Ⅰ 運命の輪 WHEEL OF FORTUNE 「彼女はふた股をかけられているのか?」4

 完全にやる気も自信もせてしまった。帰ろう。

 居酒屋の物置にテーブルと黒布、椅子とプレートを運び、店主のアキラさんに「帰ります」とあいさつすると、「これ、作り過ぎちゃったから持ってきな」と言って、お店ご自慢のモツ煮込みを持ち帰り用の容器に入れてくれた。

 ちょっとコワモテだけど面倒見のいいアキラさん。いつも気を使ってくれてありがたい。恩返ししたいんだけど、占いで返すのは無理そうだな……。

 フードマントとタロットカードを愛用の黒いリュックにしまい、モツ煮の入ったビニール袋を右手にぶらさげて、人通りの少ない路地に入った。

 しばらく歩いていたら、左手にあるコインパーキングの前に人影があることに気づいた。白黒のボーダーTシャツを着た女の子が、三人の男に囲まれている。

 ──さっきの少女だ。あっ、あの三人、彼女とぶつかったヤツらだ!

 急ぎ足で近寄る。金髪ピアスの耳障りな声が聞こえてきた。

「……どーせ暇だからウロウロしてたんじゃねーの? 俺の車でドライブしよっぜ。俺んち、すぐ近くだからさ」

「先輩、この子に友だちも呼ばせましょ。あと二人」

 隣の小汚い長髪男が提案する。

「バーカ、六人も乗れねーよ」

「一対三の方が、女も気持ち良かったりするんじゃないすか?」

 わいに笑ったのは、長髪の横にいるメガネ。最低のクズ野郎だ。

「よーく見っとカワイイな、お前」

 金髪ピアスの手が、硬直したまま動かない少女のサングラスに伸びる。

 触らせるもんか!

 私は彼女に向かって猛ダッシュした。

「もー、探しちゃったよ! お父さんたちも待ってるから、早く行こ!」

 腕をつかんで引っ張ると、少女も足を踏み出した。

「なんなんだよ!」

 すかさず金髪ピアスが立ちふさがる。り上がった一重の目がいかにも陰湿そうだ。

「邪魔すんじゃねーよ!」

 長髪が怒鳴り、メガネもこちらに一歩踏み出した。

「妹になんか用? すぐそこに両親もいるんだけど。あ、言っとくけど、うちの父親、警察官だから」

 いきがっていた三人が、明らかにたじろいだ。キーワードは「警察」。状況に合わせた作り話は、仕事柄得意なのだ。

 少女の腕を取って歩き出す。この路地を抜ければ大通りだ。あんたたち、頼むから付いてこないでよ!

「……思い出した! あの女、居酒屋にいた占い師だ! 妹も警察官も噓っすよ!」

 メガネがわめく。クズのくせに無駄に記憶力がいい。

「大噓こいてんじゃねーぞコラァ!」

 金髪ピアスの怒声と共に、ヤツらが追いかけてくる。

「走って!」

 少女に叫んで腕を放し、ビニール袋からモツ煮の容器を取り出す。ふたを開けながら「アキラさん、ごめん!」と謝って、振り向きざまに中身を三人の顔にぶちまけた。

「アッチィィィィィィ───────────」

 大げさなんだよ。火傷やけどするほどの熱さじゃないでしょ!

 そのまま前を向いて走り出し、少し先で立ち止まっていた少女の手を握り締める。

「行くよ!」

 手を握ったまま猛ダッシュする。

 体が弱そうな少女も、意外としっかり走っている。

 後ろから三人の支離滅裂な叫び声と足音が聞こえる。

 大通りに出ると、角に個人タクシーが停車していた。一目散に駆け寄るとドアが開いたので、後部座席の奥に少女を押し込んで自分も乗り込んだ。三人が鬼のような形相で迫ってくる。

「お客さん、事件ですね?」

 中年運転手の目が、ルームミラーの中でらんらんと輝いている。もしかしたら、刑事ドラマ好きなのかもしれない。

「悪い奴らに追われてるの! お願い、助けて!」

 私も状況に合わせて、おびえるヒロインキャラを作ってみた。

「了解!」

 運転手がドラマの一場面のようにカッコよく車を急発進させた。走らせる前に料金メーターのボタンはしっかり押していたけど。

「チッキショーッ、あのクソ女!」

 金髪ピアスが悔しそうに叫んだ。

 リアウインドウ越しに、モツ煮まみれの男たちが小さくなっていった。


 一息ついて少女の横顔を見ると、どこかで落としちゃったのか、サングラスが外れていた。ノーメイクなのにまつがすごく長い。呼吸は荒いけど発作じゃないみたいだ。

 よかった。まさかモツ煮が武器になるなんて、世の中何が起きるか分からないもんだな。でも、アキラさんには申し訳ないことをしてしまった。今度会ったら謝らなきゃ……。

「……お客さん、この事件、なんか臭いますね」

 あの、もう芝居はいいです! と思ったら、マキシワンピースの胸元にモツ煮の汁が飛び散って、臭いが漂っていた。

「ごめんなさい、すぐ降りますから」

「……えん」

 隣の少女が何か言った。

「ん? 何?」

 耳を寄せて聞き直し、運転手に伝える。

「やっぱり、きぬた公園まで行ってもらえますか?」

「了解!」

 運転手は相変わらず張り切っている。

「あんたの家、砧公園の近くなの?」

 少女がうなずく。なんだ、二子のすぐそばだったんだ。

「そういえば、名前訊いてなかったね。私、柏木美月。あんたは?」

 彼女は小さな声で、「えり……かしわ」と答えた。

「へー、同じみようなんだ。もしかしたら遠いしんせきかもよ、私たち」

「単なる偶然だと思う」

 ……バッサリか。ここは噓でもいいから話を合わせてほしいんですけど。まあいいや、この子を自宅まで送ってさっさと帰ろう。


 愛莉の住まいは、都内でも有数規模の敷地と緑の多さで知られる、砧公園のすぐそばにあった。

 まるで森のような砧公園にほど近い、閑静な住宅街。その中にある、重厚感たっぷりなレンガ造りの中層マンションだ。敷地内にいくつかの棟が立ち並んでいる。エントランス前に車寄せとミニガーデンがしつらえてあり、夜闇の中でライトに照らされた様子は、ちょっとした高級ホテルみたい。

 エントランスは壁一面がガラス張りで、正面の自動ドアの奥にあるガラス扉はオートロック。右横の管理人室にあかりがいていて、巡回中の札が置いてある。さっきの三人が後を付けてないか心配でここまで来たけど、これならとりあえず安心だ。

「あの……」

 何か言いたそうな愛莉と向かい合う。分かってるって、今さらお礼なんて言わなくていいから。

「いい気味だったね。ああゆうクズ野郎には気をつけてね!」

 じゃあ! と言って彼女に背を向けて立ち去ろうとして、駅の方向が分からないことに気づいた。この辺りなら、最寄り駅は二子の隣の「よう」か? まあ、なんとかなるだろうと右足を勢いよく前に出したら、後ろから引力を感じた。

 振り返ると、顔を横に向けた愛莉が、私のマキシワンピースの腰のあたりを引っ張っている。頰のあたりがほんのりと赤い。

「ふ、ふく……」

「え?」

「汚れた服、うちで着替えてって」

「いいの?」

 彼女はコクッと頷いてエントランスに入り、ポシェットからかぎを出してオートロックのガラス扉を開けた。もしかして、シミの責任を感じているのかな? そんなの気にしなくてもいいのに。でも、ありがたく付いていっちゃおう。

 エントランスホールに足を踏み入れた。左側に来客用の白いソファーセットが置いてあり、奥のガラスの壁越しにライトアップされたパティオが見える。マンションの各棟は、このパティオを取り囲むように設計されているようだ。

 ホールを横切ってエレベーターに乗り込み、六階で降りた。ホテルのようにじゆうたんが敷き詰められた内廊下を進んでいく。左に曲がった先の突き当たりにある六一五号室が、愛莉の家だった。

 玄関扉が開くと、自動センサーで灯りが点いた。靴ひとつ置かれていない大理石の床が、冷たく光っている。人の気配はしない。家族は留守のようだ。

 愛莉は左手のシューズボックスからゲスト用スリッパを取り出して上り口に置き、廊下の電気を点けて奥に行ってしまった。

「お邪魔します……」

 恐縮しながらサンダルを脱いでスリッパに履き替えていると、コンソールテーブルの上に郵便物が雑然と置かれているのが目に入った。エアメールが交ざっていて、なんだかカッコいい。

「こっち」

 愛莉の声がした。廊下の突き当たりの部屋から呼んでいる。

 フローリングの長い廊下を歩きながら左右の扉を数えてみた。一、二、三、四……トイレやお場もあるだろうから、三LDKくらいかな。

 突き当たりの入り口から中に入ると、そこは、軽く三十畳は超えていそうなリビングだった。高い天井に埋め込まれたいくつものダウンライトと、中央にある凝った作りのシャンデリアが、部屋全体をスタイリッシュに照らしている。

「わあ、すごい部屋だね……」

 部屋の中央あたりに黒革張りのコーナーソファーが置いてあり、右側がダイニング、左側がリビングスペースになっている。ダイニングの手前はカウンターキッチン。このキッチンも含めたら、四十畳くらいになりそうだ。ダークな色合いのフローリング床の上に、いかにも高そうなアンティーク風の家具がゆったりと配置されている。

 きっと、アンティーク風じゃなくて本物だろう。観葉植物や絵画も趣味良く飾られていて、まるでモデルルームのようだ。どうやら、かなりリッチな家の娘らしい。

 かわさきの古ぼけたコーポで暮らしている私は、悲しいほど狭くて安っぽい自分の部屋を脳裏に浮かべた。そこの六万円の家賃すら払えそうにない現実に胃が重くなってくる。

 無性にタバコが吸いたくなった。窓の外なら吸っても大丈夫かなと思い、リビング奥の壁一面を覆うベージュのドレープカーテンに歩み寄る。

「ここベランダだよね。タバコ吸ってもいい?」

 カーテンの端をめくると、窓が防犯用のシャッターでふさがれていた。

「触らないで!」

 予想外の大声に驚き、急いで窓際から離れた。

「そこは絶対開けないで。タバコならキッチンの換気扇の前で吸って」

「ああ、ごめん。やっぱりいいや」

 禁煙の家で一服するほどデリカシーは失っていない。それにしても、こんなに大きくて外が一望できそうな窓を開けちゃいけないなんて、ヘンな家だな。

「じゃあ、ここで待ってて」

 愛莉がリビングから出て、どこかの部屋から服を持ってきてくれた。そして、私が着替えやすいように気を利かせたのか、また廊下に出ていった。

 貸してくれたのは、有名ブランドのシックな紺のツーピース。シルク生地なので着心地がいい。デザインからして、愛莉のではなさそうだ。もしかして、お母さんのかな?


 なかなか愛莉が戻ってこないので、詰めれば十人は座れそうなコーナーソファーに腰を下ろした。スリッパを脱いで足元に敷かれたペルシャ絨毯に素足をのせ、滑らかな肌触りを楽しむ。

 向かい側に視線を向けると、中央のリビングボードにテレビやオーディオセットが置いてあり、左右のキャビネットには書籍がズラリと並んでいた。文庫小説、洋書、哲学書、写真集、百科事典……ジャンルレスなラインナップは、ご両親の趣味なのだろうか?

 目の前にあるガラス天板のテーブルには、ノートパソコンとリモコンが置いてある。その下は──うっ、一瞬ドキッとした。

 ガラス天板の下の棚一面に、いろんな種類の錠剤のシートが散らばっていた。

「薬だらけだ……」

 思わず声に出してしまった。

「抗不安薬と気分調整薬、あと睡眠薬」

 突然、近くで声がした。いつの間にか、キャップを脱いだ愛莉がコーラの缶を二つ手にして立っていた。

 明るい場所でまじまじと見ると、子猫のような愛らしい顔をしている。カラーコンタクトなのか、ひとみは茶に緑が混ざったヘーゼル色。すっと通った鼻筋に小さな唇。シルバーグレーにつやめくショートボブが、とがったアゴを強調している。種類でたとえるなら──ロシア貴族に愛された高貴で優美な猫、ロシアンブルーだ。

 昔、うちの実家にもロシアンブルーがいた。キィという名の女の子だった。今は亡きキィと目の前の愛莉が、なんとなく似ているような気がした。

「キィ……じゃなくて愛莉さ、今日、二子で会ったときも薬を飲んでたよね?」

「あれはベンゾジアゼピン系の抗不安薬で、パニクったときに飲むと落ち着く」

 ベンゾ? 絶対嚙みそうな薬の名前をさらっと言ってのける。やっぱり不思議な子だ。

 愛莉は片方の缶を私に手渡して、コーナーソファーの端っこに座った。

 のどがカラカラだったのでプルトップを開けてコーラを一気飲みし、ゲップをこらえながら「人ゴミが苦手なんだ?」と尋ねると、彼女もコーラを一口飲んで小さくうなずいた。

「いつから薬が必要になったの?」

「結構前から」

 ──それ以上は薬について話したくないオーラを感じた。話題を変えてみよう。

「この服、もしかしてお母さんの?」

「そう」

「勝手にお借りしちゃっていいのかな?」

「もういないから」

「いないって?」

「死んだ」

「いつ?」

「今年の一月」

「そっか……ご愁傷さまでした。ご病気で?」

「うん」

 視線をほとんど合わせない。きっと、誰とでもこんな感じなんだろうな。薬や母親の死を何でもないことのように語る様子が、なんだか痛々しい。余計なお世話だと知りながらも、質問を続けずにはいられなかった。

「お父さんは?」

「いない」

「……もしかして、お亡くなりに?」

「知らない」

 顔が明らかにこわった。母親のことは答えたのに、父親のことは知らないと言う。

 父はこの子を捨てて家を出ていったのか? もしくは、シングルマザーだった? もしくは……いや、想像していてもしょうがない。次の質問に移るか。

「じゃあ、兄弟や姉妹は?」

「いない」

「もしかして、ここにひとりで住んでるの?」

「そうだけど……もういいかな」

 ──気まずい沈黙が流れた。愛莉はじっと宙を見つめている。きっと、早く帰ってほしいのだろう。でも、まだ帰る気にはなれない。空気が読めないフリをしよう。

「愛莉はいくつ? 高校生?」

「今月一七になった。学校は行ってない」

「何かお仕事してるのかな?」

「金銭的対価を得るための労働はしてない」

 ……要するに、ニートってことか。母を亡くし、父とはおそらく断絶状態。こんな広いマンションにひとりで暮らして、向精神薬が手放せない一七歳の少女。だめだ、放っておけない。

「ねえ、誰か身の回りの世話をしてくれる人はいる? しんせきとかさ」

「親戚なんていない。ちょっと前まで家政婦が来てたけど、もう辞めた」

「なんで?」

だんの転勤」

「もう家政婦さんは雇わないの?」

「いらない」

 ぜんと言い切った。きっとこの暮らしぶりからして、お金には不自由していないのだろう。でも、もっと大切なことがこの子には足りていない。そうじゃなければ、こんな薬なんて必要ないはずだ。

「あのさ、今日会ったばかりでこんなことくのもどうかと思うけど……」

 自分でも何を言おうとしているのかまとまっていないけど、もう止められない。

「この先、何かやりたいことはあるの? 仕事でも、勉強でも」

「…………別に」

「ずっとひとりで何もしないでいたら、体にも心にも良くないよ」

「そーゆうの、お節介って言うんだよ、占い師さん」

 ヒヤッとするほどの冷たい声。

 確かにお節介だよね。でも、性分なんだから仕方ない。

「この近くにお友だちか知り合いはいる? 何かあったときにすぐ来てくれる人。遠くの親戚より近くの他人って言うし……」

 そう尋ねたら、ものすごく怖い顔でにらまれた。

「しつこい! お節介だって言ってるじゃんっ! さっきからなんなの? あたしにも説教するわけ? 占い師には関係ないでしょっ!」

 怒らせてしまった。愛莉の呼吸がどんどん荒くなっていく。

「ご、ごめん! もう何も訊かないから!」

 時すでに遅し。胸を押さえてうずくまってしまった愛莉を前に、オタオタするしかない私。バカバカ、何やってんだよー!

 ポシェットの中から錠剤を取り出そうとする愛莉を見て、キッチンへ走った。水をもうとしたのにコップが見当たらない。冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターのペットボトルが並んでいる。その中から一本だけ持ってリビングに駆け戻ったら、彼女は少しだけ残っていたコーラで薬を飲み終えていた。

 私はマヌケにミネラルウォーターを持ったままソファーに腰を下ろし、目を閉じて深呼吸をし始めた愛莉を見守った。

 ──さっき見たキッチンの様子が、脳裏によみがえる。

 ピカピカで調理をした跡がまったくないシンクとレンジ。床には大きなゴミ用のビニール袋が二つ転がっていて、一方の中身はコーラの空き缶だらけ。もう一方はカップめんの器らしきものと、固形タイプのバランス栄養食品の空箱がぎっしりと詰まっていた。

 冷蔵庫の中には大量のコーラ缶とミネラルウォーター、バランス栄養食品の箱。生鮮食品は見当たらなかった。もしかしたら、シンクの上下にある貯蔵スペースは、インスタント食品だらけなのかもしれない。こんな食生活が、身体にいいわけないよ。

 私が一八歳で秋田を出るまでは、三度の食事を母親がきっちり作ってくれた。炊き立ての白米、汁、漬物につくだに野菜の煮物、焼き魚。春は山菜、秋はキノコ、季節の食材で作った素朴な料理が、いつも食卓に並んでいた。

「こんな田舎くさいゴハンやだ、早く都会でパンとかパスタが食べたい」

 ずっとそう思っていたし、実際に口に出してしまったこともあった。

 あのとき、母は黙ったまま悲しい顔をしていた。今となっては、母の手料理が無性に懐かしい。でもこの少女には、健康に気を配った温かい食事を作ってくれる家族はいないんだ。

 このままずっと、この広い部屋で、たったひとりで過ごしていくのかな。

 ──再び、実家にいたロシアンブルーのキィが思い浮かんだ。

 気位が高そうに見えて、実はツンデレの甘えん坊だったキィ。彼女のミルクやゴハンの世話をするのは、私の一番の楽しみだった。柔らかい身体をそっと抱き上げると、小さな愛らしい顔を、私の胸にスリスリと押し付けてきて……。

 ソファーでうずくまる愛莉に思わず腕を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。この子はキィではないのだと、自分に言い聞かせる。

 呼吸が落ち着いてきた愛莉がふと目を開き、驚いたように私を見た。

「なんで泣いてんの?」

 彼女に言われて、頰がぐっしょりれていることに気がついた。自分でもなんでなのかよく分からない。鼻水が出てきたので、思わずそでいてしまった。借りた服なのに。

 愛莉がほんの少しだけ口元を緩ませた。ちゃんと笑ったらエクボができそう。なんだかホッとした。

「愛莉……ごめん」

「気にしないで。もう治まったし」

 また無表情に戻って目をそらしてしまった。

 突然、この子の笑顔が見たいという衝動に駆られた。そばにいてあげたい──。

「あのね、お願いがあるんだ」

「説教なら聞きたくない」

「説教なんてしないし、余計な質問もしない。だから……私を家政婦として雇ってもらえないかな?」

 無茶は承知で言うだけ言ってみた。

「……なにそれ。占い師なのに家政婦もやんの?」

 あきれたような愛莉。そりゃそうだ。ちゃんと説明をしないと。

「実はね、占い師は引退しようと思ってたんだ。かといって、何もしないと今月の家賃払えないし……。こう見えても家事は得意だから、結構役に立つと思うんだよね」

 愛莉の笑顔も見たいしさ、なんてことはもちろん口に出さなかったけど、家政婦でもなんでもいいから、キィの面影を感じるこの少女とつながりを作りたかった。

「なんで引退するの? ちゃんと理由が訊きたい」

 その話は長くなるよと愛莉に言ったら、それでもいいと言うので、これまでのことを正直に打ち明けることにした。

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