21.青薔薇の称号2

 殿下の瞳から一雫の雨粒が零れ落ちて、手紙に小さな染みを作っていく。私は何も言えなくて、ただ、降り続ける雨を眺めていた。


 していない筈の後悔の念が、今更ながらに湧き出てきて、私の中の『ロザリア』の部分が震えている。もっと違う返事ができたのでは?と、自身を咎める『ロザリア』を箱の中に閉じ込めるのは大変だった。


 殿下の手元には、ロザリアからの返事が握られている。真っ白で上品な封筒の中に入っているのは、断りの言葉でも、別れの言葉でもない。たった一枚の紙に描かれていたのは、二輪の牽牛花の押し花。


 殿下の涙はとても綺麗だった。瞳から溢れ出る雫に、これ程心奪われたことはないわ。男は人前では泣かないものだ。と、聞いていたけれど。


 これは見ていてはいけないものなのだと、なんとなく思った。こんな時に気の利いた一言でも言えれば良いのだけれど、残念ながら私の読んだ参考書の中では、男性は涙を流したりはしなかった。私が泣いた時、お兄様は優しく撫でてくれたわ。私はその手が大好きで、その手に撫でられると涙が引っ込んでいったわ。でも私が殿下にそれをするのは少し違う気がする。


 近くには護衛官も侍女もいる。彼らは今日のことを口外しないでしょうけど、彼らに泣き顔を見られているのは嫌よね。彼らは殿下の涙を見まいと、瞼を伏せてはいるけれど。気持ちの問題ではあるけれど、私は上着を脱ぎ取り、殿下の頭から被せた。突然のことで、殿下は身じろいだけれど、それを制すように声を掛けた。


「殿下、『花のお茶会』に参加する勇気が出ない臣下のために、このまま、少しばかり寝たふりでもして時間を稼いで下さい」


 返事は無かったけれど、上着を振り払わないということは、私のお願いを受け入れたということなんだと思う。私はゆっくり紅茶を飲んで待つことにしたわ。王宮で出される紅茶はそれはもう、おいしい筈なのに、緊張と不安で味がわからないわ。


 どうするのが正解なのか、未だにわからない。ただ一つ言えるのは、私が用意した手紙が、殿下の心を傷つけてしまったということ。


 私は返事に牽牛花の押し花を選んだわ。言葉は一文字も添えなかった。牽牛花を見せるという約束を果たすために。この手紙が殿下に届いた時点で、私達の約束は終わる。もう、これでおしまい。


 『ロザリア』とアレクセイ様の関係を自分自身の手で終わらせてしまったけれど、これからは、『クリストファー』として関わることができるもの。私はそれで幸せよ。どんな形でも大好きな人の側に居られるんだもの。


 でも、「ロザリアと同じ顔のお前なんか見たくない」って言われたらどうしよう?彼をうまく言いくるめることができるかしら。どんな形でも、貴方を支えられる場所に居させて頂けるかしらね。


 静かな雨が止むのには、時間がかかったわ。ティーカップが空になり、侍女に二杯目を入れてもらうついでに、濡らした手拭いをお願いした。その長い時間の間も雨は止まなかった。


 雲が流れ、形が変わっていくのをただ追いかけて、小鳥が近づいてきたらクッキーをお裾分けした。彼の震える肩を見たくなくて、必死に別の物を目に入れたわ。


 とうとう二杯目の紅茶を飲み切ると同時に、殿下はゆっくりと顔を上げたわ。頭に被った私の上着を丁寧に下すと、私に目線も合わせないで、それをこちらに寄こした。


「良く眠れましたか?」

「ああ」

「寝起きのせいでいい男が台無しですから、これでも使って下さい」


 上着を受け取る代わりに、濡らした手ぬぐいを手渡し、私はそっぽを向いた。なるべく見ないようにするのが良い気がしたの。殿下は何も言わずに手拭いを受け取ってくれた。手元の押し花は見るも無残な状態だけれど、役目を終えてすっきりした顔をしているような気がするわね。


「ロザリーは、私のことが嫌いになったのか?」

「私にはわかりません」

「そうか」


 私の目的は、これで果たせたのね。うまく行った筈なのに、なんでこんなに辛いのかしら。彼はこれから、『ロザリア』のことなんて忘れて、新しい恋をしていのね。


「いつか、私はあの子に会えるか?」


 殿下の少しだけ赤くなった目が、私を捕らえた。その目はなぜか、私の中にいる『ロザリア』を引っ張り出すような気がして、とても恐いわ。


「病気が治ればいずれ」


 私は、得意の笑顔を張り付けた。これ以上何も問うなと言わんばかりの笑顔に、彼は眉を顰める。


「ならば私は、待つ」

「……殿下?」

「病気が治るまで待つさ」


 次は私が眉を顰める番だった。殿下は立ち上がり、ガゼボを出た。大空を仰ぎ見る。私も彼を追うようにガゼボを出た。強い日差しが私達を刺すようで、目を開けていられなかった。うっすらと開いた両眼で見た殿下の表情はよくわからなかった。


「病気は明日治るようなものではありませんよ」


 きっと、彼は待つことなんてできない。彼は王太子なのだから。早く結婚し、子供を授かる必要がある。王子は彼一人なのだから、彼がその責務から逃れることはできない。十五歳の現在、彼には婚約者がいない。すぐにでも婚約者を決めなければならない時期がきているのだから。


「わかっているさ。それくらい」

「そう、ですか」


 拗ねるように言う殿下の声は、ご自身の立場がわかっているようには思えないのだけれど。


「わかっている。もう時間はないことくらいは。でも、ギリギリまで待たせてくれ」


 彼の真剣な眼差しが、声が、私の心の臓を突き刺す。ドキリと胸が跳ねた。期待なんてさせないで欲しいのに、なぜ、勝手に期待で胸が高鳴ってしまうのだろうか。


「私に止める権利などありません」


 私はにっこり笑った。きちんと笑えたかしら。引きつってないかしら。私の心の内は覗かれていないかしら。


「クリストファー、お前はずっと私の側に居てくれるんだろう?」

「殿下がそう、望むのであれば」


 私は、膝をついて頭を下げた。私が望んでいた形。『クリストファー』としての約束。


「クリストファー、私と共に来い」

「仰せのままに」


 殿下を見上げると、今日一番嬉しそうな笑顔を見せてくれた。私は、この笑顔と共に歩んでいこう。そう、心の中で決心した。


 そうして、私達は長い長い回廊を歩いている。『花のお茶会』の存在を無視することはできないからだ。いや、殿下は無視を決め込もうとしていたようだった。けれど、王妃様に付いている侍女が一人迎えに来たの。迎えが来たら行かなくてはならない。と、彼はしぶしぶ重い腰を上げたのよ。


「クリス」


 侍女に先導され、二人で回廊を歩いていると、殿下が声を掛けてきた。何事かと、彼の方を向くと、彼はニヤリと楽しそうに笑った。


「クリスと呼んでも良いか?」

「ええ、どうぞ、殿下のお好きなように」


 五年前はロザリアのことは「ロザリー」と呼んでいたけれど、クリストファーのことは「クリストファー」って呼んでいたのよね。なぜかしら?今度お兄様に聞いてみましょう。


「アレクでいい」

「……は?」


 思わず変な声が出てしまったわ。さすがに殿下を愛称で呼ぶのは少し躊躇われるのだけれど。


「殿下ではなく、アレクと呼べ」

「それはさすがに」

「命令だ」


 どんなに言っても彼は引きそうにない。なぜそんなに「アレク」と呼ばせたいのかしら。


「……アレクセイ様」


 苦し紛れに『ロザリア』のように読んでみたけど、彼の眉間に皺が寄った。


「それはロザリーが使っている大切な呼び方だから使うな」

「……わかりました、殿下」

「アレクだ」

「……アレク」


 彼は大きく頷き、嬉しそうに笑った。笑ってくれるのなら、まあいいかな。なんて、甘いことを考えてしまう。


「公式の場面では「殿下」を貫きますからね。アレク」


 私が言えるのは、それくらいだったわ。『花のお茶会』に行く彼の足取りが少しだけ軽くなったような気がする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る