6.初恋の花2

 お日様がとっぷりと沈み、本邸の方からは楽しそうな音楽が聴こえてきた。大きな庭園を挟んでいるから、それ程大きな音ではないけれど、人々の笑い声が今にも聞こえてきそうな程だった。


 その頃には、お兄様の熱も下がり、体調も随分良くなっていた。お医者様がくださった薬湯が効いたのね。お医者様って本当にすごいわ!


「ロザリー、ごめんね。僕のせいでパーティに行けなくて」

「いいえ、お兄様。私はお兄様を独占できて幸せだわ」


 お兄様は大きなベッドで横になっている。まだ、眠くは無い私は、ベッドの隣に椅子を置いて看病の真似事を始めた。


 お兄様はすまなそうに、私を見上げる。私は大きく頭を左右に振って、お兄様を元気づける為ににっこり笑った。


 お部屋には、今日着る予定だったドレスがちょっと寂しそうにかかっている。お姫様みたいなピンクの可愛らしいドレス。今日の為に作ってもらったのよ。このドレスを着るのが本当に楽しみだったのだけれど、ドレスを着る機会なんて何度もあるもの。全然悲しくはないわ。


 お兄様の顔色は良くなったけれど、まだまだ安心はできない。また熱が上がるかもしれないから、私がちゃんと見張っていないと!


「ねえ、お兄様」

「なあに? ロザリー」

「お兄様のお熱が下がったら、あのお洋服を着て、お母様の前で一緒にダンスを披露しましょう? 予定より遅れてしまったけれど、きっとお母様、私達のダンスを見たらびっくりするわ!」


 お母様の誕生日のために、お兄様と二人でこっそり練習したダンス。お父様とお母様の思い出の曲。お母様が良くお話してくれた、お父様との恋物語に出てくる曲なの。私達がお母様に用意したお誕生日のお祝い。私は立ち上がると、お兄様の前でくるくると回る。スカートが遅れてついてきて、最後は足に巻きついた。


「本当はね、お兄様。今日のダンスがなくなってホッとしてるのよ」

「……なんで?」


 床に膝をつくと、両腕と頭をベッドに預けた。お兄様と目線が揃って、思わず頬が緩んだ。


「だって、最後のステップの所、二回に一回は失敗するでしょう? 昨日の最後の練習で成功したのよ。きっと次は失敗してしまうもの。だから、あと一回練習して失敗したかったの。お母様にお見せする前に一度練習に付き合ってね」

「そっか、じゃあ早く治してダンスの練習をしなくちゃね」


 ようやく、お兄様が笑った。私は、お兄様の笑顔にホッと胸を撫で下ろした。やっぱりお兄様は笑顔が一番似合ってるから。


「そうだわ! お兄様、お兄様のお洋服、着てみても良いかしら? けっして汚したりしないから」


 私に用意されたドレスは私一人では着れないけれど、お兄様のお洋服なら一人でも着れそうだった。いつもの遊び、「取り替えっこ」をしようと思ったのだ。本当は、お兄様が眠るまでの間、少しでも楽しく過ごせるようにしたかっただけなんだけれど。


「ふふ、良いよ。ロザリーは僕の服が好きだね?」

「スカートよりも動き易いもの!」


 お兄様のお洋服は双子の私にも、勿論ぴったりで、私のためにあつらえたようだった。瑠璃色に銀糸の刺繍が入っていて、とっても素敵なのよ。早くこの衣装を着ているお兄様とダンスがしたいわ。


 私は着替えを終えてベッドの横まで行くと、くるり、と一回りして見せた。いつもの様にスカートは広がらないけれど、背中まで伸びた髪の毛が私の後を追う。


「どうかしら?」

「とっても似合うよ、ロザリー」


 お兄様の笑顔。天使様みたいに優しく笑うのよ。


「お兄様、嬉しい。でも、男の子のお洋服が似合うって、褒め言葉なのかしら?」

「どんな服でも似合うってこと。ほら、こっちにきて座って。髪の毛を縛ってあげるよ。そうしたらもっと王子様みたいになれるから」

「うふふ、お兄様みたいにかっこよくしてくださいませ」


 ベッドの端に腰掛けて、お兄様に紐を一本手渡すと、ゆっくりと起き上がったお兄様が、髪の毛を首の後ろの低い位置で縛ってくれた。


 窓辺に映ったシルエットは本当に王子様みたい。


 私は嬉しくなって色んなポーズを取ったり、お父様の真似事をしてみたり。ベッドの横でおどけて見せた。お兄様が楽しそうに笑っていてくれたから、私もとっても幸せよ。


 お兄様が眠そうに目を細めたころには私も遊ぶことができて、随分と満足していたの。だから、お兄様の邪魔をしないように、遊ぶのをやめて椅子に座った。


 二つの瑠璃色の宝石が、月明かりに照らされてキラキラとしている。時折瞼の下に隠れたり、顔を覗かせたり。それがとっても綺麗で、私はじっと見ていた。お兄様も私の方を見ているのだけれど、同じ様に私の目もキラキラしてるのかしら?


 お兄様はとっても眠そうだし、私もそろそろ着替えないといけない。お父様やお母様にこれが見つかったら、きっと叱られてしまうわ。


 お兄様の呼吸が深くなっていく。もう、瑠璃色の宝石は顔を覗かせない。


 そろそろ夢の世界にお出かけになった頃かしら?


 音を立てないように、椅子から立ち上がろうとした、その時だった。


 窓の方からコツン、コツンと窓を叩くような音がした。私はとっても驚いて、そして慌てたわ。


 だって、折角お兄様が眠ったところなのよ?


 私は音の原因を確かめるために、窓に手をかけた。窓をゆっくり開けると、ふわりと春の風が舞い込む。若葉の匂いに包まれて、私は目を細めた。風のせいで窓辺に飾ってあった木彫りの人形が、倒れて小さな音を立てる。慌てて振り返ったけれど、起こしてしまう様子はない。


 けれど、窓の外を見て、私はとっても驚いた。


「アレクセイ……様?」


 思わず私は彼の名前を呼んでしまった。驚いて出た声は、そこまで大きくはなかったけれど、お兄様は身じろいだ。布団の擦れる音が聞こえる。


「……ロザリー?」


 振り返ると、お兄様が心配そうに私を見ている。窓の外には月明かりに照らされたアレクセイ様がこちらを見上げていた。美しいプラチナブロンドが月明かりに照らされてキラキラしている。二階からでもその美しさは見て取れた。


「お兄様、アレクセイ様がお外にいるの」

「殿下が?」


 お兄様が身体をゆっくりと起こす。身体がとても重たそうだ。私は慌てて駆け寄ると、両腕でしっかりとお兄様の身体を支えた。お兄様の背中から、熱が伝わってくる。また熱が上がってきているようだった。


「お兄様は寝ていらして」

「でも、殿下が来ているんだろう?」

「ええ、でも、お兄様は寝ていないと駄目よ。お医者様にも眠っていなさいと言われたじゃない。私がお会いしてくる。だからお兄様は安心して眠っていて。ね?」


 お兄様がじっと私を見る。とても悩んでいるのね。


「お兄様、私なら大丈夫よ。お外に出ると言っても、庭園だもの。アレクセイ様のお話を伺ったらすぐに戻るわ。だから、ね?」


 アレクセイ様を無視することもできないし、体調の悪いお兄様を連れ出すこともできない。一人はとても不安だったけれど、私は笑顔を見せた。


「わかったよ。すぐに戻ってくるんだよ、ロザリー」

「もちろんよ。私がいない間、シシリーに側に居てくれるようにお願いしてくるわね」


 お兄様は一つ頷くと、ゆっくりと横たわってくれた。その様子にホッと胸を撫で下ろす。


 別室に控えていたシシリーに、お兄様のことをお願いした私は、アレクセイ様がいらした庭園まで足を運んだ。なぜこんなところにいらしたのかしら?


 今は本邸でパーティの筈。


 アレクセイ様は私に気がつくまで、私達のお部屋を見上げていた。二階から見たプラチナブロンドも綺麗だったけれど、近くで見るともっと綺麗。


 枝を踏む高い音が響いた。風に乗ってアレクセイ様の元まで届いたのだろう。私に気がついたアレクセイ様が、ようやっと視線を私に向けた。


「……クリストファー?」


 アレクセイ様は私をじっと見つめると、小首を傾げた。なぜお兄様の名前を呼ぶのかしら? 私も彼と同じように小首を傾げた。


 けれど、すぐに原因は分かった。風がふわりと吹いて、アレクセイ様の前髪をさらったのに、私のスカートはなびかなかったの。


 恐る恐る足元を見れば、いつも見慣れているスカートが無い。


 いやだわ。私、お兄様のお洋服のままここまで来てしまった。お兄様と私はそっくりだもの。アレクセイ様が間違えるのも仕方ない。


 シシリーったら、教えてくれてもいいじゃない。


「申し訳ありません、アレクセイ様。私はロザリアの方です。お兄様に何かご用心ですか? お兄様は今体調が悪くてお休みしております。言伝でしたら、私がお預かりします」


 何故男の格好をしているのか、とか、色々聞かれたく無かった私は一気にまくし立てた。恥ずかしくて、そわそわと何度も髪の毛を弄ろうとしてしまう。けれど、髪の毛は全て後ろでまとめられていて、右手が空を切るだけだった。


「ロザリーなのか!」


 アレクセイ様の形の良い唇から呼ばれると、私の名前も美しい花にでもなったみたいね。


 アレクセイ様は、私のことを愛称で呼ぶ。他意はなく、お兄様が私のことを『ロザリー』と呼ぶから、同じ様に呼んでいるのだと思う。


 アレクセイ様からは、以前王妃様主催のお茶会で『アレクと呼んでくれ』なんて言われたけれど、さすがにそれは難しくて、『アレクセイ様』と呼ばせていただくことにしたの。だって、王子様のことを気安く呼ぶことはできない。


 始めはお兄様と同じように『殿下』とお呼びしていたのだけれど、それでは嫌だと仰るから、間を取って『アレクセイ様』。

 お兄様は『殿下』が許されて、私が許されないのは何故なのかしら?


 アレクセイ様は、形の良い眉をこれでもかという程上に上げて、紫水晶みたいな瞳が零れそうなくらい、目を見開いていた。


 それはそうよね。女の子はこんな格好しないもの。穴が有ったら入りたいわ。今なら井戸にも飛び込めそう。


「こんな格好で申し訳ありません」

「いや、私も突然すまない」

「あの、アレクセイ様。ご用件をお聞かせ下さいませ。お兄様が直接お会いできないのが心苦しいのですが……」


 アレクセイ様が王妃様と一緒にお忍びでいらしたのは、想像がついていたけれど、本邸からわざわざここまで来るなんて。確かにここは庭園を抜けた先に有るけれど、ウィザー家の庭園は広い。そんな別邸までやってきたのだから、きっと大切なご用事に違いないわ。


「いや、私はクリストファーに会いに来たわけではなくて……」

「ではなくて?」


 私は小首を傾げた。


 私をしっかりと見つめる二つの紫水晶。月明かりに輝くプラチナブロンド。落ち着いた紅いジュストコールは銀糸で薔薇の刺繍が施されている。その姿は、まるで物語から出てきた王子様。


 私の大好きな物語なら、そうね……月明かりに照らされた庭園で、王子様がヒロインを見て言うのよ。甘い声で。


「ロザリー、私は君に逢いにきたんだ」


 思考の海から引き戻される。今度は私が目を丸くする番だった。







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