2.菜の花の夢

 夢を見たの。懐かしい夢。ずっとずっと小さかった頃の夢。


 あの頃は今よりももっと、何をするにもお兄様と私はいつも一緒だった。寝る時も、起きる時も。食べる時も。


 物心ついた頃には、既につけられていた家庭教師。お勉強の時間は、いつも一緒だった。


 いつだったかしら、菜の花が満開に咲いた頃だったのは覚えているわ。その菜の花を、お兄様と沢山摘んで、お母様に贈ったらお母様の笑顔も満開に咲いたのよ。胸がポカポカしたのを覚えている。


 お昼を過ぎた頃に、お母様に手を引かれてお部屋に入ると、知らない女の人が立っていた。


『今日からロザリア様の家庭教師をさせていただきます。イザベラでございます。よろしくお願い致します』


 イザベラのお手本のような綺麗なお辞儀と、お母様の笑顔はよく覚えている。けれど、部屋の中にお兄様は居なくて、なんだかとても恐くなった。お兄様と引き離されると思ったのね。目から涙がポロポロポロポロこぼれ落ちて、止まらなかった。


 淑女としてはとても褒められた行為ではなかったけれど、私は必死に大きな声でお兄様を呼びながら泣いた。お母様が何か言っていたような気もするけれど、あの時の私は本当に必死で、お母様の言葉は右耳にも、左耳にも入ってはこなかった。


 その後すぐにお兄様がお部屋に入ってきて、私の手をギュッと握ってくれたのを覚えている。あの時のお兄様の手も、私のよりもほんの少しだけ暖かくて、涙も不安も飛んでいってしまったの。


 お兄様を見ると、お兄様の目も真っ赤だった。きっとお兄様も離れ離れになってしまって、寂しかったのだと思う。それなのに、お兄様は私を慰めるように、優しい手つきで頭を撫でてくれた。


 その日は一日中、お兄様を連れていかれまいと、必死に手を握っていたわ。


 別々になる筈だったお勉強の時間だったけれど、私とお兄様の決死の説得のお陰で、二人一緒にできることになった。泣いてお兄様の手を離さない私を見て、お父様もお母様も諦めたみたい。


 お裁縫のお勉強も、乗馬のお勉強も、剣術のお勉強も、音楽のお勉強も、全部一緒。覚えなくてはいけないことは沢山増えてしまったけれど、お兄様と一緒だから嫌だと思ったことは一度も無かったわ。


 お兄様の方が刺繍が繊細でお上手だったのと、私の方が少しだけ剣術が得意だったことには、お父様やお母様に笑われてしまったけれど、それ以外は似たり寄ったりの成績だったのよ。


 毎日一緒に起きて、一緒に勉強して、一緒にベッドに入る。いつも向かい合って、布団に潜っていたわ。お兄様はいつも、長い髪を手で梳きながら、優しく頭を撫でてくれた。


 もう、そんな夜は来ない。だって、私の飴色の髪の毛は、お兄様と同じくらいまでの長さになってしまったんだもの。



◇◇◇◇



 朝、布団の隙間から優しい陽の光が差し込むと、私の目も自然と開いた。私の手はしっかりとお兄様の手を握っていた。お兄様の手もしっかりと私の手を握っていてくれて、とても嬉しい気持ちでいっぱいになった。


 寝返りもうたずに寝ていたからか、肩や首回りがギシギシと悲鳴を上げている。


 程なくしてお兄様の瑠璃色の瞳も、ゆっくりと顔を覗かせた。目が合うと、優しく微笑んでくれる。それはいつもよりも一等優しく見えた。


「おはようございます。


 お兄様は、すぐに悪戯っ子みたいに笑って、朝の挨拶をしてくれた。私がいつもするみたいに。


 ああ、始まってしまうのかな。


 そんなことをぼんやり思いながら、いつもお兄様がしてくれてるみたいに、手でゆっくりと頭を撫でてやって、微笑みかけた。


 毎日見ている笑顔を真似たつもりだったけれど、上手くできているかしら?


「おはよう、ロザリー。今日も可愛いよ」


 これは、お兄様の朝の常套句あいさつ。撫でてくれる暖かい手が大好きだった。私の手はお兄様のよりちょっとだけ冷たいから、もしかしたらあまり気持ち良く無いかもしれない。


 目と目を合わせて、二人で笑い合った。まるで小さな頃していた取り替えっこの遊びみたいで、楽しかったのだ。


 布団を剥がすと、カーテンの隙間をぬって入ってきた光に目を細めた。視界の端、窓辺に横たわる飴色の髪の毛がキラキラ光る。


 そっと自分の髪の毛を、手で梳いた。首元でスルリと無くなってしまう感覚は初めてだ。


 こんなに短くなってしまった髪を見たら、お母様は泣くかしら? お父様は怒るかしら? メアリーは? シシリーは? 寡黙なクロードの驚いた顔が見れるかもしれない。


 ベッドの横のテーブルにのろりと近づく。意を決して置かれたベルを手に取ると、逆の手をお兄様がしっかりと握ってくれた。お兄様の暖かい手はいつだって私に勇気をくれる。


 ベルを鳴らすと、すぐに扉を叩く音がする。侍女のシシリーが、いつもするように入ってきて、丁寧に腰を折った。


「おはようございます。クリストファー様、ロザリア様」


 ゆっくりと顔を上げるシシリーと目が合うと、途端に私の心臓が跳ね上がった。何度も何度も頭の中で、今日の朝を想像した。


 声を上げるシシリーも、慌てふためくシシリーも、涙を流すシシリーも。彼女に怒られる想像も怠らなかった。沢山頭の中で練習したのだから、上手くやれると思ったけれど、ただ顔を見ただけで、心臓が飛び跳ねたのだ。想像よりもずっとずっと緊張している。


 シシリーは呆然と私の顔を見つめていた。数度の瞬きの後、お兄様の方に視線を巡らせる。


 昔お兄様とお洋服を交換して、シシリーを困らせて遊んでいたのを思い出したのかしら? でも、貴女の見ているお兄様はロザリアではないのよ。


「おはよう、シシリー。すまないけど、父上と母上を呼んできてくれるかな?」


 先に口を開いたのは、お兄様だった。お兄様は私より緊張していないのかもしれない。


 私なんてバクバク言っている心臓を、抑えるので手一杯だったもの。シシリーに朝の挨拶の一つもしていないわ。


 シシリーは声も上げずに、何度も何度も首を縦に振り、慌てるように部屋を後にした。何も言えないまま、私はシシリーを見送ると、顔をお兄様に向けた。お兄様も同じ様に私を見つめていた。あんなに驚いたシシリーの顔は初めて見た。それはお兄様も同じなのだろう。だって瑠璃色の瞳がそう、言っているから。


「ロザリー」


 お兄様がいつものように、私を呼んだ。


 取り替えごっこは、お父様とお母様とのお話が終わるまではお預けなのね。さすがに髪を切って男の子みたいな話し方をしたら、お母様も驚きのあまり倒れてしまうかもしれないものね。


 お兄様の声に首を傾げると、お兄様は私のすぐ隣まで近づいて、優しく頭を撫でてくれた。暖かい手の平がとても優しくて、ゆっくりと瞼を閉じた。優しく撫でられるのは好きだ。なんだかちょっと猫になった気分になるのだ。


「お話が終わったら二人で菜の花を摘みに行こうか」


 驚いてパッと瞼を上げると、お兄様の優しい笑顔が応えた。


「お母様、笑ってくれるかしら?」

「今度は離れ離れになっても泣いてはダメだよ? ロザリー」

「その時は、次は私がお兄様を迎えに行きますから、待っていてくださいませ」


 お兄様も夢を見たのだろうか、菜の花の夢。なんだか、それを聞くのは野暮な気がして、胸を張ってみせるだけに留めることにした。


 二人で笑っていると、扉の向こう側からいくつもの慌ただしい足音が聞こえてきた。今日、菜の花を摘みに行けるといいな。と、私は窓の外に目をやった。




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