王立アカデミー編
34.公爵令息の華麗なる編入
私は朝から憂鬱だった。朝起きたら、隣にいるお兄様は普段と変わらない『ロザリア』の顔に戻っていたし、私も朝から『クリストファー』になることができた。昨日沢山泣いたからか、気持ちはとてもスッキリしていたわ。
けれど、やっぱりアカデミーに通うのは不本意なのよね。朝食の席でお父様もお母様も、さすがに王家の提案を断れなかったのだと弁明していたけれど。つまり、殿下の相手をしてやってくれ。と、そう言うことなのでしょう。
憂鬱な私とは反対に、シシリーはとても楽しそうに私の準備を手伝ってくれる。いつものように鳥の巣を人間の頭に戻しながらニコニコと笑っていた。
「『公爵令息の華麗なるデビュー』も最終回を迎えたと思いましたら、すぐに『公爵令息の華麗なる編入』が始まってしまったわけですね」
「……シシリー、意味がわからない」
何を言っているのだと、髪を弄る彼女を見上げると、頭を抑えられ、戻されてしまった。
「昨日の昼間にロザリア様とお話ししておりましたの。物語みたいですねって」
ふふふ、と楽しそうに声を上げるシシリーの顔を、私は鏡越しに見た。私ったらとっても間抜けな顔をしているわ。
「それにクリストファー様も、物語の主人公だと思えば、少し困難な状況でも頑張れるのではありませんか?」
ね? と笑うシシリーの目の奥にある優しさに気づいた私は、頷くしかなかった。きっと、昨日のことを心配してくれている。シシリーは彼女なりに私の背中を押そうとしてくれているのね。
「私は『公爵令息物語』の主人公、『クリストファー』?」
「ええ、今は第二章、『公爵令息の華麗なる編入』の序盤です」
「じゃあ、頑張らないと」
笑顔で応えれば、シシリーは後押しするように大きく頷いてくれた。
「ええ、アカデミーではどんな物語が綴られたのか、教えて下さいね」
「シシリーなら、教えなくても情報くらい手に入るんじゃないの?」
「いいえ、主人公視点も無ければ物語は完成しませんので」
こんな時でも情報に貪欲なシシリーに、ついつい笑ってしまう。
「じゃあ、シシリーは『公爵令息クリストファー』に様々な情報をもたらして支えてくれる重要人物の『侍女シシリー』だね」
「ふふふ、クリストファー様は持ち上げるのがお上手ですね。そんな公爵令息のクリストファー様には『アカデミーの登場人物一覧と関係図』を差し上げましょう。昨日の今日なのでそこまで詳しい情報は手に入らなかったのですが」
シシリーのポケットから取り出された情報は、二枚の用紙にびっしりと書かれていたわ。一日でここまでの情報を用意してくるシシリーは本当に物語の登場人物みたいね。
シシリーの後押しのお陰で、私の中に覆っていた厚い雲の合間から太陽が覗かせるまでになった。
そう、夜会もアカデミーも社交の場。年齢層の違いはあれど、基本はなんら変わらない。ウィザー家にとって良い関係を築く場だと思えば良い。馬車の中で、私は一人、シシリーのリストを眺めながら、重要な人物の名前を反芻したわ。
アカデミーに登校した私は、早々に洗礼を受けることになる。
如何なる場合も編入は許されていないアカデミーで初の編入生である『クリストファー』が、注目を浴びるのは致し方ないこと。それは昨日の状況からも理解はしていたわ。
ウィザー家の馬車から降りたところで、自らの考えの甘さに後悔したの。だって、昨日と何ら変わらない花道ができていたんですもの。確かに人数は減っているけれど。
シーガー氏に釘を刺したつもりだったけれど、全く効果はなかったみたい。シーガー氏の
腹を括って花道を歩けば、どこかしこから黄色い声が聞こえる。でも、遠巻きに見ているだけで声を掛けられるわけじゃない。見世物小屋にでも放り込まれた気分。
数歩歩いた所で、『公爵令息の華麗なる編入』に新しい登場人物が現れたわ。花道に侵入者が出たの。正確には、後ろの人に押されて転んでしまったみたい。
私の行く手を阻む様に、膝をついて転んでしまった令嬢は、顔を下に向けているから、どんな表情をしているかはわからない。
でも、落ち着いた濃紺のドレスは好感が持てた。皆、学問を学ぶ場だというのに夜会に来るみたいに華美なんですもの。
その点、彼女のドレスは、とてもシンプルなの。貴族の子女として最低限の着こなしをしつつも、学ぶ事を忘れない姿勢を感じられて少し嬉しくなったわ。
周りから嘲笑うような声が聞こえる。助けてくれる様な友人は近くにはいないみたい。彼女はドレスのスカートをギュッと握りしめて、時が過ぎるのを待っているようだわ。
彼女を避けて先を歩くことも出来るのだけれど、さすがに放っておけなかった。物語の主人公『クリストファー』だって、この娘を放っておく筈は無いもの。
私は膝をついて、彼女に手を差し出した。観衆は静かにそれを見守っているようだわ。
「君、大丈夫?」
声をかけると、悲壮な表情で私を見上げる彼女と目が合った。何か言いたそうに口をパクパクと開閉させている。
差し出したままの手が、宙ぶらりんだわ。できたらこの手を取って早く立ち上がって欲しいのに、なかなか手を取って貰えない。
私は促すように、首を傾げた。すると、彼女は恐る恐る私の手を取ってくれたわ。
でも、辺りから大きな悲鳴が聞こえて、彼女は取った手を引っ込めてしまった。
もう、彼女から手を取ってはくれなさそう。だからといって、「はい、そうですか」と、放っておけないじゃない。仕方ないので、引っ込められてしまった手を少し強引に掴むと、立ち上がる様に促した。彼女は俯きながらも立ち上がってくれた。
「怪我はない?」
俯く彼女の顔を覗き込むと、ギュッと目を瞑ってしまったわ。そんなに嫌われてしまうと、悲しくなっちゃう。
私は思案した。選択肢は二つに絞られている。一つ目は、「大丈夫そうだね」と微笑んで、彼女を置いてこの場を去る。二つ目は、「念のため医務室に行こうか」と彼女を連れてこの場を去る。
もしも、彼女が『公爵令息物語』のヒロインなら、きっと私が居なくなった後に虐められるわよね。でも、私が連れて行っても虐められそうよね。
そもそも『公爵令息物語』のヒロインって誰になるのかしらね?
私は三つ目の選択肢を思いついたわ。
「大丈夫そうだね」
彼女の頭を撫でて優しく微笑んだけれど、彼女は目を瞑っているから私のことは見ていない。観衆はといと、私がこの後どうするのかジッと見守っているわ。
目の前にいる令嬢から離れて、くるりと振り返った。ゆっくりと全体を見回す。この中で一番偉いのは誰かしら。アカデミーを舞台にする物語には必ずと言って良いほど、暗黙の中の序列が存在する。
そして、現実世界だって例外ではない。今朝渡された資料にも、その序列が簡単に書いていた。アカデミーには派閥があるみたい。一つ目の派閥の一番上に立っているのは、昨日挨拶をしたレジーナ。でも今ここには居ないのよね。
二つ目の派閥の一番は、名前も資料にきっちり書いてあったわ。アンジェリカ・ミュラー。この名前には覚えがある。夜会で踊ったカロリーナのお姉様かしら。
「誰か、良かったら教室まで案内してくれないかな?」
ここ一番で使う微笑みを見せれば、観衆から悲鳴にも近い、黄色い声が湧いた。けれど、誰も手を上げはしない。もう一度辺りを見渡すと、一番奥、アカデミーの一口に程近い令嬢がゆっくりと近づいて来たわ。
「クリストファー様、ミュラー侯爵令嬢アンジェリカと申します」
淑女らしい綺麗な礼。真っ直ぐに腰まで伸びた、黒くて艶やかな髪、勝気な黒い瞳。カロリーナと同じだわ。
彼女が挨拶をすると、空気がピンッと張り詰めた。きっと、彼女はこのアカデミーで女王様なのね。
「わたくしが、ご案内させていただきますわ。クリストファー様」
「アンジェリカ嬢、ありがとう。こんなに美しいご令嬢に案内して貰えるなんて嬉しいよ」
彼女の手を取って、指先に口付けた。周りからはまた、悲鳴が聞こえる。私はそれを右から左に聞き流して、アンジェリカの肩を抱いて先を促すことにした。私を見上げるアンジェリカの目は、少し冷めていたけれど、気にせず微笑んだ。
入り口の前で、一度足を止めて、騒めく観衆に目を向けて微笑むのを忘れない。
もう一度悲鳴が聞こえた。良く叫ぶ子が中にいるのかもしれない。喉が心配だわね。
校舎に入ると、アンジェリカは、私の手から離れ、何も言わずに、先を歩き始める。本当に教室の場所など分からないから、私はアンジェリカの少し後ろをついていくことにしたわ。
長い長い廊下を歩く。この景色は昨日見たな、と思いながら進むのだけれど、肝心の説明を聞いていなかったことを思い出した。
「さすがですわね、クリストファー様」
ずっと黙っていたアンジェリカがようやっと口を開いたと思ったら、にこりともせず私の方を見たの。
「何が?」
「とぼけるおつもりですか? 私を使っておいて」
「君は、騙されないか」
肩を竦めて見せたけど、やっぱりにこりともしない。攻撃的な黒い目が私を捕らえる。笑えばもっと可愛いと思うのに。
「ええ、あれで皆はあの子の存在をすっかり忘れたことでしょう」
「そうかな。私のせいで虐められるのは見たくなかったから、良かったよ」
ただ手を取って貰ったあの娘よりも、「美しい」と賞賛された彼女の方に意識が向く筈。おまけに口付けまでして、見せつけるように肩まで抱いたんだもの。ここまでしたのに助けられなかったら悲しいわ。
「あら?わたくしは虐められて良いと思ったのかしら?」
「君を虐めることができる人なんて、レジーナ嬢くらいだからね。レジーナ嬢は私のことをあまり好ましく思っていないみたいだから、大丈夫。それに、君と私は決して結ばれない」
ミュラー侯爵家には、娘が二人だけ。アンジェリカと、カロリーナ。カロリーナは殿下の婚約者候補。ならば、アンジェリカは婿を貰わなければならないもの。そのアンジェリカがウィザー公爵家を継ぐ『クリストファー』に靡くことは絶対にないと誰もが思うでしょう。
「二日目にして良く周りを見ていらっしゃるのね」
アンジェリカの何かを探ろうとする黒い目に、微笑みで返せば、形の良い眉がピクリと動いたわ。
「そういえば、殿下と貴方の編入を知って、貴族中が大混乱なのですって。今まで見向きもしなかったアカデミーに、編入希望が殺到していると聞いているわ」
「編入は認められていないのに?」
「それでも、よ。例外が二人も出たんですもの。もしかしたら、と思ったのではないかしら。全員断られてしまったらしいけど」
そりゃあ、殿下とお近づきになりたい者は多いわよね。しかも学問という言葉を盾にすれば、夜会よりも親しくなれるかもしれないもの。
私の相槌に、彼女は大きなため息をついたわ。
「殿下と貴方が恋愛結婚を望んでいることは、貴族の間ではとても有名ですのよ。来年の入学希望はきっと大変なことになるでしょうね」
皮肉めいた彼女の言葉に、私は廊下から、四角く切り取られた空を見上げて、ため息をつくしかなかった。半年で卒業できる方法、無いかしらね。
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