78.月隠れ1

 あの日から、アカデミーでは芸術祭の話題で持ち切りだった。皆、芸術祭が楽しみみたい。勿論、その影響は社交場にも及んだ。今日、お父様の名代みょうだいで参加している夜会でも、芸術祭の話題で大いに盛り上がっている。


 ある紳士は、今年の芸術祭に呼ばれそうな画家の名前を予想する。彼の周りには、若い画家を支援するような絵画に感心のある者達が集まっていた。お父様とは縁のある方だったので、私はその傍らで耳を傾け頷くだけ。何とかっていう画家が、最近勢いがあるとか言われても良くわからないもの。


「クリストファー様も是非我が家においで下さい。我が家には名画が沢山ありましてな?」

「はい。絵画はあまり詳しくないので、是非勉強させて下さい」


 世辞を言えば、我も我もと招待したい旨を伝えられた。絵画の収集は貴族の間では良くある趣味らしい。本邸の壁に掛かった絵画を思い出そうとしても全然思い出せないのだから、私にとっては無縁の趣味かもしれない。


 その近くでは、隣国での観劇を持ち出し、会話の中心になる者がいた。絵画、観劇……どれも私には余り馴染みがないけれど、今日話に耳を傾けてみただけでも、芸術祭は私が想像していたよりも遥かに有名な行事のようだ。


 勿論、有志による演劇も皆の興味の一つとなっていた。そして私は、お決まりの様に一度ひとたび歩けば声を掛けられ、演劇について聞かれる。数人の女性に囲まれた私は、彼女達の勢いにたじろいでしまった。髪の毛に飾られた花が、彼女達の興奮と共に揺れる。最近の流行りは春の花を髪の毛に飾り立てることらしい。白い花も黄色い花も等しく揺れている。


「アレクセイ王太子殿下とクリストファー様は、演劇に参加されるのでしょう?」


 今日だけで何度同じ内容を聞かれたことか。私はその度に曖昧に笑って返すのだ。そして、今もこうやって少し困ったように笑って返す。


「まだ詳しくは決まっていないので、私からは何とも」


 本当に決まっていないのだから仕方ない。けれど、そう返したところで、皆が納得するわけではない。「本当は決まっているのでしょう?」と耳元で囁かれるのが落ちだ。


「クリストファー様だったら絶対舞台映えしますから、どんな役でもお似合いになりますわね」

「演技なんてしたことがありませんから、もし、参加することになったら、舞台の上で震えてしまうかもしれません」

「まあ! そんなことを言って、堂々としたお姿が目に浮かびますわ」


 夫人は扇子で顔を隠して目を伏せた。私にはそんな姿全然想像できないのだけれど、いつものように、「ありがとうございます」と張り付いた笑顔を返す。演劇の話が続く前に離れようと思ったところで、今度は夫人の隣にいた令嬢が身を乗り出した。小さな背をこれでもかという程伸ばして。


「わたくしがアカデミーに通っていたら、ぜったい、クリストファー様のお相手役に立候補していましたわ。アカデミーに通われている方が本当に羨ましいですわ」


 あまりにも必死に、頬を真っ赤にしながら言うものだから、思わず頬が緩んでしまった。口ぶりからして、彼女にとっては私の出演はもう既に決まったことのようだ。否定しても納得してくれない雰囲気に、私は諦めてサラリと流す作戦に切り替えることにした。


「ありがとう、そう言って貰えると嬉しいよ」

「ほ、本当ですっ! クリストファー様はいつも王子様みたいで、本当に素敵で……」


 彼女は薄っすらと目に涙をためながら訴えた。そんなに必死にならなくても大丈夫なのに。もしかしたら、私が社交辞令と捉えたのだと思われたのかもしれない。


 そうしている間にも、周りに人が増えてきてしまった。このままだと、輪から抜けられずに、根掘り葉掘り演劇について聞かれそうだ。


 どうにかして、この輪から抜け出したいのだけれど。どうにかならないものかしら。


 笑顔の下で悩んでいると、ダンスの始まりを告げる音が響いた。私はちょうど良い頃合いで流れた音楽を利用することにしたのだ。


「可憐な花の妖精さんと一曲踊る栄誉を、この青い薔薇に与えていただけますか?」


 小さな令嬢に向かって手を差し出した。彼女は大きく目を見開くだけで、なかなか私の手を取ってくれない。彼女の頭の上に咲く花が不安げに揺れる。断られるわけでもないから、手を引っ込めるわけにもいかず、私は首を傾げた。


「……駄目、かな?」


 小さな声で聞くと、彼女は大きく頭を横に振った。相変わらず頬を真っ赤にさせたまま、彼女は振り絞る様に声を出した。


「よろこんで」


 ゆっくりと手が乗せられる。細くて小さな手がほんの少し震えていた。「緊張しないで」という意味も込めて、手を優しく握ったのだけれど、彼女は肩を震わせて更に緊張した様子だった。


 私が彼女をエスコートする様に歩き出すと、集まっていた人は四方に散る。一曲にも満たないダンスでは、余り会話はしなかった。手を取った令嬢はまだ慣れていないみたいで、緊張している様子だったから私も一言二言声を掛けるだけに留めたせいだ。


 一人誘って離れるわけにもいかず、いつものように数人の令嬢に声を掛けた。話題と言ったらやはり芸術祭のことばかり。彼女達の中で決定事項になっている出演を、やんわり否定したり流したりするのは骨の折れる作業だった。


 心地良い汗を感じた辺りで私はダンスホールを離れることにした。バルコニーに出ると、気持ちの良い風に迎えられる。ゆっくりと息を吸い込むと、花の香りが風に乗ってやってきた。誰もいないバルコニーで、ようやっと私は小さなため息をつくことができた。


 困ったことに、あの日から私は殿下を捕まえられずにいる。殿下ときちんと話をしようと決意した次の日、アカデミーに行ってみると、『急用ができた』の一行で終わっている手紙を使いの者から手渡される始末。しかも、その次の日にはご丁寧に、全てのレポートがアカデミーに届けられていたのだから驚きだ。


 相変わらず夜会にも参加しないし、どこで何をやっているのかしら。


 詳しく『急用』を問う手紙を出したけれど、返事は未だに来ない。王宮に行ってみたものの、「外出中」と言われ門前払いされてしまった。私は、不安を抱きつつもお兄様とシシリーに背中を押されて、毎日アカデミーに通っている。


 雲に隠れてしまった月の存在を探しながら、真っ黒な夜空を眺めていた。雲の隙間から薄っすらと見える月明り。けれど、その存在は私の目には映らなかった。


「ここにいたのね。探したわ」


 当然掛けられた声に、バルコニーの入り口に目をやると、アンジェリカが両手にグラスを持って立っているところだった。

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