だから、これから先も貴方の友でありたい。そして、貴方のつ――」


 殿下は私の言葉を遮るように、私の口を押さえた。遠慮なしに力いっぱい大きな手を押し付けられる。突然のことで私は目を見開いて抗議したけれど、彼は眉をしかめるのみだ。


「それ以上は駄目だ」


 何で!


 叫びたくても口を塞がれていて声にならない。もごもごと言葉にならない声が漏れ出るだけだった。熱い手がこれでもかという程熱くなる。悩むように紫水晶の瞳を泳がせた後、彼は唇を一度噛み締めた。


「……求婚プロポーズをする権利くらい、俺にくれ」


 殿下は困ったように笑い、気恥ずかしそうに視線を反らした。思わぬ言葉に頬が熱くなるのを感じる。私は小さく頷くことしかできなかった。


 私が一つ頷くのを見てか、口を覆っていた手がゆっくりと解かれ、大きなため息と共に離れていった。まだ頰が熱い。きっと殿下の手の熱さが移ったせいだ。手の甲を頬に押さえつけると、更に熱が増したような気がする。


 殿下の真っ直ぐな瞳に、私は不安と期待とが入り交ざって胸が締め付けられる。彼の瞳に映る私は、どんな姿をしているのだろう。


 六年前に彼が見ていた私とはきっと違う。六年間、小さな世界に隠れ続けただけでもすっかり変わってしまった。その上、クリスになった私を見て尚、好きでいてくれるのか。


 彼が恋した女の子は私の中にまだいるの?


 そんなことを聞けば、笑い飛ばしてくれるのだろうか。それとも困らせてしまうのだろうか。今の私にはまだ分からない。本当は「やっぱり思っていた子と違った」と言われてしまうのではないかと、不安で仕方ない。


 だから、私は臆病な心を隠すように、クリスの仮面をしっかりと被った。


「さあ、アレク。友として、貴方のことを教えて下さい」


 私は誤魔化すように出来るだけ無邪気に笑った。不思議だ。『クリストファー』になると、何でもないことのように思えてくるのだから。私は輝きを失っている紫水晶を覗き込む。殿下は少し難しそうに眉を寄せた。僅かに私から視線を外す。長い睫毛が何か言いたげにふるりと震えた。


「今回のことで分かったことがある」


 渋々口を開いた殿下は、椅子に深く座り直すと、背もたれに寄りかかった。そして、天井を仰ぎ見る。


「何でしょう?」

「俺は無力だ。たとえ、王太子の仮面を付けようとも。今まで貯めてきたツケが回ってくる」


 私のところからでは、殿下の顔までは良く見えない。けれど、その声色は少し疲れていて私を不安にさせた。私のいない短い間にどんなことがあったのだろう。このままでは、おちおち屋敷で寝てもいられない。


 思い立ったが吉日と言わんばかりに屋敷を出て来て正解だった。


 私は殿下の隣に座りなおして、同じように天井を見上げた。落ち着いた無地の天井には、所々染みができている。お父様やお母様がこの天井を見上げた時は、真っ新だったのだろうか。


「六年のツケは大きいですか?」

「ああ」

「逃げ出したくなるくらい?」

「そうだな。逃げられたら楽かもしれないな」


 殿下は天井な顔を向けたまま、小さく笑った。もしも、彼の手を取って全てから逃げ出したら、彼は本当の意味で笑ってくれるのだろうか。誰も知らない地で、二人きりになった時に。


 きっと、彼は苦しむのだろう。己の責務を放棄したことに。苦しむ顔が安易に想像できる。その顔を見て、私も同じように悩むのだ。今みたいに。


 全て投げ出すことだってできた筈の芸術祭に向き合っているくらいだもの。彼が自分に与えられた責務から逃げ出すなんて無責任なことはしない。


 なら、私はどうしたら彼を助けてあげられるのか。


 天井を見ても答えは書いていない。沈黙が部屋を支配した。なんと声をかけるべきか、私が考えていると、彼は小さく息を吐き、椅子から勢いよく立ち上がった。


「でも、逃げない。これ以上かっこ悪い姿を見せたら、求婚プロポーズする前に嫌われるかもしれないからな」


 胸が跳ねる。私の不安を見透かされているような気がした。嫌われてしまうと不安がっているのは私の方なのだから。


 私からは殿下の背中しか見えなくて、どんな顔をしているのかとても気になった。どうしても確かめたくて、私は追うように立ち上がって彼の隣に向かった。けれど、隣に立つ前に殿下が私の方を振り返る。


 そして、彼は口角を上げた。まるで、先程までの悩ましい姿など夢か幻かと思わせる程に不敵な笑みだ。


「だから、力を貸してくれ。クリス。友として」


 彼は今確かに王太子殿下の仮面をつけた。私の「逃げる」という言葉が引き金になったのだろうか。本当のところはわからない。


 彼はとても強い。この先何があっても、自分の責務からは逃げないのだろう。今日みたいに何度仮面が外れても、彼は付け直して皆の前に立つのかもしれない。


 私はその隣にずっと立って、支えていられるような大人になろう。私は彼の言葉に大きく頷いた。


 今できることは殿下の友人のクリスとして立ち回ることだ。芸術祭が終わるまでの短い期間、私は殿下の友人として、クリスとして悔いなく過ごそうと心に決めた。


 けれど、彼の瞳はまだ苦しそうに陰っているいるような気がしてならない。私にはまだやれることが他にもあるのではないか。『クリストファー』としてではなく、私として。私は言葉を紡ごうとしたけれど、一足早い殿下の言葉に遮られてしまった。


「やらなくてはならないことがまだ沢山あるんだ。手伝ってくれ」


 殿下は颯爽と歩き出す。


「待って下さい! アレク」


 私は慌てて彼に背中から抱きついた。我ながら、大胆なことしてしまったと自覚した時には既に遅い。


 幸い私の顔は彼には見えない。けれど、急に駆け出した心臓の音が、彼の耳に届きやしないかとひやひやすればする程心臓が速くなる。触れた側から熱くなるのは、彼の体温が高いせいだろうか。


 男同士で抱きついている姿は少し滑稽だろうな、と思いつつも、私は抱きしめたい腕を緩めることはしなかった。


 私が初めて『クリストファー』の仮面を手にした時、沢山悩んだ。けれど、こうやって今まで歩いてこられたのは、私のことをずっと支えてくれていた存在があったから。お兄様やシシリー。お父様やお母様。私は沢山の人に支えられながら、守られながら『クリストファー』になることができた。


 それだというのに、彼はそれを一人で成そうとしている。


 もっと泣き言の一つでも言ってくれれば、友として支えることもできたのに。私は小さく笑った。


「……いや違うかな。アレクセイ様」


 だから、このひと時だけは、この仮面を外そう。

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