77.見えない壁

 アンジェリカが去った後、私達は手元のレポートに意識を向けることができなかった。どちらともなく、帰り支度を始めたのは陽が傾く随分前だ。気もそぞろな状態で進めたところで大した成果は得られないことは目に見えていたので致し方無い。


『芸術祭に関しては断る方向でいく。参加しなくても良いのなら、参加しない方が良い』


 帰り際、殿下は念を押すように言い含めた。余りにも真剣だったものだから、私は頷くほかなく帰路についてしまう。もっと話し合うべきだったのかもしれないと、後悔したけれど後の祭りだ。この心の引っ掛かりを、どう伝えて良いかわからなかったのだから、成すすべは無かったのだろう。私は別邸にある自室のベッドの上に転がった。


「私の病気が治れば、全部丸く収まるのかな」


 右手を宙に掲げてみたところで、何かが起こるわけでもない。握りしめた手に残ったのは、虚しさだけだった。けれど、私の不安を霧散するように、扉が三度叩かれる。上半身を少しだけ起こして視線をやると、遠慮がちに開かれた隙間から顔を覗かせたのはお兄様だ。


「こんな時間に帰って来ているって聞いたから飛んで来たのに、もう眠ってしまうの?」


 お兄様はいつもの様に優しく微笑んで、扉の隙間をするりと通り抜ける。ベッドの端までやって来た。ベッドの端に腰かけると、私の足元にごろんと寝転ぶ。お兄様の伸ばされた左手が私の左手に絡まる。私の冷たい手と、お兄様の温かい手がどんどん交じり合って、どちらのものでもなくなってしまった。


「今日は何を悩んでいらっしゃるの?」


 何も言わなくても、お兄様には簡単に伝わってしまう。私は困った様に笑うことしかできなかった。


「アレクセイ様のこと?」

「うーん……」

「じゃあ、アカデミーのこと?」

「うーん……」

「病気のこと?」

「うーん……」

「わかったわ。全部ね」

「……そうかも」


 私は観念して肩を竦める。すると、お兄様の手がするりと離れて行った。突然冬に戻ったみたいに左手が凍える。温もりを探す様に手を彷徨わせると、次は両手でしっかりと握りしめてくれた。そして、ベッドがギシリと音を立てたと思ったら、お兄様は私のすぐ隣に座り直した。


「さあ、お兄様。どうしたら良いか、一緒に考えましょう? 私達は双子ですもの。悩みも分けて下さるでしょう?」


 優しい色をした瞳に覗き込まれた。いつもより飛び切り優しいお兄様の微笑みを見て、私の頬も自然と緩んだ。


「ようやく笑った」


 お兄様のほんの少しだけ温かい手が、私の頭を撫でる。安堵した私は、思わずマリーがするみたいに、手の平に頭を少し擦り付けてしまった。けれど、お兄様は笑わずにもう一度私の頭を撫でてくれたの。


 私達はベッドの端に仲良く並んで座った。小さな頃はベッドに腰かけると、床に足が届かなくて、ぶらぶらさせて遊んでいたのに、今は足が届く様になってしまった。なんだか、足をぶらぶらさせていた頃が昨日のことの様で、胸がこそばゆい。


 私は少しずつ今日の出来事を話すことにした。芸術祭のこと。演劇のこと。ヒロイン役のこと。そして、ジンクスのこと。お兄様は口も挟まずに、ただ相槌を打ち続けた。


「それで何が気になっているの? ヒロイン役がやりたかった、とか?」

「まさか。できるだけ、ドレスは着たくないかな」

「そうね、私もそう思う。私達が似ているとは言え、今後のリスクを考えると、お兄様を『ロザリア』のイメージに近づけるのは上策とは言えないわね」


 私が『クリストファー』として女性の姿を披露することで、私達が取り替えたことが何かの弾みでバレてしまうこともあるかもしれない。そんな可能性があるヒロイン役を、私は上手く避けねばならなかった。


「そう、だから私はアレクがきっぱりと断ってくれて安心したんだ。けど……」

「けど?」


 お兄様が隣で小さく首を傾げた。お兄様の睫毛が数度上下に揺れる様子を眺めながら、私は今日の殿下の様子をもう一度思い出す。


「あの時アレクはまるで、突き放す様だった」


 彼の『断る』と言い切った一言には、冷たささえ感じた。あの時、確かに大きくて厚い壁がそびえ立ったのだ。


「そう。お兄様はそれが一番気になるのね」

「うん、そうかも。アレクはいつも誰の前でも壁を作っていて、必要以上に近づけさせない。いつも側についている護衛官の名前も知らないんだよ? 毎日一緒にいるのに。昔はもっと違っていたと、思う」


 側に仕える者にすら、彼は必要最低限しか話さない。まるで、何かから逃げるように。それが時々不安に感じるのだ。


「アレクセイ様のこと、幻滅しちゃった?」

「ううん、それも違う。きっと、私の知らない五年の中で何かあったんだと思う。私にはロザリーがずっと隣にいてくれた。だからこうやって、今前を向いていられる。けど、アレクはずっと一人だったのだとしたら」


 私達が目を瞑った五年間の中で、もしも何かと一人で戦っているのだとしたら。それはきっと途方もなく苦しいことだろう。私にはお兄様がいた。側に誰かが居るのと居ないのとでは、その差は大きい。私は決意するように、ぎゅっと右手を握りしめた。


「アレクにこれからは、一人で戦わなくても良いのだって教えてあげたい」

「あら、私が好きな恋愛小説では、そういう時、『これからは、私が側にいるよ』っていうのよ?」


 お兄様が白い歯を見せて笑った。知っているわ。私も読んだことあるもの。でも、それは恋人相手に言う言葉だった筈。


「それ、友にも使うかな?」


 私は、眉をひそめて抗議したけれど、お兄様は楽しそうに肩を揺らすだけだった。


「今は、『クリストファー』として、……友として隣に立つことしかできないけど。今、友としてできることをしたい」

「お兄様なら、きっと大丈夫。それに、ずっとウジウジしているようなら、お尻の一つでも叩いてあげれば良いと思うの。そうしたら、アレクセイ様もきっと目が覚めるわ」


 お兄様が悪戯っ子の様に笑った。さすがにお尻を叩くのは気がひけるけど、背中を押すくらいよことはできるかしら?


「お兄様」

「何?」


 お兄様は私の両手を胸の前で握りしめて、にこりと笑った。瑠璃色の瞳が絡み合う。いつも、私を助けてくれる優しい瞳だ。


「今はお兄様が『クリストファー』なのだから、元に戻した後のことを考えて遠慮する必要なんてないわ。今はクリストファー・ウィザーを華麗に演じて。アレクセイ様にだって友として、もっとぶつかって良いのよ」


 お兄様の笑顔に勇気を貰った私は、強く頷いた。

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