偽りの青薔薇〜男装令嬢の華麗なる遊戯〜
たちばな立花
社交界デビュー編
1.プロローグ
私はベッドを背にした状態で、横に置いてある椅子に腰掛け、静かに瞳を閉じた。ゆっくりと、ベッドの際、私の後ろに座るお兄様の存在を、背中で感じる。
満ちた月がカーテンの隙間から優しく二人を照らしている。灯りを燈せば誰かに部屋を覗かれる心配が有った。だから、二人で満月の晩を待ったのだ。この儀式は、誰に見つかることもなく、二人だけで成し遂げなくてはならなのだから。
お兄様の大きな深呼吸が、耳を通り心臓を駆け抜けた。不安と言う名の怪物が、頭の上からガブリと
私はほんの少しでも震えないようにと、膝の上の両手をギュッと握りしめ、心の内を悟られないように小さく息を吐いた。たったその小さな変化に、お兄様は気がついてしまったのだろうか?
私よりも少し低めの声が、不安な私の心に手を差し伸べんとする。
「ロザリー」
「……お願いします。お兄様」
少しだけ、ほんの少しだけ声が震えた。今度は確実にお兄様にも伝わってしまった。握りしめた手に力がこもる。後ろ姿しか見せていないのだから、不安な顔も、爪の食い込んだ手もお兄様からは見えない。しかし、きっとお兄様は、敏感に私の気持ちに気づいてしまったことだろう。だって、肩をほんの少しだけ、揺らしてしまったのだもの。
「ロザリー……」
お兄様の優しい声が、私のなけなしの決心を鈍らせる。私は決めたのだから。と、頭を小さく左右に振った。
「お願いします。お兄様」
先程よりもはっきりと声に出したにも関わらず、後ろで動く気配はしない。お兄様も私と同じ様に不安なのかもしれない。そう思うと、少しだけ笑ってしまった。
瞼を上げて、ゆっくり振り返ると、神妙な顔が返された。月灯りに照らされるお兄様のお顔は、小さな頃何度も読んだ物語に出てくる王子様の様に麗しい。じっと見つめていると、私とそっくりの瑠璃色の瞳が不安げに揺れた。
ああ、きっとお兄様にも私の不安が移ってしまったんだわ。きっとそう。
半月も前から何度も何度も相談して、段取りまで決めたのに、直前で逃げ出したいと思うくらいには。
でも、私達はもう、引き返せない。
「お兄様。大丈夫ですわ。私は、恐いわけじゃないの。少し、ほんの少しだけ。お部屋が寒いだけですの。早く終わらせて布団に入りましょう」
どんな言葉で取り繕っても、私の不安は、同じ瑠璃色の宝石を通って、お兄様の心にまで染み入ってしまったのだろう。宙を彷徨っている右手のナイフが、月灯りに照らされて、キラリと光る。
私は、お兄様の右手を両手で優しく包み込んだ。大きく見開かれた瑠璃色の宝石の中には、とても褒められたものじゃない、ぎこちない笑顔の少女がいた。
「もしも、お兄様ができないと仰るのなら、クロードにお願いしましょう。彼なら何も言わずにこの罪を背負ってくれるでしょうから」
私は狡い。こんなことを言えば、優しいお兄様は、絶対にこの右手を持ち上げると分かっているのだから。
お兄様は、私の予想通り、困った様に笑った。そして、すぐに左右に首を振ると、右手に力を込めて、私にその意思を示してくれた。私は、ぎこちない笑顔のまま小さく頷くと、そっとお兄様の右手から両手を離して、何も言わずに体制を元に戻した。両手を胸の前で握り締める。
「ロザリー、決して動かないで」
「ええ。お兄様」
瞳を閉じると、先程よりも、お兄様の存在をはっきりと感じた。
お兄様の暖かい左手が首筋を掠め、私の髪の毛が捕らえられる。頭に少しだけお兄様の重みを感じる。
腰まで伸ばした長い髪の毛は、首元で一纏めにしてある。毎朝整えるのに苦労するふわふわの髪の毛は、逃げないようにと背中の辺りで、もう一度縛られていて、いつもよりも大人しくしている。
ゆっくりと、お兄様が動いた気配がする。その気配を敏感に感じ取ると、髪の毛が後ろに引かれる感覚がして、首を強張らせた。それを感じてか、お兄様の手が一度止まる。
しかし、私が動かないことを確認すると、また手に力が入った。
ナイフが髪の毛を引き裂く音が耳元で響いた。
お兄様とお揃いの飴色の髪。
憧れの王子様が、何度も褒めてくれた柔らかい猫の様な髪。
乳母のメアリーと乳姉妹のシシリーが、毎日丹精を込めて手入れしてくれた髪。
どんどん、どんどん頭が軽くなる。沢山の思い出が詰まった髪の毛。
昔はお兄様と同じ髪型にしたくて、自分で切ろうとして怒られたこともあったわ。それで一時期、お兄様も私と一緒に、髪の毛を伸ばしていたこともあったもの。
最後の一房が切り取られると、スルッと頭が軽くなった。握り締めた手を解くと、笑顔で振り向いた。
今度は上手く笑えたと思うの。
「お兄様、なんだか首がソワソワするわ」
「風の精霊が、私達の門出を祝うために遊びに来ているのかもしれないね」
左手には飴色の思い出。右手には役目を終えたナイフ。お兄様は目を細めて笑った。
「そうね。きっとそう。残念だわ。精霊さんを見ることができたら、一緒にダンスを踊りたかったわ」
私は椅子から立ち上がると、クルリと一回転して見せた。夜着のスカートがヒラリと舞う。いつもみたいに後からついて回る飴色の髪の毛はもう無いけれど。
お兄様が小さく咳をすると、私は慌てて駆け寄った。お兄様の左手にある髪の毛と、右手にあるナイフを預かり、月灯りが差し込む窓辺にそっと置いた。
「お兄様、もうお休みしましょう? 身体に障るといけないもの」
「そうだね。もう、寝ようか。明日は父上が屋敷を出る前に起きないといけないからね」
布団に潜るお兄様の後を追うと、お兄様と向かい合って寝転んだ。大きなベッドは余裕があって、二人で大の字になっても当たらないのに、私はベッドの真ん中で、子供みたいに小さく丸まってみせた。お兄様も私に倣って背中を丸め、足を縮めた。二人で頭まですっぽりと布団を被ると、殆どお兄様の表情は見えなくなってしまった。
お兄様が両手で私の右手を優しく包んでくれると、私の口からほっとため息が漏れた。私のよりも少しだけ暖かい手は、不安で凍えそうな心を少しずつ温めてくれる。少しの間の沈黙は、心を落ち着かせてくれた。本当は震える程怖いのに、握られた暖かい手が、一人ではないのだと、言われてるみたいだから。私はお兄様の優しさに応えるために、左手を重ねた。
「明日、お父様とお母様、とっても怒るかしら?」
悪戯っ子みたいに笑ってみせた。暗がりに目が慣れてくると、何となくお兄様の口角も上がっているような気がした。
「きっと、お母様は泣いてしまうだろうね」
「そうよね。私達、悪い子だわ。またお母様を泣かせてしまうなんて」
「そうだね、私達は悪い子だね」
私達はお母様の涙を、何度も何度も見ている。私が肩に大きな怪我をした時も、お兄様がご病気だとわかったときも、お母様は自分のことの様に涙を流した。次こそは泣かせない。と、二人で誓い合ったのはいつのことだったか。こんなに早くにその誓いを破ってしまうなんて。
「……お兄様。私に『クリストファー』をお貸し下さいませ。お兄様のご病気が治るその日まで」
「ロザリー。ごめんね。いいや……ありがとう、ロザリー。私の代わりに沢山背負ってくれて。『クリストファー』を君に。私は『ロザリア』を守ろう」
「お兄様。私達は二人で一つ。だって双子だもの。お兄様が辛い時は私の出番だわ。二人でウィザー家を守りましょう?」
両手に力を込めると、お兄様も同じように応えてくれた。今はなんだか、凄く心強い。
私、双子の妹、ロザリア・ウィザーはこの日、双子の兄クリストファー・ウィザーになった。生まれてから十五年間伸ばしてきた飴色の髪の毛を切って。
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