44.赤薔薇の恋文1

 窓の隙間から入り込む冷気に身を震わせて目が覚めるのは、今冬では初めてのこと。隣で眠るお兄様の規則正しい寝息を聞きながら、ホッと息を吐いた。


 体調は良さそうだわ。


 まだ眠るお兄様を起こさない様に気をつけながら、部屋を抜けると、心得た様に部屋の前で待っていたシシリーに、笑顔で迎えられた。


 日課になっている鍛錬も、空っ風に身を震わせながらになってしまったわ。


 この分だとそろそろ雪が降り出しそう。


 見上げれば、はっきりとしない空が、どこか嘲笑っている様だ。本格的な冬が訪れる。冬は余り好きではないの。お兄様の体調が悪い日が続くから。お医者様は「寒さのせい」だと言う。寒い寒い冬なんて、早く終わってしまえば良い。私は、白く染まった息を、右手で握りつぶした。


 王立アカデミーに編入して五日が経とうとしている。まだ五日しか経っていないと言うのに、そうとは思えない程、濃密な毎日を過ごしている。毎日お兄様と二人きり、閉ざされた別邸で過ごしていた頃と違って、目紛しい。


 編入当初から、アカデミーの中はいつも騒めいていて、それが普通なのかと思っていたのだけれど、今日はいつも以上に空気が浮ついている様な気がする。


 朝、律儀に出迎えてくれる殿下の様子は相変わらずなのだけれど。


「王太子殿下に出迎えられる毎日を送っていると、父上に知られたら卒倒されそうなので、そろそろこれ、やめませんか?」

「気にするな。ついでみたいなものだ」

「ついで、ですか」


 取り付く島もないとはこのことか。令嬢の出迎えを阻止できても、殿下一人の出迎えは阻止できないないなんて。


「まあ、朝のことは、今度ゆっくり話し合うとして。今日は何だか空気が浮ついていませんか?」

「ああ、そうだな。どうせ、またお前が何かしたんだろう?」

「酷いなあ。私は何も、してない……筈、です」


 私、何か大変なことしたかしら。物言いたげな殿下の目が突き刺さる。


「昨日はミュラー家の夜会だったのだろう?」

「ええ、ご心配なく。何も粗相はしていませんよ?」


 マリアンヌのことだってキチンと最後まで送り届けたもの。問題はなかったと思うわ。殿下の目は完全に私のことを疑っているようだわ。可愛く小首を傾げて見せたけど、どうやら信用は勝ちえなかったみたい。


「まあ、いいさ。その内原因もわかるだろう」

「ええ、そうですね」


 一つ頷いて、教室へと向かう。いつもの様に、天気の話をしたり、王宮の話を聞いたりしていれば、教室に到着するのはすぐだもの。


 けれど、教室に到着する前に、私達は行く手を阻まれてしまったわ。廊下で待ち構えるように、レジーナとその友人が三人、立っていたの。


「ごきげんよう、レジーナ嬢」

「ごきげんよう、クリストファー様」


 レジーナは私に簡単に挨拶を返すとすぐに、殿下に向かって行った。


「殿下、ご機嫌麗しゅうございます」


 私の時とは声のトーンが全然違うわ。私は苦笑を寸でのところで留めて、レジーナの後ろに立っていた二人の令嬢に声を掛けた。


「殿下、よろしければご一緒させていただいてもよろしいですか?」


 レジーナは、甘えた声で言いながら、ちゃっかりと殿下のすぐ横を陣取り、歩き始めた。私はというと、二人の令嬢に囲まれて身動きが取れないわ。殿下の目が「助けてくれ」と訴えているけれど、今は無理そう。二人が口々に色々な話を振ってくるの。


「クリストファー様は、いつもどのような本をお読みになりますの?」

「クリストファー様は、何色がお好きですの?」


 左右を陣取られて、完全に質問攻めだわ。こっちの方が助けて欲しいくらいよ。


 レジーナは、驚く程殿下にピッタリとくっついて、殿下に話掛けている。二人とは、少しずつ距離を離されてしまって、どんな話をしているのかわからないけれど、時折見える殿下の横顔が、あまりに不機嫌そうで何だか安心してしまった。


「クリストファー様、昨日マリアンヌ様をエスコートしておりましたけれど、マリアンヌ様とは特別な関係ですの?」


 右側を陣取った、少しふくよかな令嬢が、上目遣いで聞いてきた。気づけば右腕に手を絡められているわ。


「ええ? マリアンヌ嬢と私が?」

「はい。皆噂しておりましたわ」

「まさか」


 ただ一回エスコートしただけよ? 私は思わず目を見開いた。けれど、彼女の目は嘘を言っているようには見えないわ。


「お二人が早く抜けた後なんて、大騒ぎでしたわぁ。泣き出す方もいらっしゃいましたのよ」


 左側を陣取っていた令嬢が、援護射撃を打った。彼女もまた細い腕を、私の左腕に絡めた。両方から腕をつかまれた状態では、とても動き難い。


「クリストファー様、実の所を教えて下さいませ」


 右側の令嬢の豊満な胸が腕に押し付けられる。何とも嫌味なくらい柔らかな感触に、己の潰した胸と比べてしまったわ。


「マリアンヌ嬢とは特別な関係でも何でもないよ」

「本当ですの?」


 左側の令嬢が、しな垂れ掛かって来た時には、歩を止めるしかなかった。困惑を表に出すわけにもいかないけれど、昨晩お兄様の掛けて貰った『魔法』の効果が今すぐにでも切れそうよ。どうにか笑顔を張り付けて、いつもの様に微笑んで見せる。


「勿論。父上が仕事でウェルザー男爵を離したがらなくてね。その代わりを頼まれただけさ。昨日、初めて会話をしたのに、特別な仲になれる筈もないよ」

「あら、そうでしたのね」

「やだわ。皆、「婚約寸前」だなんて噂しているから信じてしまいましたわ」


 たった一晩で、そんな誤解を生んでいたなんて、驚きだわ。さすがにその誤解は問題よね。マリアンヌの出会いの邪魔をすることになりかねない。


「さあ、二人とも。アレク達に置いて行かれてしまった。急ぎましょう」


 にっこり笑って、二人の腕から抜け出ると、教室に向かって歩き出した。








 外国語の授業が終われば空き時間がある。殿下が私の所まで来るまでに、レジーナはすぐさま殿下の隣を陣取っているわ。なんて素早いのかしら。


「殿下、先程の授業の内容なのですけれど」


 ノートを持って、上目遣いで迫るレジーナを邪険には扱えず、殿下はレジーナの相手をすることになったようだわ。目で助けを求められているけれど、私からは口出しできそうにない。私が肩を竦めて見せると、殿下の眉はピクリと動いた。心ここにあらず、の殿下が気になったのか、レジーナは小首を傾げている。


「殿下、いかがなさいました?」

「いや、なんでもない」


 殿下も観念したのか、レジーナの持つノートに視線を移した。一々顔が近い。息が掛かりそうな程近くで話す二人を見ていられなくて、私は教室を後にした。


 廊下に出ると、誰にも気づかれない様に小さくため息を吐いてしまったわ。けれど、すぐ後ろでクスクスという笑い声が聞こえたの。驚いて、後ろを振り返ると、楽しそうに笑うアンジェリカがいたわ。


「なんだ、君か」

「あら、「なんだ」とは失礼だわ」

「それは失礼しました。アンジェリカ嬢。今日もお美しい」


 わざとらしく右手を胸に当てて礼をすると、アンジェリカの眉が小さく動く。


「それはどうも。今日は殿下とは一緒ではないのね」

「ええ、余り独占しているのがばれると、王妃陛下から苦情が入りますから」


 一応、殿下はこのアカデミーに未来の妃を探しに来ていることになっているのよ。当の本人は出会う気なんてサラサラなさそうだけれど。


 肩を竦めると、つまらなさそうにため息をつかれてしまったわ。


「本当、お二人には早くお相手を決めて欲しいものだわ。このままでは、皆がソワソワして勉学に支障が出てきてしまう」

「不可抗力なんだけどね。その話は長くなりそうだ。良かったらカフェテリアにでも移動しようか? お茶でもどうかな?」


 今は一人になりたくない気分だったの。話し相手が欲しい。そんな気持ちを隠しながら、アンジェリカを誘ったら、彼女の顔が嫌そうに歪んだわ。


「なんで貴方と二人で……」

「友達じゃないか。ね?」


 にっこり笑って押し切れば、アンジェリカは、仕方なしとカフェテリアに向けて歩き出してくれたわ。何だかんだ、押しには弱いのかしら。


「貴方と友達になったつもりはないわ」


 隣を歩きながらも、フイッと顔を背けられてしまう。いつか友達になれた嬉しいのだけれど。


 顔を背けられてからは、しばし、会話もなくカフェテリアに向かって歩を進めていたわ。けれど、その沈黙はあまり長くは続かなかった。


「昨日は、ありがとう」

「ん? ああ、カロリーナ嬢のことか。こちらこそ、噂のおかげで平和な朝が迎えられている」


 ダンスの代わりに得たものは、私にとってはとても大きいものだったもの。それに、ダンスはどうせ誰かとはしなくてはいけなかったし、カロリーナとのダンスが増えたしまったくらい、なんの問題もないのよ。


 昨日は早くお暇してしまったから、カロリーナの他に数人としかダンスを踊っていない。お母様から渡されたリストの最新版の上から声をかけたに過ぎないのだけれど。


「それで? マリアンヌ・ウェルザー男爵令嬢とどういう関係なのか、教えていただけるんでしょう? 友達だもの」

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