第一章 座敷童誘拐事件 ──憧れの作家は人間じゃありませんでした──5

 その日、あさひがなかにある自分のマンションに帰り着いたのは、夜も更けた十一時過ぎだった。

「ただいま、二号……」

 箱の上に置いてある猫のぬいぐるみに向かって、そう呼びかける。二号の正式名はにゃーた二号で、にゃーたというのは実家で飼っているキジネコの名前である。上京して一人暮らしすることになった際、寂しくて、よく似たぬいぐるみを見つけてにゃーた二号と名付けたのだ。以来、二号はあさひのいい同居相手であり、出かける際には見送ってくれ、帰ってくると出迎えてくれる。もちろんあさひが出かける際に下駄箱の上に移動させるからなのだが。

 二号を抱いてソファに座り込み、あさひは今日という日を振り返って、深いため息を吐いた。

 なんだかふわふわした気分だった。頭が現実に追いついていない感じだ。無理もない、自分はついさっきまでひどく現実離れした状況にいたのだから。

 ──まさか、御崎禅の正体が吸血鬼だなんて。

 七パーセントくらいの部分で、やっぱりあれは御崎禅と大橋の冗談だったのではないかと疑っている部分がある。けれども、残り九十三パーセントは、今日見聞きした全てをすんなり信じようとしていた。別に目の前で血を吸う様を見せられたわけではないが、御崎禅の目が赤く光った瞬間に感じたあの感覚は忘れがたい。この現代日本で普通に生きていて、本能に訴えかけられることなどそうそうない。

 吸血鬼なんて物語の中にだけ存在するものだと思っていたのに。

 二号のふかふかした頭にあごうずめ、あさひは目を閉じた。

 思えば確かに、まるで物語のようなひとだった。

 とてつもない美形で、口調は丁寧だが毒舌で。映画が好きで。人間じゃなくて。あれがこんな平々凡々とした自分と同じ世界に存在している生き物だなんて、とても信じられない。

 そして、そんな相手に向かって──自分は、一体何を言い放ったのか。

「……うわああああ二号どうしよう! 何だこの偉そうな小娘って思われたかも!」

 己の所業を思い出し、思わず二号を抱きしめてソファにひっくり返ってじたばたする。御崎禅のマンションを出た後、大橋には「よくやった!」と褒められたが、御崎禅にはどんな風に思われたのだろう。しばらく長編は書いていないので、とりあえず短編を一本ということで無事に依頼を承諾してもらえたけれど。

「で、でも、御崎先生、別に怒ってはなさそうだったし、大丈夫だよね……あ、あああっ!?」

 あさひが己の失態に気づいたのは、このときだった。

 がくぜんとして起き上がる。

「わたし……御崎先生に、ファンですって伝えるの忘れた……」

 なんてことだろう。せっかく御崎禅に会えたというのに。

 今夜の記憶のどこを掘り返しても、御崎禅の作品について会話した覚えがない。それどころではなかったと言えば確かにそうだが、それにしたってこれはどうだ。いつか御崎禅に会えたら『あなたのファンです、あなたの作品が大好きです』と伝えようと、ずっと思っていたのに。いや、作家との顔合わせでいきなりファン宣言はないにしても、せめて『御崎先生の御著作は全て読ませていただいています』くらいは言うべきだった。

「ど、どうしよう! あれじゃ絶対、御崎先生に『こいつ映画観るだけで本読まないのか』って思われたあ……!」

 とうのように押し寄せる後悔に、あさひは再び二号を抱きしめてソファに倒れ込んだ。しばらくそのまま二号の体に顔を押しつけ、酸欠になる直前でまた起き上がる。

 二号をソファに残し、よろよろとあさひが歩み寄ったのは、本棚だ。

 御崎禅の著作は全て初版で持っているし、実家を出るときに全て持ってきた。

 あさひはその中から、処女作の『輪舞曲』を取り出した。

 もう何度読み返したかわからない本で、だいぶ擦り切れている。就職試験のときにも、お守り代わりにかばんに入れて行った。表紙の端が少し破れているのは、ばきばきに緊張したまま面接会場を出た直後に転んで鞄の中身をぶちまけたときにやってしまったものだ。あのときは己の運の悪さに『試験落ちた絶対!』と思って、それはもう落ち込んだ。なんとか受かって希央社に入社できたときには、誰より自分が驚いたのをよく覚えている。

 あさひはぱらぱらとページをめくった。ちょっと読み返すだけで、初めて読んだときの胸の高鳴りが今でもよみがえってくる。

 当時のあさひは夢ですら思わなかっただろう。自分が御崎禅の担当になるなんて。

 自分なんかで大丈夫なんだろうかという思いは、今もある。

 震えそうになる息をゆっくりと吐き出し、あさひは御崎禅の本を抱きしめた。

 自分はこれから、担当編集として、全力で御崎禅のために仕事をする。

 だから──だから、どうか。

「……書いてください。御崎先生」

 祈るような気持ちでそうつぶやいたあさひの背中を、二号はソファの上から優しく見守ってくれた。


 前担当である大橋が言うには、御崎禅という作家は、書き始めれば早いのだという。ただ、コンスタントに「一日○枚」と書くタイプではないらしく、本人の気が乗らなければ取り掛かりは遅くなるし、その他諸もろもろの事情で遅れることもあるのだという。

「その他諸々の事情って何ですか?」

 あさひが尋ねると、「いずれわかるよ」と大橋はしかめっ面で答えた。……いつものチェシャ猫笑いじゃなかったのが、少し気になった。

「短編といえど、まめにしんちよく確認はすべし」と大橋からお達しを受け、顔合わせから二週間ほど過ぎた頃、あさひは御崎禅に電話をかけることにした。しめきりはまだ先だが、そろそろ書くネタくらいは決まっているだろう。まだ決まっていないなら、それはそれで相談に乗ることもできる。

 大橋情報で、御崎禅が『起きる』のは大体午後六時半から七時くらいとのことだったので、電話の時間は八時にしてみた。一度深呼吸して緊張を散らし、

「お世話になっております。希央社の瀬名です」

『──ああ、瀬名さん。こんばんは』

 御崎禅はあっさり電話に出てくれた。よし、次回もこの時間帯にしよう、とあさひは心に決める。作家に電話する際、何時に電話するのかは意外に悩みどころなのだ。

「今、お時間よろしいでしょうか? 先日依頼させていただきました短編の件なのですが」

『すみません、瀬名さん。今ちょっと面倒な刑事に捕まってしまいまして、後にしてもらえると助かるんですが』

「え?」

 予想外な返事に、あさひは一瞬凍りついた。

 ──刑事に捕まってしまいまして、とはどういうことか。

 まさか逮捕か。吸血欲求を抑えきれずに誰かを襲ってしまったのだろうか。

「……先生。今、どちらにいらっしゃいますか?」

『まだ自宅ですが』

 とりあえず、まだ警察署に連行はされていないらしい。が、「まだ自宅」ということは、これから移動するのかもしれない。

「今すぐ伺います! わたしが行くまで、そこにいてください!」

 それだけ言って電話を切り、あさひは勢いよく立ち上がった。

 隣の席の高山が、ぎょっとした顔であさひを見る。

「な、何っ!? あさひちゃん、どうかした?」

「み、御崎先生がっ……!」

 言いかけて、あさひは言葉をみ込んだ。駄目だ言えない、御崎禅に関する一切は編集部内でも極秘だ。まして、誰か襲っちゃって逮捕されたかもなんて絶対言えない。

「え、何? 御崎先生がどうしたの?」

「とにかくわたし、これから御崎先生のところに行ってきますっ!」

 慌ただしく編集部を出ていくあさひを、高山はあつにとられた顔で見送った。

 地下鉄に飛び乗ったあさひは、いらいらと次の停車駅を示す電光掲示板を見上げた。早く早くと気ばかり焦って、とても落ち着いていられない。

 自分が行ってどうにかなるものでもないのかもしれないと思いつつ、なんとかして御崎禅を守らなければと考える。大体、そんなに血が欲しかったなら、自分の血をあげたのに。一回につき四百ミリまでなら献血と同じだ。喜んで提供する覚悟がある。何なら一リットルくらいあげてもいい。御崎禅のためなら惜しくはない。

 そうしてたどり着いた御崎禅のマンションで、扉を開いたのは今回もルーナだった。

 ろんな目つきであさひを見上げるルーナに、あさひは尋ねた。

「御崎先生はっ!?」

 ルーナは無言でリビングを指し示した。玄関のたたきには、前回はなかった男物の大きな革靴が一足。──これが刑事のものか。

 あさひは放り出すように靴を脱いで中に上がり込み、リビングの扉を押し開いた。

「先生!」

 はたしてそこには、御崎禅とあともう一人、スーツ姿の若い男がいた。

 が──どうにも、雰囲気が予想と違う。

 御崎禅は前回同様、優雅に脚を組んでソファに座り、紅茶のカップを手にしていた。その向かいの席に座っている男が手に持っているのは、かじりかけのクッキーだ。どう見ても、仲良くお茶しているようにしか見えない。

「もう着いたんですか。随分早かったですね」

 カップをソーサーに戻し、御崎禅は驚いたような顔であさひを見た。

「でも瀬名さん、一体どうしたんです? 原稿のことなら、後でまたあらためて電話してもらえればよかったのに」

「あ、あのっ、さっき電話で、逮捕されたとかおつしやってませんでしたっ!?」

 ぜーはーしながらあさひが尋ねると、御崎禅は首をかしげ、

「──ああ。先程言った『刑事に捕まった』を勘違いしたんですね」

「か、勘違いっ? それじゃ逮捕は、罪状は」

「この場合の『捕まった』は、『いやー道を歩いてたら近所の世話焼きおばちゃんに捕まっちゃって小一時間立ち話を』というときの捕まったと同じです。逮捕ではありません」

 淡々と言われて、あさひは思わずへなへなとその場にへたり込んだ。ここまで、電車の中以外は全て走ってきたというのに。

「でも、噓は言ってませんよ? なつは本当に刑事です。そして僕は、単なる相談役です」

「刑事さん……相談役……?」

 あさひはへたり込んだまま、夏樹と呼ばれた男を見た。

 男も男で、興味津々な顔であさひを見ていた。

「へーえ、新しい担当って女の子だったんだ。いいなー、女の子。うち女の子いないもん。係長と二人っきりで、悲しいほど殺風景でさー」

 言いながら男が立ち上がり、あさひの前までやってくる。目鼻立ちのはっきりした、でもかっこいいというよりはどこかあいきようがあるという感じの顔だ。背が高く、体もよく鍛えているようだが、妙に人好きする雰囲気のせいか、威圧感はない。たぶんあさひとそう変わらない年齢だろう。

 実に気安い感じでほいと手を差し出され、反射的にあさひがつかまると、そのままぐいと引っ張り上げられた。立ち上がったあさひに向かって、男はにっこり笑う。

「大丈夫? 大体、御崎の言い方が悪いんだよな。普通に『客が来てる』って言えばいいのにさ」

「いえ、わたしが早とちりしたのがいけないんですけど……あの、刑事さんって」

「あ、これは失礼。警視庁捜査一課のはやしばら夏樹です。よろしく」

 男が懐から警察手帳を取り出してみせる。あまり刑事らしさは感じられないが、どうやら本物らしい。あさひも慌てて名刺を取り出し、

「希央社の瀬名と申します。先程はお騒がせして申し訳ありませんでした。──でもあの、刑事さんが、御崎先生に何の相談をされるんですか?」

「そりゃもちろん、事件の相談を」

「事件って」

 そこで御崎禅が口を挟んだ。

「大橋さんから聞いていませんか? 僕は時々、警察の捜査に協力させられることがあるんです」

「あ、そういえば」

 御崎禅に関する注意事項その三を思い出す。『警察には気をつけろ』。あれはつまり、このことを指していたらしい。

「でも、御崎先生は犯罪小説とか推理小説を書いてるわけじゃないのに、どうして?」

「それは勿論、僕が人間ではないからです」

 御崎禅が言う。

「夏樹は捜査一課の中でも少々特殊な係にいましてね。その名も『異質事件捜査係』というんです」

「よく『遺失物捜査係』って聞き間違えられて、落とし物の捜査してるみたいに思われるんだけど、違うからね? ちなみに略すと『異捜』。あ、でもこれ、内緒の話ね、一般には知られてないから」

 軽い口調で夏樹が言うが、もしやそれは警察内の極秘情報なのではないだろうか。

 とはいえ、あさひがこの話を外部に漏らすことはないと二人とも踏んでいるらしい。つまり、これも御崎禅の個人情報に関わる話ということだ。

「異捜は、『人ならざる存在が関与する事件、及びその関与が疑われる事件』が起きた際、秘密裏にそれを処理することを第一の目的としています。つまり化け物がらみですね。警視庁以外にも、神奈川県警や大阪府警、北海道警などにも設置されているはずですよ」

「そんなに起こるんですか、そういう事件って」

「まあ、それなりに。この国に住んでいる人外の存在については、明治中頃にはもうその存在が政府によって認知されていたそうです。一般人には知らせないままね」

 御崎禅の説明によると、こうだった。

 時代くらいまでは、この国の人間とそれ以外は、それなりにいこと共存できていたらしい。が、明治になってやってきた近代化の波は、人ならざる者達にとってはなかなかめぬものだった。彼らの正体を隠してくれる暗闇は駆逐され、文明開化がもたらした西洋文化は彼らの暮らしを一変させた。結果、それまで人間達の中にひそかに交ざって生きてきた彼らが犯罪に走ったり、正体が露見してしまうケースが増えたのだという。

 しかし、つい先日まで隣近所に住んでいた者が人間ではありませんでしたなんてことがあっちでもこっちでも起こった日には、無用な混乱を招きかねない。苦慮した結果、政府は彼らの存在を隠したまま、彼らの『管理』を行うことにした。

 現在、この国に住む人ならざる者達は、政府にその存在を申告して登録を行っているものがほとんどだという。

「まあ、中にはそうした登録制度に反発する無頼派もいますけどね。しかし、生きていく以上、彼らにだって生活というものがある。下手なごとは避けたいのが道理というものです。だから、そうそう困った行動に出る者もいないはずなんですが」

「それでもたまーにいるわけよ、犯罪に走っちゃう奴らが。スリが自分のアイデンティティだって人の財布掏りまくっちゃうとか、人をおぼれさせちゃう河童かつぱとか。で、そっちがらみの事件専門に作られたのが、異捜なわけ。異捜ができたのは最近だけど、前身としての部署はかなり昔からあったらしいよ? 俺が配属されたのは去年だけど」

 ようかい事典の中にしか存在しないと思っていたような妖怪の名前を、夏樹は平気な顔で口にした。本当にいるのか百々目鬼。確か腕にたくさん目がある妖怪だった気がする。

「で、御崎は前から異捜に協力してくれてんだって。俺らよりずっと長く日本で暮らしてるから、そっち系の奴らに顔が利くし、色々詳しいし。ていっても実際は、事件が起きても単なるいたずらだったり、普通に人間の犯人が出てくるケースの方が多いんだけど」

「いい迷惑ですよ。まあ、もらうものはもらってますが」

「もらうもの? お給料出るんですか」

 あさひが尋ねると、御崎禅はさらりとした口調で、

「現金ではありませんが。──血液パックを支給してもらっています」

「あ……」

 確かにあんなもの、それなりのルートからでなければそうそう手に入れられないだろう。一応はギブアンドテイクということらしい。

「ええと、それじゃ、林原さんが今日ここに来てるのも、先生に相談しなくちゃいけない事件があったからですか」

「そういうこと。だからさあ、そろそろ御崎のこと借りてってもいい? ちょっとこれから行かなきゃならないところがあるんだけど、さっき瀬名さんが電話で御崎に『そこを動くな』って言ったとかで、一応動かず待ってたんだよね」

「あああっ、すみませんでした! わたしのせいで!」

「いや、いいんだけど。どうせこいつ、紅茶飲み終わってからじゃないと動かないし」

 悠然と紅茶を飲む御崎禅を見やり、夏樹が肩をすくめた。

 警察への捜査協力ということならば、あさひがでしゃばるべきではないだろう。これから二人で捜査のために出かけるようだし、もう帰った方がいいのかもしれない。

 それにしても夏樹はすごいなとあさひは思う。さっきからずっと、御崎禅に対して呼び捨てな上にタメ口だ。──もしかして夏樹も、御崎禅のようなものなのだろうか。

 と、御崎禅が、あさひが今思ったことをあっさり否定した。

「いいえ、夏樹は人間です。単に馬鹿なだけですよ」

「馬鹿って言うな馬鹿って。何だよ急に人をおとしめるなよ」

「いえ、瀬名さんが、夏樹が僕を呼び捨てにするのを奇妙に思っていたようなので」

「だって御崎、見た目は俺と同じくらいの年だろ。さん付けするの面倒だし、それに」

「それに?」

「ナツキとミサキで、なんか響きがいい」

「ほらね、馬鹿でしょう」

「馬鹿って言うな! しみじみため息吐くな! いいからさっさとそれ飲んじまえ、いつまで優雅にティータイム気取ってやがんだお前は!」

 要するに、夏樹はものすごく気さくな人柄だということらしい。いいなあ仲良しで、とあさひは少しうらやましく思った。

 ──いや、そんなことより。

「あの……御崎先生?」

「はい、何でしょう」

「もしかして先生、わたしの考えていること、読めたりします?」

 あさひの先程の疑問は、口に出して言ったものではない。にもかかわらず、御崎禅は、その疑問にそのまま答えを出してみせたのだ。

 御崎禅は紅茶のカップをソーサーに戻し、真顔でうなずいた。

「まあ、ある程度は」

「そ、それもやっぱり吸血鬼の特殊能力的なものですか!?」

「別に吸血鬼に限った能力ではありませんけどね。我々人外の存在は、人間よりもずっと勘が鋭いんです」

「……ある程度というのは、一体どの程度のものなんでしょうか?」

「──瀬名さんは、考えていることが顔に出やすい人のようですからね」

 はぐらかされた。それはつまり、丸わかりということなのだろうか。ということは、あさひが御崎禅の大ファンだということもすでに伝わってしまっているのかもしれない。どうしよう、なんだかすごく恥ずかしい。これからは、御崎禅の前では常に、穏やかな海の風景とか月夜の砂漠とかを思い浮かべておけばいいのだろうか。

 そのとき、バイブにしてあったあさひのスマホが震えた。取り出して表示を見てみると、大橋からの着信だった。あさひはすみませんと断って、廊下に出た。

「はい、瀬名です」

『──瀬名、今どこにいる? 御崎先生の家か? さっきものすごい勢いで出て行ったらしいけど、何があった?』

「あ、すみません、わたしの勘違いでした」

 あさひはそう言って、夏樹が来ていることを大橋に伝えた。

『ああ、いつものか。……ったく、困るんだよなあ、あれ。あの先生、前にそれで大怪我したことあるし』

「怪我っ!? 待ってください、そんな危険なことさせられてるんですか!?」

『ほら、半年前に都内で連続猟奇殺人事件があっただろ。若い女が三人、腹裂かれて死んだやつ。あれ、犯人捕まったって報道はされてないけど、実はもう解決済なんだよ。人狼の仕業で、先生が捕まえた』

「それもう相談役じゃなくて実動部隊じゃないですか!」

『まったくだよ。で、そのとき、さすがに大変だったらしくて、まれちゃって』

「……どこを?」

『確か左腕』

 あさひの頭の中で、御崎禅がティーカップを持ち上げるときの映像が再生される。優雅にカップのつまみを持つ手は、左。ということは、おそらく御崎禅は左利き。

 そして、御崎禅の原稿は手書きである。

 つまり──左腕を怪我すると、原稿が書けない。

「そっ、そんなの駄目ですよ!!」

 あさひは大橋との通話を打ち切り、リビングに駆け戻った。

 どうやら御崎禅は紅茶を飲み終えたらしい。そろそろ出かけようかと、立ち上がったところのようだった。

 あさひはがばっと御崎禅の左腕にしがみついた。

「困ります! 先生を捜査に連れていくのはやめてください!」

「何事ですか、瀬名さん」

「うわ何どうしたの急に」

 ぎょっとする二人にかまわず、あさひは御崎禅の左腕を確保し続ける。この腕だけは死守せねばならない。会社のために、何より御崎禅の新作を待ち望む読者のために。

「先生はわたしがお守りします! どこかに連れてくならわたしも行きます!」

「えええー……そんな涙目でにらまれてもさあ……」

 夏樹が困った顔で頭をく。あさひは頑として譲らぬという目で夏樹を睨み上げる。

 夏樹はしばらく考え、腕時計で時刻を確認して顔をしかめた。

「……仕方ないなあ、それじゃ瀬名さんも一緒に来ればいいよ」

「いいんですか? 夏樹」

 あさひを左腕にぶら下げたまま、御崎禅が尋ねる。

「別に本庁に行くわけじゃないから、一人くらいオマケ付きでも大丈夫だろ。それより、そろそろ出ないと、いい加減時間やばいんだよ。先方からは何時でもいいから来いって言われてるけど、さすがにあんまり遅くなると、係長に叱られる。……まあ、ばれたらやっぱり係長には叱られそうだけど」

「わたしにできるお手伝いなら、喜んでさせていただきます!」

 あさひは御崎禅の腕にしがみついたまま、そう宣言する。

「一緒に来るのはいいけど、瀬名さん、これから行く先で見たり聞いたりしたことは、で絶対話したりしないでよ。守秘義務あるから」

「わかってます!」

 力強くうなずくあさひを見下ろし、御崎禅が言った。

「大丈夫ですよ、夏樹が扱う事件は基本的に、他所で話しても誰も信じませんから。それに、瀬名さんは小夜さんのお墨付きですから、一応信頼はできると思いますし」

「そっか、ならいいや。──で、瀬名さんは、移動中もそのままなの?」

 夏樹に言われて、あさひははっとした。御崎禅の腕に熱烈にしがみついている自分に気づき、あわあわしながら御崎禅から離れる。今更ながらに頰に血が昇った。

 ごまかすようにあさひは尋ねた。

「あ、あのっ、前もおつしやってましたけど、小夜さんって誰ですか?」

「あなたも知ってる相手ですよ」

 御崎禅が答える。が、あさひの知り合いに、そんな名前の人はいない。

「さー、行くぞ行くぞ!」

 夏樹にかされ、それ以上追及することもできず、あさひはまだ赤いままの頰を気にしながら玄関に向かった。

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