43.お兄様の魔法

 ミュラー家を早々に退出した私達を待ち受けていたのは、馬車の中に、一人取り残されたマリーだった。飛びつかんばかりの歓迎振りに、マリアンヌと二人で笑いあったのは言うまでもない。


「ミャー」


 馬車の中甘えるマリーに、マリアンヌは何度も応えた。背中を撫で、頭を撫で、首元を擽った。私もマリーに要求されるままに撫でまわしたわけだけれど、なかなか許してはくれない。


 馬車の中で一人置いていかれたマリーの機嫌を取るのは、とっても大変だったのよ。二人で撫でまわしても、なかなか許してくれないの。


 ウェルザー家の屋敷に付いた時、マリアンヌはマリーとの別れを名残惜しそうにしていた。


「また、いつか…マリーちゃんに、会わせてくださいますか?」

「そうだね、また遊んであげて。マリーもきっと喜ぶ」


 私の腕の中で大人しくしているマリーを撫でると、「ミャー」と鳴いた。マリアンヌは、膝を折り、マリーに顔を近づけて、別れを惜しむ様に何度か頭を撫でている。


「私、貴女になりたいわ」


 マリーを撫でながら、マリアンヌは小さく呟いた。


「猫に? それは、楽しそうだね」

「やだ、私ったらつい……」


 私が楽しそうに同意しながら笑うと、マリアンヌは恥ずかしそうに、朱に染めた頬を両手で押さえた。


「私達は猫にはなれないけど、マリーと仲良くしてくれたら嬉しい」

「は、はい。私も折角できた友達ですから、また遊びたいです」


 マリアンヌが私の手を握る。彼女から私に触れて来たのは、これが初めて。少しは私にも慣れてくれたみたいで、嬉しいわ。


 私はにっこりと笑顔を返した。


「私、ダンスも一杯頑張ります。だから、その、また……。また、エスコートしてくださいますか?」

「ウェルザー男爵が良いって言ったらね」


 今回はお父様のせいでこんな事態になってしまったけれど、次、ウェルザー男爵が頷くとは限らないもの。曖昧に笑って返すことしか、今の私にはできなかった。


「おやすみ、マリアンヌ嬢。良い夢を」


 マリアンヌの手からスルリと抜けると、頭を撫でて微笑んだ。屋敷の外でずっと話していては迷惑が掛かってしまうもの。まだマリーと遊び足りなかったマリアンヌは、終始名残惜しそうにしていたけれど。


 屋敷に戻ると、シシリーが慌てて迎えてくれたわ。思ったよりも早い帰りのせいで、シシリーには迷惑を掛けてしまったみたい。


「おかえりなさいませ、クリストファー様。今日はとても早いお帰りでございますね?」

「こーんな可憐なご令嬢を、夜遅くまで連れまわすわけにいかないからね」


 肩を竦めて、私は抱いていたマリーを、シシリーに預けた。シシリーは、目を丸くさせてマリーを見たわ。


「もしかして、連れていかれたのですか?」

「連れて行きたくて、連れて行ったわけじゃないけどね」

「ミャー」


 あれは不可抗力。付いて来てしまったのだから。私のせいじゃないのよ。マリーは長旅で疲れてしまったのか、シシリーの腕の中で丸くなって、小さく鳴いた。可愛く鳴いたって騙されないんだから。


「でも、良かったです。ロザリア様がずっと探されていましたから。」


 マリーがいなくなって、お兄様にご迷惑を掛けてしまったみたい。突然屋敷から消えてしまえば、そうなるわよね。


「じゃあ、連れて行ってあげないと。もう寝てしまったかな?」

「いいえ、まだお早いですから。寝る前に読書をしておりますよ」


 夜会に参加したというのに、まだまだ早い時間。お兄様はまだ就寝前みたい。私は、お兄様に会う為に、急ぎ足で就寝の準備をしたわ。


 お父様はまだ帰って来ていないみたいだし、報告は明日の朝にでもすれば良いと思ったの。


 何よりも、今日は随分と気を張ったせいで疲れてしまった。やっぱりエスコートなんて大役、私にはまだまだ早すぎたのかもしれない。


 夜着に着替えた私は、マリーを連れてお兄様の寝室へと足を運んだ。お兄様はまだお休み前で、本を読んでいたわ。


「あら、おかえりなさい。今日は早いのね」

「ただいま、ロザリー」


 お兄様の笑顔が向けられた。この笑顔に私はホッと胸をなで下ろす。読みかけの本を閉じようとする、お兄様を手で制して、私はお兄様の隣に寝転んだ。


「あら、お疲れかしら?」


 私のよりもほんのり温かい手が、優しく頭を撫でてくれる。私は目を細めたわ。


「疲れた。大勢の人と話すのは、やっぱり疲れるね」

「一年前まで引き籠もりだったのですもの。仕方ないわ」


 優しい手が気持ちよくて、私は思わず頭を擦りつけてしまったわ。お兄様はおかしそうに、クスクスと笑っている。


「お兄様ったら、まるで猫みたい。マリーも良くそうやって頭を擦りつけるのよ」

「この手が昔から好きだよ」


 私はそっと、撫でる手の上に私の手を添えた。私の手よりもちょっとだけ温かい手。私が『ロザリア』だった頃から大好きな手。あまり触れ続けると、熱を全部奪ってしまいそうな気がして、不安に思ってしまう。


「珍しいわ。今日は甘えん坊なのね」


 お兄様は楽しそうに笑った。振動が、お兄様の手から伝わってくる。


「こんな風に甘えられるのは、ロザリーだけだよ」

「それ、他の女の子に言っちゃ駄目よ。そんなこと言われたら、皆がお兄様に恋しちゃうもの」


 今日のお兄様は上機嫌だ。また笑っている。手元の本は、もう閉じて枕元に置いてしまった。私が一緒にいるせいで読書の邪魔をしてしまったわ。でも、今日はもう少しだけ、こうしていたい気分だったの。


「ロザリー」

「なにかしら?」

「魔法を掛けて。昔みたいに」


 私は、ゆっくり瞳を閉じた。とても疲れていて、目を開けるのも億劫だったのもある。それに、こんなお願いをしていることに気恥ずかしさを感じていたから、というのもあった。


 小さい頃、お兄様は良く『魔法』を掛けてくれた。緊張しない魔法。笑顔になる魔法。いつだってこの『魔法』は絶大な効果があったの。


「どんな魔法を掛けて欲しいの?」

「うーん、そうだな……明日からまた物語に出てくるような王子様になれる、魔法」


 瞼がどんどん重くなる。けれど、お兄様の声が耳元で聞こえて、額にじんわりと、温かさを感じた。


 魔法が額を通って、身体中に廻っていく。


 ありがとう。


 そう言いたいのに、口を開くこともできなくて、私はそのまま、夢の底へと落ちて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る