101.魔法1
殿下を連れて行った「良いところ」は私にとって特別な場所。
図書館の書庫の奥の奥。なぜか誰も入らない私だけの空間。私は司書に「誰も近づけないように」と言い含めて、奥へと向かった。殿下は終始無言で、私の後をついてくるだけ。
私は特等席に殿下を座らせた。彼の眉間の皺がより一層深くなる。私は手を伸ばして、深く刻まれる皺に人差し指を押し付けた。
「悪い癖、出ていますよ」
皺を伸ばすように人差し指を動かすけれど、なかなか皺は無くならない。それどころか、皺は濃くなる一方だ。私は首を傾げながらも、ぐりぐりと人差し指を押し付けた。
「大丈夫だから」
殿下は困ったように私の腕を掴む。力は弱々しいけれど、確固たる意志を感じた。私が力を緩めると、殿下もすぐに私の腕から手を離す。
「全然、大丈夫じゃありません。酷い顔だ」
昔に戻ったみたいに、眉間に皺を寄せて仕事に打ち込む姿はあまり良い状態とは言えない。現に、サロン中の空気がいつもよりも重たくなっていた。
私は顔をずいっと近づけて、彼の瞳を覗き込んだ。薄っすらと浮かぶ目の下のクマ。瞳もいつもの輝きを失っているような気さえする。
「少し、休みましょう」
私は殿下の目の下のクマにゆっくりと触れた。彼は居心地が悪そうに、視線を外す。彼は放っておくと駄目なのかもしれない。ついつい自分で抱え込んで、どんどん溜め込んでしまうのではないか。
私は小さく息を吐いた。殿下の眉がぴくりと小さく動く。そして、おもむろに立ち上がった。
「戻る」
私の横を取り抜け、大股で歩き出した。突然のことで、私は慌てて彼の手を掴んだ。
「待って下さい!」
「……クリス、離してくれ。やらなければならないことが沢山あるんだ」
振り返った殿下の苦しそうな顔が、余計苦しそうに歪む。私は大きくため息をついた。
「ええ、そうでしょうね。でも、大丈夫ですよ。私が来たので」
一人じゃない。二人だ。何ならアンジェリカもいるのだから、殿下が一人で背負い込む程の事でもない。そのことを伝えたくて、私は彼の手を強く握った。
彼は眉を寄せる。そんな風に苦しんで欲しくないのに、なかなかうまくいかない。
「クリスはゆっくり休め。まだ本調子では無いだろ?」
ほら。また、私の為だ。私の為にそうやって何でも背負おうとする。どうしたら休んで貰えるのか、少しでも背中を預けて貰えるのか、私は考えた。
それなら、彼が自ら休養を取るように仕向けるのが私のやるべきことなのかもしれない。私は、握っていた手の力を緩めた。
離れるか離れないか、絶妙な力を残して腕の力を抜けば、彼は困惑した様子で私を見る。私はほんの少しだけ口角を上げた。参考はお兄様の優しい笑顔。けれど、いつもの笑顔ではない。熱があって辛い時に見せる、我慢している時の笑顔だ。
思惑通り、殿下の紫水晶の瞳が揺れた。
「そうですね。先程から少し頭が痛くて」
走る心臓を叱咤しながら、私は殿下の手から離れ自らの頭を押さえた。すると、先程まで出口へと向かおうとしていた彼の身体が、私の元へと戻ってくる。彼の意志で。心配そうに私の元に膝をつき、視線を合わせてくれた。騙していることに、チクリと胸が痛んだけれど、ぐっと堪える。だって、ここで「冗談だ」と笑えば、きっと殿下は眉間に皺を刻んだまま、サロンに戻ってしまう。
「大丈夫か?」
彼は不安そうに私の肩に手を置いた。私を触れる手は優しい。遠慮がちに触れられるのは、昔の名残だろうか。私を気遣う優しい手の上に、手を重ねる。
「急に動いたせいかもしれません。少し休めば治ると思います」
「ああ、休め。雑務は私がしておくから」
私はゆっくり首を横に振る。ここが正念場だ。うるさい心臓を意識の外にやり、私は彼の瞳を覗き込んだ。彼の長い睫毛が上下に揺れる。肩に置かれた手が少しずつ熱を帯びているような気がした。
「アレク、一人は不安です」
これ以上何か言えば、これが演技だと彼に知れてしまいそうで、私はただ見つめた。頭よりも心臓が痛い。震える手を叱咤して、彼の腕に伸ばした。どうにか彼の腕を掴んだ手は、僅かに震えてしまう。彼は目を泳がせた後、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……わかった。付き合うから。安心しろ」
まだ気を引き締めていないといけないというのに、彼の言葉に思わず私の頬が緩んだ。折角上手くいっていたのに、演技だとバレてしまう。私は覚悟し僅かに身を縮めたけれど、殿下は眉間の力を解いて微笑むだけ。私はホッと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます」
殿下は優しく私を椅子までエスコートしてくれる。お姫様にでもなった気分だ。彼が気遣って、床に座ろうとしたものだから、私は慌てて隣に座るようにお願いした。ここでも押し問答があったけれど、どうにか渋々椅子に座ってくれた。
けれど、まだ私にはやることがある。このまま少し休んだところで、サロンに戻れば彼の眉の間には皺が刻まれてしまうだろう。
隣に座る殿下を見る。長い睫毛が影を作り、より一層私の心を不安にさせた。何を考え、何に悩んでいるのか教えて欲しい。知ることができたら、助けられるのに。
「クリスは凄いな」
殿下がポツリと呟いた。本当に小さな声だったものだから、一瞬聞き漏らしそうになってしまう。私が数度目を瞬かせると、彼は自嘲気味に笑った。
「クリスがいるだけで、あの部屋の空気が変わる」
殿下の話を聞くに、私がいない間のサロンは、どうやら少し緊張感が走っていたようだ。今までどんなに殿下とアンジェリカが言い争っていても、サロンが殺伐とした雰囲気になることはなかった。けれど、この数日は違ったらしい。
アンジェリカは殿下に、「クリストファー様がいないだけでここまで違うなんてね」と笑ったという。
「俺は一人じゃ何もできない」
殿下が悔しそうに、唇を噛みしめる。けれど、私はそんなことよりも驚いてしまって、口をだらしなく開けてしまった。
「俺……」
「いや、今のは忘れてくれ」
殿下は恥ずかしそうに、口元に手を当てて、顔を背けた。何だか新しい一面が見られた気がして、私は高揚感を覚える。
「家族の前では『俺』ですか?」
「いや、今は誰の前でも『私』だな」
では、彼の「俺」は滅多に聞けない貴重なものなのかもしれない。
「もう一度だけ、『俺』って言ってください」
「駄目だ」
もう一度、きちんと聞きたくてお願いしてみたけれど、呆気なく断られてしまった。きっとまたいつか聞ける機会が来るだろう。私はわざとらしく肩を竦める。
「残念」
「何でそんなの聞きたがるんだ?」
「アレクのことは何でも知りたいですから。何が好きなのか、何を楽しいと感じるのか、どんな時に悲しいのか。弱さも、強さも……何でも」
楽しい時は一緒に楽しみたい。悲しい時は背中を撫でてあげたい。殿下の弱さも強さも全部知って、私は守られてばかりではなくて、貴方の隣に立てる人間になりたい。
「好きな女に弱いところを見せたがる男はいない」
殿下の弱々しい声が、私の耳に入ってくる。私は、椅子から降りて、殿下の目の前に
「私は貴方の『クリス』です。
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