15. 逃亡

 マコトは走っていた。急がなければ、キョウヤと話せなくなる。


 かつてマコトがまだ子供幼生有機資源だった頃に、こっそりアテナの職員データベースを遊び半分でハッキングし、電子書籍をダウンロードしたことがある。タイトルは削除されていたが、その一節は彼女の心の底からふとした瞬間に顔を覗かせた。


 ……――路行く■を押しのけ、跳ねとばし、■■■は黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の■たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。


 初めてこれを読んだ時から、マコトはこの主人公の行動を不思議に思っていた。どうして、保身のために彼は友達を見捨てなかったのか。庇ったところで主人公は殺されてしまうのだし、作中で彼は一度誘惑に負けそうになっている。システムに庇護されている有機資源マコト自身と重ねれば重ねるほどに、何故彼が走っていたのかが分からなかった。


 でも。


 ……――彼はただ彼のために走っていたんだ。今の、私みたいに。


 ユズリの言葉で、心の内にあった何かが変わった気がした。少なくとも、自分のエゴとシステムに怯えて葛藤していたマコトはもういない。あの物語の結末を、職員に規則違反ハッキングが発見されて謹慎室に連れていかれてしまったマコトは知らない。それでも、マコトは主人公と同じようにキョウヤの下へと走っていた。


 次の曲がり角を右へ。その次の通路を今度は左に。記憶している地理を頼りに、最短ルートを選んで路地裏を走った。


 その時、死角になっていた角で飛び出してきた有機資源と衝突する。咄嗟の事でよけ切れず、マコトは情けなく尻餅をついた。


「いって……おい、大丈夫か」

「だいじょ……キョウヤ!」


 ぶつかってきた相手は、探していた件の男性だった。雨の中を、黒い防水性のある布を頭から被って歩いている。その腕には、何かの包みが抱えられていた。

 キョウヤは辺りをきょろきょろと見渡してからマコトに手を差し伸べる。マコトはその手を取って立ち上がった。


「マコトか? お前、だいぶ長い事担当エリアを留守にしてたけどどうしたんだ? 「蟻」ってのも大変だな」

「キョウヤ、時間がない。確かめたいことがあるから質問に答えてほしい」

「あ? 質問?」


 布の下から見える目は怪訝そうに細められているが、今は時間が惜しい。マコトは彼に問うた。


「キョウヤ、君はレジスタンス「フェンリル」の一員なの?」

「……お前、なんでそれを」


 驚きで見開かれた目。それが答えだった。キョウヤは険しい表情でマコトを見た。


「どこで知った」

「PDMシステムの監視カメラに写ってた。「蟻」の上官が私を呼びに来たのは、私にスパイを探させるため」

「俺を売ったのか」

「……うん」


 俯いたマコトに、キョウヤは舌打ちをした。マコトは慌てて顔をあげ、彼に言う。


「でも、まだ通報はされてない。この端末に表示されてる制限時間まで、E-terは見逃してくれる」


 マコトは自分の端末を取り出して画面をキョウヤに見せた。カウントダウンは迫っている。


「私は、君と話すためにここまで来た。キョウヤ、どうして君はレジスタンスなんかに入ったの? 何か理由があったの?」

「……それを知ってどうする。お前が助けてくれるのか?」


 言葉に詰まった。確かに、それを聞いてどうするかなんて決めていない。これはマコトのエゴだ。それでも、彼女は知りたかった。システムに縛られない生き方を選んだ有機資源の心の内を聞きたかったのだ。


「……今までE-terに望まれたことは何でもやってきた。私の能力が社会の中で底辺だって言われても、私は「E-terが望んだから」ってだけで何でもやってきた。「蟻」の仕事も、キョウヤがスパイだって告発したのも、全部そうすればいいと思ってたから。でも、オッサンにレジスタンスの存在を教えられて、偶然出会った子に言葉をもらって……あぁ、言いたいことがまとまらない」


 頭を掻きむしって言葉が出てこない憤りを発散するマコトに、キョウヤは少し考えてから言った。


「俺はお前の事、E-terに媚を売るただの臆病者だと思ってた」

「それは、否定しない。私もそう思ってる。でも、今日、初めて自分の意志でやりたいことが見つかったんだ。君の話を聞く、そのために来た」

「……マコト、俺はな」


 その時、マコトが持っていた端末がビープ音をけたたましく鳴らした。ハッとして画面を見れば、そこには「Limit:00:00」と赤い文字で表示されている。


 時間だ。


 先に動いたのはキョウヤだった。防水性の布を脱ぎ、マコトの端末を奪ってそれに被せる。何重にも巻き付けて音を緩和した後、布の塊をマコトに投げつけた。


「俺は逃げる。お前はどうする」


 キョウヤの言葉にマコトは、躊躇わなかった。


「一緒に行く。私もシステムに支配されない生活を知りたいし、それに、まだキョウヤの話を聞いてない」


 まっすぐに見据えられた視線にキョウヤは眉をあげたが、文句は言わなかった。


「アジトまで逃げれば何とかなる。行くぞ」


 抱えていた包みを持ち直し、キョウヤは走る。マコトはその後を追いかけた。

 雨の中、二人分の足音が路地裏に響く。既に頭上から特殊追跡ドローンの音が聞こえているが、足を止めれば捕まるのは火を見るよりも明らかだ。しきりにぬぐっても目に入ってくる水が煩わしくて、マコトは首から下げたゴーグルをかけた。走っている間に端末のビープ音は止まったが、追っ手の気配は消えない。


「キョウヤ、目的地までどれくらいあるの?」

「まだ少しかかる。……この調子だと追いつかれるか」


 キョウヤが唸るように呟いた。


「建物の内部ならサーチライトは回避できるが、それだと時間がかかりすぎる」

「でも陸上駆動のドローンは細い路地裏を通れない。このまま突っ切った方がいい」

「……冷静だな」

「治安維持部隊のドローンのパターンは知ってるから。基本的な指示形態は「蟻」の電子パトロールと同じ」


 今までテロリストを追い込んでいた自分の手口を考えながら、マコトはキョウヤの後ろを走った。自分ならきっとターゲットを罠に誘導するだろう。マコトの考え通りに動くのなら、ルートは自ずと見えてくる。走りながらマコトは、自分の腰に下げたポーチに触れた。


「キョウヤ、目的地の座標を口頭でいいから教えて」

「あぁ?」

「違法だけど、今ならネットが使えるんだ。マップを開けば見つからない最短ルートを探せる」


 ユズリに渡されたルーターがあれば、以前彼と一緒に繰り広げたアテナの職員との逃走劇同様、逃げられる可能性がある。キョウヤは不審な顔をしたが、渋々座標を伝えた。


「アジトの入り口はQ1079だ」

「Q1079……」


 座標を反芻しながら、マコトはゴーグルの無線接続とルーターのスイッチを入れた。


「音声認識を開始します……不正なアクセスを確認しました」

「許可!」

「確認致します……かくに、ん……」


 骨伝導で聞こえてくる音声にノイズが混じる。ルーターのビットマップフォントがマコトの腰のポーチの中で赤く点滅し、「Connecting……」と形作った。


「か、く」

「動け!」


 マコトの一声に、ゴーグルの音声のノイズが止まった。しばしの沈黙の後、旧式の音声出力ソフトウェアの声が耳に届く。


「確認シマシタ、ヨウコソ、ゲストユーザー」

「マップ、座標Q1079までの最短ルートを表示して」

「了解、シマシタ」


 ゴーグル越しの視界にくるくると回る円のアイコンに焦れて、マコトは歯噛みした。


 ……――やっぱり、ユズリの端末からログインした方が早い。


 ルーターを介して違法に接続した回線は、やはり正規の手順を踏んでいないため読み込みが遅い。E-terが提供する回線セキュリティの都合上、認可された端末からのアクセスならば通過するセキュリティチェックやファイアウォールの数が少なくて済む。安全が証明されている装置ならば、違法性を疑う必要がないからだ。


「表示、イタシマス」


 ゴーグル越しに見える視界にマップが重なる。だが、それはE-terが提供するデジタルマップではなくただ地理を示しただけの文字通り地図だった。地形を簡易的な図に直したチープな模様は、E-terが提供する立体的なそれとはまるで異なる。


「なに、これ」

「マコト、時間がない」


 焦るキョウヤの声で我に返ったマコトは、そのまま見慣れない道案内を頼りに彼を先導した。


 サーチライトを物陰でやり過ごしながら、順々に道を進んでいく。何度か警告音を轟かせる陸上駆動ドローンと鉢合わせしそうになったが、寸でのところで気が付き事なきを得た。

 疲労も蓄積し、足が覚束なくなってきた頃に、雨が止んだ。髪の先から落ちる水滴だけが、マコトのゴーグルを濡らしている。


「もうすぐ着くぞ!」


 キョウヤが吠えた。道案内ナビゲーションを任せていたマップからも、目的地の座標が近いことが知らされる。マコトの前に飛び出したキョウヤが、行き止まりに見えた通路に入っていった。すぐさまマコトも後を追う。


「ここが、アジト?」

「アジトはこの先だ。ここはただの入り口で」

「不穏分子を発見しました。直ちに排除します」


 背後から音声が聞こえた。マコトが振り返れば、そこには陸上駆動ドローンが三体並んでいる。内蔵スピーカーから聞こえてくるのはプログラムの男声だけで、警告音は響いてこない。


「サーチライトは囮だったか……!」


 キョウヤが気付いたが後の祭りだ。サーチライトとドローンの警告音でマコトたちのルートを限定し、密かに後を追っていた別のドローン部隊が始末する。単純で効率的な作戦だ。


「不穏分子を発見しました。直ちに排除します」


 同じセリフを繰り返すだけの円柱型ドローンは、ボディに収納されていた銃口を二人に向ける。


 そう、二人。システムは、マコトも不要だと判断した。明確な死を前に、マコトはただ目を閉じるしかない。


「本当は使いたくなかったが……」


 キョウヤは、ずっと抱えていた荷物から、小さな装置を取り出す。大きさにして四方十センチ。その立方体の頂点に付いたスイッチを入れてドローンに放り投げた。


「不穏分子を発見しました。直ちに排」


 地面に落ちた立方体が展開して、中身が露出する。むき出しになったケーブルと小型モーターが作動し、ドローンの動きが止まった。音声も途中で途切れ、フラッシュサプレッサーのついていない銃口からマズルフラッシュが瞬くこともない。


「何をしたの」

簡易妨害電波発生装置ジャミングジェネレーターだ。効果は短いが、E-terが送信している電波はほとんど無効化することができる」

「だから指示が届かなくて動かなくなったのか……」


 沈黙を保つドローンを見ながら、マコトが呟く。キョウヤは、廃棄物で隠された操作盤に暗証番号を入力しながら言った。


「さっきも言ったが持続性はない……開いたぞ、早く入れ」


 ロックが解除され、袋小路の向こう側に小さな通路が現れた。小柄なマコトやキョウヤなら、這って進めば問題なく通れるサイズだ。


「ここがレジスタンス「フェンリル」のアジトだ」


 生暖かい風に乗って、汚泥の臭いが鼻を衝く。その中に躊躇いなく身を滑り込ませるキョウヤを見ながら、マコトは震えている自分の手を握りしめた。


 Eクラスだが、マコトに割り当てられた仕事はあくまで整備だ。一般有機資源の生活廃棄物を処理するEクラスも存在するとは聞いていたが、いざ不衛生な場所に自分から進んで入るのには抵抗がある。


 ……――迷ったらダメだ。


 マコトは自身を鼓舞し、レジスタンスのアジト最底辺のその下に足を踏み入れた。


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