103.魔法3

「クリス、ここはアカデミーだ」


 殿下の狼狽した声が耳に届いた。そうだ、彼の言う通り。ここはアカデミーの中で、本来ならこんなことしていられない。もしも人に見られていたら、なんと言い訳をしようか。


 こんな危ない橋渡るなんて馬鹿なことしてはいけない。頭では分かっているのに、心がそれを拒否する。


「分かっているよ。でも、今だけだから」


 今は『クリス』として側にいる時ではないと、私の中の『ロザリア』がそう言うのだから仕方ない。それに、ここには誰も近づけないように言い含めているのだから、少しくらい大丈夫。


 ああ、そうだ。誰かに見られたら、「演劇の練習をしていました」とでも言って笑えば良い。


 そんな風に考えてしまう私の心臓には、きっと毛が生えてしまったのかもしれないと、心の中で笑った。


「今だけは……私の前では仮面を外しても良いよ」


 私は彼が逃げられる唯一の場所になりたい。その仮面が王となるために必要なら、外せる場所くらい必要なのだから。


 段々と、背中から抱きついている状況が恥ずかしくなってくる。顔が見えない代わりに、べったりと寄り添う形になっているのは、如何なものか。


 私がおずおずと腕を解くと、彼はすぐにくるりと私の方に向き直した。紫水晶の瞳が困惑の色を載せて揺れる。


「かっこ悪い所は見せたくないって言っているだろ?」


 彼の手が私の頬に触れる。困ったように眉を寄せる彼は、王太子の仮面をつけたままで通そうという魂胆らしい。けれど、私は肩を竦めて笑った。


「かっこいい王太子殿下を見るより、他の誰も見ることのできないかっこ悪いアレクを見る方が、私には随分魅力的なんです」


 誰にも見せない姿を私だけが知っているというのは、そう悪いものではない。そんな風に思っているなんて知られたら本当に嫌われてしまうかもしれない。アンジェリカの言う「秘密の共有」というのは、こういうものも含まれるのかもしれない。


「変わってるな」


 殿下が私の心を見透かすように、大きく息を吐いた。思わず私の肩が小さく跳ねる。けれど、殿下は何も言わずに力なく私の右肩に顔をうずめた。


「変わってても、良いですか?」

「正直、困ってる」


 彼の言葉に少しだけ身体が震えた。きっと私の小さな変化は伝わってしまっているだろう。今ほど、顔を見られなくて良かったと思ったことはない。


 逃げるように一歩後ずさると、今度は彼の腕が私を身体を拘束した。しっかりと掴まれた腕に彼の熱が移る。


 ふいに彼は顔を上げた。紫水晶に映る私は酷く狼狽していて、人に見せられた顔ではない。けれど、彼はそんな私を見てふわりと笑った。


「知れば知るほど、好きになる」


 肩がじんわりと熱くなる。控え目に添えられた手が私の腕も熱くした。人の熱はこんなにも胸をざわつかせるものなのか。


「ロザリー」

「うん」


 掠れた声が肩を通って胸に響く。何だか少しだけくすぐったくて、肩が震えた。


「俺は弱い」


 肩から伝わる彼の小さな弱音は、雨の様にポツリポツリと胸を濡らす。今まで誰にも見えないところで、こんな風に弱音を吐いていたのだろうか。私は彼の背に腕を回す。私の冷たい手は、彼の心を温めるには不十分のような気がして、こんな時にまで冷たい手を少しだけ恨んだ。


「大丈夫、一緒に少しずつ強くなろう」


 本当は、まだ自分の強さに気づいていないだけ。私は彼の強さを知っている。いつか王太子の仮面なんて必要なくなる日が来る。もしかしたら、こんな風に私に弱音を零す日も、いつか無くなってしまうのかもしれない。そうなったら、少しだけ寂しいと思ってしまう。


「肩……」

「肩?」


 思いもよらない彼の言葉に、私は小首を傾げた。


「肩、まだ痛むのか?」


 だから彼は左肩を気遣うように右肩に頭を預けるのか。


 六年前の傷のことを言っているのだと理解するのに、少しの時間を要するくらいには全く痛みはない。


 勿論、傷が気にならないかと言えば嘘になる。鏡に映る傷はやはり痛々しいし、何よりその傷を見ると皆の顔が小さく歪む。まるで自分のことのように苦しそうに、一瞬だけ顔が歪むのだ。そのあとすぐにいつも通りに戻るから、私はいつだって気にしていない振りをする。私が気にすれば、きっと皆はそれ以上に苦しむから。


「全然」


 彼もまた、皆と同じ様に顔を歪ませているのだろうか。私の肩に顔を埋めたままでは、どんな顔をしているのか全然わからない。けれど、誰よりもこの傷のことを気にしているのは殿下だと思う。ならば、私はこの先ずっと、この傷のことを全く気にしていない振りをしよう。


 私は、彼の頭に頬を預けた。さらさらとしたプラチナブロンドに触れる度に、優しい香りがした。


 彼はそれ以上何か言葉を零すこともない。彼の呼吸を肩に感じながら、私はただこの静かな時間の流れに身を任せた。


 ふわりと風が流れ込んで、私の頬を優しく撫でる。それを合図に、殿下は私の肩から顔を上げた。いつもより熱くなった右肩は、まるで熱でもあるみたいだ。私はその熱から逃れるように、背中に回していた腕を緩め、静かに一歩後ろに引いた。


 紫水晶は光を宿したように感じる。


「気を遣わせたな、すま――」


 私はゆっくり頭を横に大きく振った。彼は口をつぐみながら、片眉をぴくりと上げる。私はもう一度頭を横に振った。すると、彼は困ったように眉を下げて笑った。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 彼の笑顔に、私も笑顔で返すことができる。私達は目を合わせて、二人揃って肩を震わせながら笑った。


 子供の頃に戻ったみたいで、何だか心がふわりと軽くなる。あの頃は花に蝶々が止まっただけで感動して、新しい花を見つけただけで笑っていた。


「今なら何でもできる気がするな」


 楽しそうに笑う彼の瞳はどこか晴れ渡っていて、私の心の片隅に渦巻いていた不安も、すっかり吹き飛ばされていた。


「何を言いますか。このクリストファー・ウィザーが貴方の隣にいるのですから、失敗するわけがありません」


 私は胸に手を当てると、恭しく頭を下げる。それは舞台の上で演者が行うが如く、わざとらしく。


「そうだな。クリス、お前は最高の友人で、最高の右腕だ」


 殿下もまた、大袈裟に両腕を広げた。


「最後の日まで共に居てくれ」


 最後の日――それは、『クリストファー』としての最後の日のことだろうか。


 殿下が私に手を差し出す。私はその手をゆっくりと握った。


 私は一歩近づき、握る彼の手を持ち上げた。彼は眉を寄せる。私はそれに気づかない振りをして、彼の手を私の口元まで引いた。


「クリス……?」


 彼の瞳が困惑の色に変わる。瞳に映る私は、『クリストファー』の顔で笑っていた。


「これは魔法です。貴方がこの先迷わずに歩けますように」


 私はそっと彼の指先に唇を寄せた。

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