38.マリーとマリアンヌ1
晴れ渡る青空を見上げる。風が駆けると、少し肌寒く感じる。私は自分より高いところ空気をゆっくりと吸い込んだ。
別邸の裏で一人で行う鍛錬は、アカデミーに通い始めた今も、変わらず日課になっている。剣を持つ手は、骨ばっていて、手のひらの皮は厚くなっている。貴族の令嬢の手からは程遠くなってしまった。
そのくせ、腕は筋肉はついたものの、ひょろりと長くて細い。男にしては貧相な腕なのだと思う。
大空に手をかざして見ても、その事実は変わらない。
「ああ、こんなところに居たのか。クリストファー、探したよ」
振り返ると、お父様が慌てた様子で近づいてきたわ。
「おはようございます。父上。何か用事ですか?」
「おはよう。そうなんだお願いがあってね。昨日伝えておけば良かったんだけれど、帰ってくるのが遅くなってしまったからね」
最近、お父様はお忙しい様子。昨日も晩餐の席には居なかったわ。
「お願いですか?」
「うん、ウェルザー男爵の所のお嬢さんを今日エスコートして欲しいんだ」
申し訳なさそうに、お父様は眉を下げた。
「ええ、構いませんよ」
二つ返事で承諾すると、お父様はとても嬉しそうに笑った。
「良かった、助かるよ。男爵とは、夜会に参加するお嬢さんをエスコートする為に、夕刻には帰す約束だったんだけどね。ちょっと難しそうなんだ。クリストファーなら、アカデミーでも一緒だし適役だと思ってね。じゃあ、頼んだよ。ああ、私はもう出仕しないと」
「父上も、お身体には気をつけて下さい」
「ああ、ありがとう!」
慌てて走って行くお父様を、私は苦笑しながら見送った。
「父上は、相変わらず仕事馬鹿だ」
私の声は冷たい空気に溶けて行った。
それにしても、ウェルザー男爵令嬢ってどんな方かしら? 会ったことがあるのかもわからないわね。
適当に参加して、雰囲気を見て早めに帰ろうと思っていたけれど、大役が舞い込んできてしまったわ。
今日は長い一日になりそう。
途中、お父様という予定外の訪問者が有ったものの、鍛錬を終え、お母様とお兄様と一緒に朝食を摂れば、アカデミーに通う時間になる。
いつもと同じように馬車に乗り込み、いつもと同じ時間に馬車を降りる。降りた瞬間、とても驚いたの。だって、一人も待って居ないんだもの!
毎朝気持ちを憂鬱させていたお出迎えも、昨日流した噂のお陰で、終止符が打たれたようだわ。噂は風よりも早いというけれど、本当ね。
本当は、半分くらいになっていれば良いな、と思っていた出迎えが、まさか居なくなるとは思わなかったわ。
アンジェリカの手腕のお陰かしら。後でお礼を言わないと。
「クリストファー様、ごきげんよう」
同じ時間に登校した令嬢に声を掛けられた。心から笑顔で返事をすることができる。これが求めていた日常なんだもの。
本棟に足を踏み入れた所で、殿下が待っていたわ。これは変わらず、日常になりつつある。でも、今日は眉間に皺が寄っていないのよ。これはとても良い変化だわ。
「アレク、おはようございます」
「おはよう。それよりも、凄いな……」
感心するように、辺りを見渡す。今日は殿下を遠巻きに見つめる令嬢の姿もない。
「私もここまでうまくいくとは思ってもみませんでした。アレク、後はよろしくお願いしすよ?」
何をとは言わないわ。昨日散々お願いした
にっこりと笑えば、彼の眉がピクリと動く。良かった。忘れてはいないようだわ。
「……わかった」
「ここで失敗すると、昨日に逆戻りですから、気を引き締めて下さい。よろしくお願いしますね」
にっこりと笑って、顔を覗き込むと、殿下はいつもの仏頂面で歩き出した。
彼は人と関わらないようにしているきらいがある。六年前まではそんな風に感じなかったのだけれど、今はひしひしと感じているわ。
仲の良い友人一人作らなかった。『クリストファー』は駄目でも、同じ歳の頃の令息など沢山いる。その一人や二人、仲良くなっていてもおかしくなかった筈よ。離れていた六年間に何があったのかしら。
「あともう少しだけ、心を開いて欲しいかな」
「何か言ったか?」
「いいえ? 風の精霊ではありませんか?」
思わず声に出してしまった小さな呟きは、彼の耳に入る前に、風が攫ってくれたらしい。紫水晶の瞳が怪訝な色に変わる。わざとらしく小首を傾げれば、彼は気のせいだと納得したように、視線を前に戻した。
殿下が先に教室に入ると、突然ピタリと動きを止めた。何かあったのかと、殿下の横に出れば、彼が戸惑った意味がわかる。おかしいくらい、皆静かに読書や勉強をしていたわ。さすがにこれは、効果が出過ぎているわよね。
チラリと横を見れば、殿下の顔はまだ引きつっている。さて、殿下は誰に声を掛けるのかしら。皆、静かに机に向かっているけれど、こちらを気にしてチラチラ見ている。噂が本当か確かめたいといったところかしらね。
「皆、おはよう」
仏頂面は相変わらずだけど、そこは王族の威厳を示せていると思えば、聞こえは良いわ。殿下が声をかけると、教室の空気が一つ引き締まった。
「おはようございます。アレクセイ王太子殿下」
皆が顔を上げ、立ち上がろうとしたけれど、殿下が手でそれを制す。これも見飽きた朝の一幕。
「精が出るな」
殿下の一言で、空気が揺れた。それもその筈。いつも仏頂面の、あの端整な顔を緩めて、笑ったのだから。
あまりの驚きに目を丸くする者、息を飲む者、声を上げないように口を押さえている者、様々だわ。
この中で唯一平静でいることができた私に、助けを求めたのは、事もあろうに殿下だったわ。「どうにかしろ」と目が訴えている。微笑んだは良いものの、この後どうするかは考えてなかったみたい。
仕方ないわね。
私は、本を手に持つ令嬢に近づいた。
「君は、どんな本を読んでいるの?」
声を掛ければ、彼女の肩がおもいっきり跳ねた。なかなか返事のないので、首を傾げて問えば、ようやく可愛い口を開いてくれたわ。
「し、し、詩集です……!」
「へえ、詩集か。私も時々読むよ。今度お気に入りの一編を聞かせてくれる?」
「も、勿論です!」
彼女は何度も何度も首を縦に振った。壊れた人形みたいだわ。
「楽しみにしているよ」
微笑んで見せれば、周りから悲鳴が湧き上がる。笑顔で悲鳴を上げられるのは、慣れたけれど、なんだか困っちゃうわ。
「クリス、詩集も読むんだな」
席に座りながら、隣で殿下は感心したように呟いていたわ。この様子だと殿下は詩集には手を出していない様だわ。
「ええ、ロザリーと一緒に。よく読みますよ」
『ロザリー』と言う単語には敏感で、いち早く反応を示す。小さい頃からお兄様に詩集をよく読んで貰ったのよ。お兄様の優しい声で詩を聴くのは格別なの。
「……そうか」
「お貸しましょうか?」
「……ああ」
殿下が小さく頷いたわ。殿下が詩集を読む日も近いわね。殿下の深みのあるバリトンの声で聴く詩もまた格別なのでしょうね。
想像すると、頬が緩む。笑っていたのを見られてしまったらしいわ。殿下の眉間にじわじわと皺が寄って行くんだもの。
私は、指先で、私自身の皺の寄ってない眉間をさすって見せた。意味がわかったみたいで、殿下は私とは反対側にフイッと顔を背けてしまったわ。
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