5.初恋の花1

 お兄様の眠る二階のお部屋に戻ると、静かに菜の花を窓辺に飾った。お兄様は眠っている。熱が上がって少し息苦しそうだった。


 もうこの五年間、何度もこの姿を見て見ているけれど、やっぱり慣れないわ。


 額の上に乗っている手拭いを触ると、熱を帯びていて、本来の仕事はもうしていない様だった。お兄様を起こさないよう細心の注意注意を払って熱くなった手拭いを取り外す。桶の水に浸してやると、冷たかった水が少しぬるくなった様な気がした。ああ、そうだ。こんな時は私の冷たい手が役に立つ。


 お兄様の額の上に、右手をゆっくりと乗せた。じんわりと、熱が手の平に伝わってくる。もっと、もっと熱を奪って。早くお兄様が元気になりますように。


 右手が温かくなったら、左手を。桶の冷たい水に空いた方の手を浸して、いつもの冷たい手を更に冷やした。


 何度も何度も繰り返した。どのくらい時間が経ったろうか。シシリーに晩餐の時間だと呼ばれるまで、私はすぐにぬるくなってしまう手拭いの代わりをずっと続けていた。


 一人の晩餐は味気ない。お父様はまだお帰りになっていないと言うし、お母様は体調が悪いから自室で摂るらしい。きっと、お母様は何の相談も無しに髪の毛を切ってしまった私のことを、見るのも辛いのね。


 シシリーは決して一緒の席で食事を摂ってくれない。私がいくらお願いしたとしてもだ。


 機械的に食事を口に入れた。ここで私が食事を拒否すれば、きっと皆に心配をかけてしまうもの。私はもう、誰の涙も見たくない一心で、フォークを口に運んだ。


 食事が終わると、私はすぐにお兄様の眠っている部屋へと戻った。お兄様が熱を出す日は、別の部屋で眠る。


 それは、この別邸に引っ越してきた時からの約束だった。けれども今日はそんな気分にはなれず、看病すると言い張ったのだ。出来ることなんて、額の手拭いを交換することくらいなんだけれど。


 ほんのり欠けた月が、カーテンの隙間から顔を覗かせている。何故月は形を変えるのか。私はこの答えを知らない。五年前の疑問が今も胸の奥底で私の気持ちを揺さぶりつづける。あの時も、月明かりの下、菜の花が揺れる、そんな夜だった。



◇◇◇◇



 今から五年前。十歳の春。その日の私は少し浮き足立っていた。ウィザー公爵邸は朝からバタバタとしていて、皆忙しい。お兄様と私は別邸で沢山のお菓子を与えられ、大人達に『大人しくしているように』と言い含められていた。


「今日はどのくらい人がくるのかしら?」


 私は別邸の窓から本邸の方を見た。広い庭園の先にある本邸は、背の高い木々が邪魔をして、どんなに目を凝らしても見ることはできない。それでも、私はもしかしたら何か新しい情報が手に入るかもしれないと、窓辺に噛り付いていた。


「何人かはわからないけど、王妃陛下はお忍びでくるみたいだよ」

「王妃様が?」


 お兄様も私の隣で並んで窓の外を見ていた。お兄様は本邸の様子に興味があるというよりも、私に付き合って隣に居てくれていただけだと思う。お兄様は優しいから。


「お母様と王妃陛下は小さい頃から仲が良いから、お母様の誕生日をどうしてもお祝いしたいって、お忍びで来ることにしたらしいよ」

「お忍びって堂々としているのね!」

「公式の訪問じゃないってことじゃないかな? 公式の訪問だと、主役が王妃陛下になってしまうから」

「そうよね。今日はお母様が主役だもの。お母様と王妃様はとっても仲良しだから、きっとお母様、とっても喜ぶわ」


 何度かお母様に王妃様のお茶会に連れて行って貰ったことがある。王妃様とは本当に仲が良くって、お茶会の間、お母様はずっとニコニコしているの。今日もその笑顔が見れると思うと、嬉しくてワクワクする。お母様の嬉しそうな笑顔が脳裏に過ぎると、笑みが自然と溢れていた。お兄様も嬉しそうに笑って、私の頭を撫でてくれる。


「そうだ、ロザリー、多分だけどね、王太子殿下もいらっしゃるよ」

「アレクセイ様が? なんで?」


 私は小首を傾げた。お母様と仲良しの王妃様がお忍びでいらっしゃるのはわかるけれど、なぜアレクセイ様がお忍びに着いて来るのか。


「なんでかは……わからないけれど、今夜は僕達も参加するだろう? きっと、殿下のお相手をするためだよ」

「……そうね、去年はお部屋で寝ていたわ。楽しそうな音楽が聞こえてきて羨ましかったもの」

「殿下も僕達と同い年だし、大人達とずっと一緒だと退屈するだろうからって、ことなんじゃないかな?」

「まぁ! じゃあ、今夜はお兄様とアレクセイ様と三人で遊べるのね!」


 早速準備をしなくては! チェスかしら? でもそれだと二人しかできないわ。それともカード? 庭園で鬼ごっこ? 私は、窓から離れて部屋中をうろうろ歩き回った。朝から窓に張り付いていた気持ちなど、何処へやら。今夜ことばかり考えてしまう。


 だって久しぶりにアレクセイ様にお会いできるのだもの。嬉しくないわけがないわ。


 王妃様とお母様はとっても仲が良いから、王妃様のお茶会には良く招待されているみたいなのだけれど、お兄様と私が連れて行って貰えるのは、三回に一回くらいなの。お母様に「もっと連れてって」と、お願いしたことはあったのだけれど、アレクセイ様もお勉強で毎回は参加できないんですって。


 アレクセイ様にお会いしたの秋のお茶会だったから、もう季節を一つも跨いでしまっているのよ。


「本当にロザリーは、殿下のことが大好きだね」

「ええ、だって物語で読んだ王子様にそっくりなのよ?」

「そっか」


 素っ気ないお兄様の返事。拗ねているのかしら?


「お兄様にそっくりな王子様が出てくる物語もあるわ。私はそれが一等お気に入りよ」


 お兄様の元まで走ると、勢い良く抱きついた。お兄様は、驚きつつもしっかりと抱きとめてくれる。お母様がいたらきっと、「はしたない」と叱られていたわ。お兄様と私の視線の高さは全く同じ。まっすぐ前を向けば、優しい視線が絡んだ。お兄様の嬉しさに揺れるような微笑みに、私の頬も緩んでしまう。


「ありがとう、ロザリー」

「大好きよ、お兄様」


 お兄様の肩に顔を埋めると、少し違和感があった。


「お兄様?」

「うん?」


 顔を上げた私は、お兄様の瞳をジッと見つめた。お兄様の瑠璃色の瞳がいつもよりもほんの少しだけうるうるしてる様な気がする。「よくわからない」と首を傾げるお兄様の額に、そっと手の平を当てた。お兄様の額は、私の手がジュゥッと音を立ててしまいそうなくらい熱かった。


「お兄様! 大変っ! お熱があるわ! メアリーを呼んでくるから、お兄様はベッドに入っていてね!」


 お兄様を無理矢理お布団の中に押しやると、私は慌てて本邸に駆けた。あんなに熱い額なんて触ったことがなかったから、私はお兄様が死んじゃうかもしれないって焦ったの。とっても不安になったら、涙が勝手にポロポロポロポロ溢れてきたわ。


 忙しそうに働くメアリーを見つけた時は、思わず抱きついて沢山泣いてしまったわ。淑女には程遠い行為だったけれど、涙が止まらなかったんだもの。仕方がないと思うの。


 すぐにメアリーが一緒に来てくれて、お兄様の様子を見てくれた。後からお母様が連れて来てくれたお医者様は、「大丈夫」と言って頭を優しく撫でてくれたの。不安で胸が潰れそうだったから、たったそれだけでも、私の心は救われたのよ。


「今日はこのまま二人ともお休みなさい。お母様は今夜は見ていてあげられないから、ロザリー、貴女がお母様の代わりにクリスを見ていてくれる?」

「はい、お母様。お兄様のお熱が下がるように神様にお願いしているから、安心してパーティを楽しんできて下さいませ」


 私はにっこりと笑って見せた。お母様の折角の誕生日だもの。お母様には心配せずに楽しんで貰いたい。涙はまだ頬を濡らしたままだったし、お兄様のことがやっぱり心配で、胸を張れるような笑顔ではなかったけれど、お母様は頷いてくれた。










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