Ⅰ 運命の輪 WHEEL OF FORTUNE 「彼女はふた股をかけられているのか?」2

 夕焼けの名残で空がぼんやりと赤い。

 自動車の騒音に蟬の鳴き声が混じった、都会特有の夏の音がする。

 オシャレなベビーカーに赤ん坊を乗せた夫婦らしき男女が、何やら夢中でしゃべりながら通り過ぎていく。それぞれが髙島屋の紙袋を手にしていて、着ている服もかなり仕立てがよさそうだ。

 居酒屋の店内から焼き物の煙が漂ってきた。なぜかやけに煙が目に染みる。

 今日は夕立が降ったので比較的涼しいけど、この先は暑さで占いどころではなくなるだろう。路上で仕事をする者にとって、夏と冬は大敵なのだ。

 ──今月の家賃、払えるのかな……。

 占い師なんてキッパリ辞めて、田舎に帰ったほうがいいのかもしれない。


 そのとき、目の前を通りかかった少女が、急に足をよろめかせた。そのまま反対方向から歩いてきた三人の青年とぶつかり、その場にうずくまってしまった。少女の落とした水のペットボトルが、こちらに転がってくる。

「いってぇーな。ったく、どこ見て歩いてんだよっ!」

 リーダーらしき金髪にピアスの青年が耳障りな大声を上げ、「先輩、大丈夫すか」とびる仲間二人を引き連れて去っていった。近くにクラブ風のバーがあるせいか、ハイソな街らしからぬB系ファッションの男女を、この辺りではちょくちょく見かける。

 少女はうずくまったまま動かない。

 私はペットボトルを拾って彼女の元に歩み寄った。

「大丈夫? ケガしちゃった?」

 無言でうなずく少女の肩が小刻みに震えている。なんだか息苦しそうだ。

「あっちで休んでく?」

 再び声をかけると、彼女はゆっくりと立ち上がり、足をふらつかせながら後ろを付いてきた。

 パッと見は十代半ばくらいだろうか。背丈はちっちゃくて、黒いキャップからシルバーグレーの髪がのぞいている。ハリウッド女優風の薄色サングラスから透けて見える瞳が、びっくりするほど大きい。小さな顔ととがったアゴが、猫科の動物をほう彿ふつとさせる。

 もしかして、芸能人? 新人アイドルだったりして。

 私は地面にひざ掛けを敷き、まだ苦しそうな少女を座らせながら様子をうかがった。化粧っ気のない青白い肌。白黒ボーダーのロングTシャツと七分丈のスキニーデニムから伸びる細い手足。お世辞にも健康的とは言えない身体つきだ。心を落ち着かせようとしているのか、深呼吸を繰り返している。

「病院に行ったほうがいいんじゃない?」

 余計なお世話かも、と思いつつたずねたら、彼女は首を横に振り、肩にかけていたポシェットから白い錠剤を一錠取り出した。私がペットボトルのふたを開けて差し出すと、震える手で受け取って錠剤を飲み込んだ。

 開いたポシェットの中から、この近くにある心療内科の診察券が見えたので、病院帰りなのかもしれない。落ち着くまでそっとしておいたほうがいいだろう。

 少女の吐息を背中に感じながら、フードをかぶり直して自分の席に戻る。

 数分後、空色のブラウスにさらさらのロングヘアをなびかせた女の子が、目の前で立ち止まった。興味ありげにタロットカード見つめている。

 ──来た。この子が最後のお客さんになるかもしれない。

 私はいつもの口上を述べる。

「よろしければ、神秘のタロットカードで運命を占ってみませんか?」

 女の子が対面する椅子に腰かけた。まゆじりがタレていて、いかにも悩み事を抱えてそうな顔をしている。彼女はつぶらな瞳をしばたたかせながら、切羽詰まった様子で話を切り出した。

「好きな人がいるんですけど、彼にふたまたをかけられてる気がするんです……」

「恋愛占いは得意分野なんです。まずは、あなたと彼のお名前と年齢、彼と何があったのか教えてください」

 すると女の子は、恋の悩みを切々と語り始めた。


かわぐちむつ、二三歳の看護師です。彼の名前は……わたしはコウさんって呼んでます。歳は二六。半年前に近所のドッグランで知り合った人です。わたしも彼もプードルを飼っていて、先に犬同士が仲良くなったことがキッカケで、話をするようになりました。見た目は……すごく細くて小柄でかわいい感じの人。笑うと目がクシャッてなるとことか、落ち着いてるところがいいなって、ずっと思ってたんです」

 ふむふむ、彼は犬好きなのか。悪い男ではなさそうだ。根拠はないけど。

「最初の頃は犬の話しかしなかったんだけど、コウさんもわたしもB'zのファンで、彼がCDを全部持ってることが分かってから盛り上がっちゃって。で、三カ月くらい前に、初めて一緒に犬連れで食事に行ったんです。ふかさわにあるコンクリート造りのオシャレなドッグカフェ。隣の席にテレビでよく見る女優さんがすわってて、妙に緊張しちゃいました」

 その女優って誰? 実物もキレイだった? と訊きたいのは山々なんだけど、占いには関係ないのでミーハー心を抑え込む。

「二人でビールを頼んで、パスタとかサラダを一緒に食べて。コウさんはすごく小食で、ビールを飲むペースがすごく速いんです。『実家に居るんだけど、家でも夕飯はビールだけで済ますことがあるくらい好き』なんだそうです。わたしもついハイペースで飲んじゃって、酔った勢いで『付き合ってる人はいないんですか?』って訊いてみたら、『女性とは縁がなかった。あったら睦実ちゃんとここに来てないよ』なーんて言われちゃって。フフフ」

 髪の毛先を両手でいじりながら、思い出し笑いをする。

 いやいや、本当に女と縁のない男は、そんな口説き文句みたいなセリフ言わないんじゃないの? と口走ってしまいそうになったけど、黙って話を聞こう。

「わたしコウさんに、自分のことをたくさん話しました。休みが不規則な看護師だから、遊べる友人が少ないこと。住まいは深沢の実家。父は外科医で母は専業主婦。少し前に、薬剤師の兄が両親に勘当されて家を出てったこと。その原因が、兄のギャンブル癖だったこと。……お恥ずかしい話なんですけど、兄にはけ事の借金があったんです。わたし、それがすごくショックで、話しているうちに涙が出てきちゃったんです。彼は親身になって慰めてくれて、うれしかったな」

 なるほど。きっと睦実は、誰かに兄の話を聞いてほしくてたまらなかったのだろう。何かの問題にとらわれている時は、言葉にすることで頭の中が整理されていくものだから。

「それで、ふと気づいたんです。わたしばっかりしゃべってて、コウさんにはあまり質問してなかったなって。その時点では、彼がなんのお仕事をしているのかも知らなかったんですよ。改めて訊ねてみたら、『イベント会社のスタッフ。出張が多くて、この夏も大きなイベントの仕事で、ずっと北海道にいなきゃいけないんだ』って言うんです」

 残念そうに話す睦実。当然だ。遠距離恋愛を喜ぶ女なんて、いるわけがない。

「そのあとも何度かデートしたんだけど、七月に入ってからは一度も会えてないんです。九月の頭まで北海道から帰れないんですって。今は電話やメールアプリで連絡を取り合ってるんですけど、だんだん彼がそっけなくなってきたような感じがして、悲しくて……」

 睦実のひとみがどんどん潤んでいく。見なかったことにして、話をうながそう。

「コウさんとは、何回くらいデートしたんですか?」

「えっと……七回くらいはしたかな。いつも月曜日か火曜日の夜に、犬を連れてドッグカフェで会ってました。彼、ほかの曜日は都合が合わないみたいなんです。それでも、『出張から帰ったら長めの休暇を取って、二人きりで旅行でも行こうよ』って言ってくれて、温泉とかいいね、なんて話してたんですよ。だけど……」

 目を真っ赤にした睦実が、バッグからティッシュを取り出して目元をぬぐった。

「コウさん、なんか怪しいんです。土曜日と日曜日は連絡が一切取れないんですよ。何度電話しても出ないし、メールアプリは返信どころか既読にもならない。月曜日になると連絡が来るんだけど、いつも『仕事で忙しかった、遅くなってゴメン』って謝るんです。でも、いくら忙しくたって、スマホをチェックすることくらい、できると思うんですよね」

 相手のレスが遅いだけで心がざわついてしまう女心。分かる。痛いくらい分かる!

 私は肯定感を込めてほほ笑み、うんうんと頷いてみせた。

「一度だけいてみたんです。スマホのチェックもできないのかって。そしたら、『外部との通信が出来なくなるところにいた』って言うんです。なんか、噓っぽくないですか?」

 通信が出来なくなる場所? まあ、通信障害が発生する地域も、まだあるだろうけど……。

「わたし、コウさんには土日が休みの本命がいて、週末は彼女と会っているような気がしてきちゃったんです。隣に恋人がいるから、メールアプリも未読のままなのかな? わたしとデートしたのは彼の単なる気まぐれで、出張とか言ってるけどそれは噓で、本当は避けられてるんじゃないかな? とか、いろいろと考えちゃうんですよね。ちゃんと付き合おうって言われたわけじゃないし、考えても仕方がないのに」

「ごめんなさい、一応確認しておきたいんですけど、彼は独身ですよね?」

 もしかしたら既婚者で、土日は家族サービスをしているかもしれない。その可能性も確かめておこうと訊ねると、睦実が「もちろん独身ですよ!」と強く否定した。

「だって、彼のお友だち夫婦とドッグランで会ったことがあったんだけど、だんさんに『お前も早く結婚しろ』って、からかわれてたんですよ。独身なのは間違いないです。……彼ね、すごくシャイで優しい人なんです。優しいから、わたしを傷つけたくないから、『もう会いたくない』ってはっきり言えないのかもしれないんです」

 友人夫婦の証言があるなら、既婚の疑いはないと考えてもいいだろう。では、彼が土日だけ連絡が取れない理由とは? 北海道出張は本当なのか?

 もっと情報を引きだそうかと思ったら、睦実が暗い声で「だから……」と続けた。

「コウさんを信じたい気持ちはあるんですけど、もうひと月くらい会ってないからすごく不安で、ふた股をかけられてるとしか思えなくなっちゃって……。先生、わたし、どうしたらいいんでしょう? 彼の本当の気持ちが知りたいんです」

 話し終えた相談者が、すがるような視線を向けてくる。彼の行動の真意は分かりかねるけど、睦実が必死なのはよーく分かった。それに、ふた股だって決めつけなくてもいいような気がする。彼女がネガティブにとらえているだけかもしれないし。

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