19.約束の花
『約束を果たしたい』
王妃様のお茶会の折り、殿下に託された手紙には、そのたった一言だけが書かれていた。
手紙を一緒に開いたお兄様は、意味が分からず、隣で首を傾げている。私はその『約束』をすぐに思い出し、お兄様の隣で小さく声を上げてしまう。
「『約束』とは何のことでしょうか?」
お兄様の、真っ直ぐな瞳に説明を求められると、私は不承不承と五年前、事件があったあの日、二人で交わした約束の話を始めた。
「つまり、殿下……いえ、アレクセイ様は五年前に約束した牽牛花を、『ロザリア』に見せて欲しいとおっしゃっているのね」
「多分、そういうことだと思うよ」
それ以外に約束をした覚えがない。あの日怪我を負ってから、約束を果たさないまま、五年が経っていたのね。
「五年も前の約束を健気に覚えてらしたのに、お断りするのはとても申し訳ないないですね」
苦笑するお兄様に、私も同じように苦笑を返すしかなかったわ。『ロザリア』とはどうやったって会わせられない。お断り以外の選択肢がない以上、私達にはどうすることもできないもの。
昨日の王妃様のお茶会は、あの後問題なく終了したの。私をガゼボに置いて行った殿下は、すぐに戻ってきて一通の手紙を私に託したわ。
『中身は見てもらって構わない』
殿下はそれだけ言うと、私を連れて王妃様のお茶会に戻ったの。私達が戻ってくると、待っていましたと言わんばかりに王妃様からの沢山の質問が降ってきたわ。事前に相談していた通りにつつがなく答え、王妃様も満足されているようだった。
『またいらしてね』
王妃様の優しい一言に、頭を下げて乗った馬車の中では、お母様はとてもご満悦だったわ。私も役目を無事に果たせたことにとても安心したもの。
そして次の日、そう今に至る。
「お兄様、何とお返事をお書きしましょうか?」
手元には一通の手紙のみ。今日はベッドの上で二人きりでお話をしているの。最近は調子が良かったお兄様なのだけれど、少し頑張りすぎたみたい。昨日、また熱を振り返してしまったの。
様子を見にきたついでに、手紙の話になって、今しがた封を二人で切ったのよ。でも、あまり長居はいけないわ。
「うーん、困ったね」
「そうですわね。『約束』ですものね」
「そうだね」
小さな頃の約束とは言え、約束は約束。それを簡単に反故にするのは些か躊躇われたわ。
隣で難しそうに考えるお兄様のお顔が、少し赤くなってきている。また熱が出てきてしまったようだわ。
私はお兄様の頭をポンポンと撫でて、優しく微笑んで見せた。
「私は少し、お返事の内容は考えてみるから、今は休んで」
「ええ、そうしますわね」
素直に横になったお兄様に布団を掛けて、頭を撫でた。早く、治りますように。辛いお兄様の姿はあまり見たくないもの。
「それじゃあ、ロザリア。ゆっくりお休み」
「おやすみなさいませ」
お兄様が静かに目を閉じると、私はお兄様から手を離し、部屋を出ることにした。おやすみの邪魔をしてはいけないものね。手紙は、サイドテーブルの上に預けて、そっとお兄様の側を離れたわ。
「お兄様」
扉に手をかけた時よ。お兄様のか細い声で呼ばれたの。取手に手を置いたまま振り返ると、お兄様が少しだけ起き上がってこちらを見ていたわ。
「お兄様、よろしいのですか?」
瑠璃色の瞳が心配そうに私を見つめる。いつだってその二つの瞳は、私の心の奥底を見透かしているような気がするわ。私はお兄様直伝の笑顔を返した。下手くそな笑顔になってしまったわ。
「大丈夫だよ。おやすみ」
これ以上、私の心の中を見られたくなくて、私はすぐに部屋を出た。これ以上、弱いところを見せるわけにはいかなかったから。
音を立てないように扉を閉める。静かな廊下に出ると、ドクンドクンと心の臓が脈打っているのがわかる。心を落ち着かせるように、ゆっくり深呼吸した。
「ミャー」
今、酷い顔をしているに違いない。人に会えばそれを指摘されてしまう気がしたから、どこか一人になれるところに行こうと考えていたわ。そう、思っていたのにも関わらず、それを許さないように、マリーが私の足元に擦り寄ってきたの。
「マリー」
「ミャー」
構って欲しいのかしら。お兄様は昨日からお部屋で休んでいらっしゃるから、マリーは入れてもらえないものね。私は可哀想なマリーを抱きあげたわ。
マリーは嬉しそうに鳴き、大人しく私の腕の中に収まったの。
「マリアンヌ嬢、私と散歩にでかけようか?」
「ミャー」
可愛らしい声で返事をしたマリーに、気をよくした私は、彼女を抱いて、庭園へと出た。向かった先は牽牛花。
可愛らしく咲く牽牛花をマリーと二人、眺めていたわ。マリーは、私の腕の中で満足そうにしている。花にはあまり興味が無さそうだけれどね。
「マリー、この花は殿下と『ロザリア』のたった一つの繋がりなんだよ」
庭師が丹精込めて咲かせた花を、私は見つめた。小さな頃から一等好きだった花だ。この花に添えられた物語も『ロザリア』の心を踊らせた。
マリーは返事をしない。それどころか少し眠たそうだ。背中を撫でてやると、大きな欠伸をしてみせたわ。寝かせろってことかしら?
「殿下は『ロザリア』を好きな女の子だと言ってくれた。でも、殿下の手を取れない病気の『ロザリア』は、彼に相応しくないんだよ」
内容なんてわからないのだろう、私の声を子守唄代わりにして、マリーがウトウトし始めている。眠ってしまうのは時間の問題ね。
私は、そんなこと気にせず、ただマリーに話しかけていた。誰にも話せないんだもの。でも、誰かに聞いて貰いたかったから。
「マリー、『約束』を覚えていたことを『ロザリア』はとても喜んだんだよ」
名前を呼んだからかしら、マリーの耳がピクリと動いたの。なんだか面白いわ。
「この『約束』を果たすまで、きっと彼は『約束』に縛られてしまうよね。『約束』を果たさなかったら、既に五年も顔を見ていない令嬢に、この先も彼は想い続けてくれるのかな?」
なんて、なんて黒い心。こんなドロドロとした気持ちに気付きたく無かった。いつか『ロザリア』の病気が治った時に、彼の手を取りたいなどというのは、おこがましい願いだわ。
「でも、私はクリストファー・ウィザーとして、殿下を支えると決めたんだ。ごめんね、『ロザリア』。君と王子様の『約束』は私が終わらせることにするよ」
私は二輪の牽牛花を摘み取った。可憐な赤紫と、彼の瞳によく似た紫の二輪。
不思議と涙は出なかったの。泣き虫のロザリアは貸し出し中だものね。でも、腕の中のマリーが、私の頬をザラザラとした舌で何度も何度も舐めてくれたわ。きっと、マリーに『ロザリア』の悲しみが伝わってしまったのね。
それから一月もしないうちに、王妃様からお茶会への招待状が届いたわ。この前の極々個人的なものではなくて、もう少し人を増やしたお茶会だとお母様は言っていたわ。
お母様は、「今回はわたくしだけの参加でも大丈夫よ」と言ってくださったけど、私は参加の意を示したわ。
彼のと約束を果たすために。
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