33.ロザリアの恋

 『クリストファー』になって初めて、今自分が何者なのかわからなくなってしまった。今震えているのは『ロザリア』なのか、それとも『クリストファー』なのか。私は一体何者なのか。


 アカデミーから帰ってきた私は、誰にも会わずに別邸の自室に逃げ込んだ。晩餐に呼ばれても「いらない」と一言で済まし、私はベッドの横で小さくなることしかできなかったわ。


「好き……」


 そう口にすれば、私の身体は震える。今までこんなことはなかったわ。私の中の『ロザリア』が『アレクセイ様』に好意を抱いているのは、何となく感じていた。でも、いつもは淡い恋の物語を読んでいるような、少し他人事みたいな感覚だったの。それなのに、今私は、その物語のヒロインになろうとしている。


 駄目なのに。私は『クリストファー』なのに。


 両脚を強く抱えて、膝に顔を埋めた。さっきよりも心音が強く聞こえる。


 『ロザリア』になるのは怖いわ。だって、今気持ちが溢れたら、今まで努力してきたことが、きっと駄目になってしまう。


 私はこの気持ちをどうにか終わらせようと、深呼吸を繰り返した。それだというのに、何も変わらない。嘲るみたいに、『ロザリア』が私を見ている。


 助けて。


 私は何から助けて貰いたいのかしら。こんな気持ちは初めてで、私はもう一杯一杯だったの。


「……お兄様?」


 扉が開く音と、聞き慣れた声が静かな部屋に響いたわ。私はすがる気持ちで扉を見た。こんな姿見せちゃいけない筈なのに。


 扉の前には、夜着にガウンを羽織ったお兄様の姿があったわ。お兄様は、私を見るや目を大きく開いて、すぐさま駆け寄ってきた。


「ロザリーっ?!」


 いつもと違う、その声に私は目を見張った。だって、目の前にいるのが、まるで『クリストファー』だったんだもの。お兄様が私の名前を呼ぶのは久しぶりね。変なの。


「お、にいさま……」


 この時、確かに私の中の『クリストファー』の仮面は、真っ二つに割れてしまった。


 視界がぼやけてお兄様がどんな表情をしているのかはわからないわ。でも、きっと困惑している。


「ロザリー、大丈夫だよ。私が側にいるから」


 視界が真っ暗になると、お兄様の鼓動を感じる。トクン、トクンと優しい音が右耳から私の中に入っていく。お兄様の暖かい手の平が、私の頭をゆっくり撫でた。何度も何度も撫でてくれる。


「おにい……さま……ごめん、なさい……」


 止め処なく溢れる涙が、お兄様のガウンを濡らす。必死にお兄様のガウンを握りしめると、お兄様は、優しく背中をさすってくれた。


 どのくらいの間、こうしてくれていたのかしら。時に頭を撫でて、時には背中をさすり、ただお兄様は「大丈夫」と言ってくれた。何も聞かずに私の側にいてくれる。


 私がひとしきり涙を流し終えると、お兄様が私から少しだけ離れて、私の顔を覗き込んだ。


「ロザリー。君の苦しみを半分私に分けてくれるかな?」


 お兄様の瑠璃色の瞳が、髪の毛と同じ飴色のまつ毛と絡まって優しく光る。私は小さく頷いた。


「じゃあ、今日はロザリーとして、この部屋で一緒に眠ってくれる?」


 私は再び溢れ出しそうになる涙を堪えて、もう、一度頷いた。


「布団の中でお話ししよう?」


 お兄様に促されるままに、私は布団の中に潜り込んだ。久しぶり二人で入る布団は、ひんやりしていたけれど、二人分の体温ですぐに暖かくなっていく。


 今日は私に左側を譲ってくれた。十五年間の定位置が戻ってきたみたい。


「さあ、全部話してごらん」


 頭や頬を優しく撫でるお兄様の手が暖かくて、私の瞳からはまた涙が溢れた。それでも、少しずつ今までにあったことを話し始めた私に、お兄様はただ相槌を打ってくれる。整理されていない、感情のままに語る私を、決して咎めたりしない。真綿に包まれるみたいに暖かい相槌に、私は次第に冗舌になっていった。


「それじゃあ、殿下はロザリーのことが好きだから、ロザリーのことを待つと言ってくれたんだね」


 納得したように、お兄様は笑った。笑顔がなんだか私の心まで見透かされている気がして恥ずかしさを覚える。


「ええ、でも私はアレクの……アレクセイ様の手を取ることすらできないのに……。「駄目」って言えば良かったのに、私は」


 また涙が溢れてきた。お兄様の優しい顔が涙の海に溺れていく。あやすように、頬を撫でる手が優しくて、タガが外れてしまったみたいに涙が溢れていく。泣き虫の『ロザリア』は、一年分の涙をここで流そうとしているのかもしれない。


「ロザリーは、殿下のことが好き?」

「好きに、なっちゃ駄目だもの」


 もしも好きだと認めたら、私が『クリストファー』ではいられなくなっちゃう。私は目を固く瞑り、何度も首を横に振った。


「違うよ、ロザリー。私は『ロザリア』に聞いているんだよ。『クリストファー』じゃない。『クリストファー』は今日はお休みだよ」


 優しいけれど、強い口調に、私もう一度目を開いた。瑠璃色の瞳が優しく目を細めて笑いかけてくれる。


「……すき、私、アレクセイ様のことが、好きよ」

「そう、なら二人は両想いだね」


 頭を撫でる優しい手と、両想いという言葉に、耳まで熱くなるのがわかったわ。


「でも、私は」

「でもは無しだよ、ロザリー。約束まで、あと二年ある。私はあと二年で病気を治してロザリーから『クリストファー』を返して貰う。ロザリーも病気を治して、『ロザリア』に戻る。そして、殿下の手を取るんだ。いいね?」


 強い言葉に私は小さく頷いた。


「お兄様が言うと、何だかできそうな気がしてきたわ」

「それは、私が二人ならできるって確信しているからね」


 いつもの様に笑ってくれる。やっぱりお兄様の笑顔には魔法がかかっているわ。だってこんなに胸が軽くなっていくんだもの。


「でも、私、二年間も好きだってこと、アレクセイ様に隠すことができるかしら」

「隠さなくても良いんだよ。「妹が殿下のことを好きだと知っている」ことがバレても問題ないさ。殿下の言葉に一喜一憂したって構わない。妹のことを想ってのことだって言い訳が出来る。ロザリーは、妹の気持ちに気付いている『クリストファー』を演じれば良いだけ」


 お兄様が言うと、それだけで出来そうな気がするから不思議だわ。返事の代わりに、お兄様の手に手を絡めると、ギュッと握り返してくれた。その暖かい手の温もりに、私は目を細めた。


「お兄様は良いの?」

「何が?」

「アレクセイ様と仲良くするの嫌だったのでしょう?」


 ふと、思い出したの。殿下が馬車で言っていたことが本当なら、お兄様は殿下との関係を良しとしていないんじゃないかしら。一抹の不安が過った。本当は反対してるけれど、仕方なしに受け入れてくれてるだけなんじゃないかって。


「……知っていたの?」


 お兄様が途端に、居心地が悪そうに目を泳がせた。


「いいえ、アレクセイ様が言っていたわ。『構う度に良い顔をしない』って」


 私は殿下の真似をして見せた。ほんのちょっとだけ似ていた気がする。


「ああ、そういことか。困ったな、あの頃はまだ子供だったんだよ」


 お兄様の目にははっきりと困惑の気持ちが見て取れた。なんだか面白くなってしまって、私は声を上げて笑ったわ。


「うふふ、お兄様、私と同じこと言ってる」

「そうなの? 双子だからね」

「そうね、双子だものね」


 私達は、額を合わせて、笑った。


「あの頃はロザリーが取られるような気がして嫌だったんだよ」

「今は?」

「今も本当は、ちょっと嫌かな。でと全部取られちゃうわけじゃないしね」


 いつになく、とぼけた顔をする。でも、それが少しだけくすぐったくて、私の頬は緩んでいた。


「私、お兄様の妹で良かった。双子で良かったわ」

「私もだよ。ロザリーが双子の妹で良かった」


 お兄様の手をギュッと握りしめた。この手が無かったら、私は自分の足で立たなかったかもしれない。


「泣き虫のロザリアは、また封印しなきゃ」

「明日の朝、封印すると良い。今は、兄でいさせてくれる?」

「ええ、勿論。久しぶりに妹を満喫したいと思っていたところなの。お兄様、大好きよ」


 にっこりと微笑めば、お兄様は嬉しげに顔を歪ませていた。








社交界デビュー編 了

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