第一章 座敷童誘拐事件 ──憧れの作家は人間じゃありませんでした──4

 ようやく部屋の中を見回す余裕ができたあさひは、御崎禅が座るソファの周りを取り囲むように、棒状のものが床に設置されていることに気付いた。

 ホームシアターのスピーカーだ。

 御崎禅の真向かいには大型のテレビが置かれ、テーブルの上にはDVDのケースが一つ置かれている。あさひはそのDVDの表紙に見入った。赤枠で囲まれた黒い背景の中、簡素なベッドに横たわる金髪の女性と、その上に横からのしかかるようにしている男性。黒いドレスから大胆にのぞいている女性の白い脚がなまめかしい。

 タイトルは『WITNESS FOR THE PROSECUTION』。検察側の証人。

「あ……『じよう』ですね。ビリー・ワイルダーが監督した」

 あさひがその映画の邦題を言うと、御崎禅の眉がかすかに上がった。

 何か話すのだ。御崎禅が気に入りそうなことを。

 ここが勝負どころだと思った。

 帰れと言われて、はいわかりましたと泣きながら帰るわけにはいかない。あこがれの作家だからというだけではない、自分は編集者なのだ。これから担当になる作家に一瞬で嫌われたから仕事できません、なんて言い訳は通用しない。

 考えろ。おそらく御崎禅は、映画好きだ。自宅にホームシアターを完備しているうえに、壁の棚には映画のDVDやブルーレイがぎっしり詰まっている。下の方の棚にビデオテープまであるのは、DVD化されていない古い作品なのかもしれない。よしわかった、食らいつけ自分。逃すな。相手の趣味の話からからめとって、こちら側に引っ張り込むのだ。

 それに──この話題なら。

 あさひにも、多少の利はある。

「御崎先生は、映画がお好きなんですね」

 意を決し、あさひは口を開いた。

「『情婦』、すごく面白い映画ですよね。もしかして、さっきの『あと四十八分待て』って、この映画を観てる最中だったからですか?」

「……ええ。僕は、映画を観ている最中に邪魔が入るのが嫌いです」

「わかります! やっぱり映画は集中して観たいですよね!」

 あさひが勢いよくうなずくと、御崎禅は、ほう、とでもいうような顔をして、

「瀬名さんも、映画がお好きなんですか?」

「はい! 大好きです!」

「では、あなたの好きな映画を一つ挙げてください」

「えっ……」

 あさひが言葉に詰まると、御崎禅は意地悪そうに目を細めた。

「どうしました? 好きなんでしょう、映画。それとも、映画好きというのはその場しのぎの噓ですか? ぱっと思い浮かびもしないとは」

「ち、違います! そうじゃなくて、あの……ジャンル分けしても、いいですか?」

「はい?」

 まばたきしてあさひを見る御崎禅から視線を外し、あさひは真剣に考えだす。好きな映画を挙げてみせろ。それは、真正の映画好きにとっては決して軽い質問ではない。

「あー、ジャンル分けしても無理かも……好きな映画なんて思い当たりすぎて、一つって言われても無理です! ええとー、法廷ミステリー部門だったら、やっぱり『情婦』は上位に来ますよね! 原作がアガサ・クリスティで、監督がビリー・ワイルダーで、主演がマレーネ・ディートリッヒ! ラストのどんでん返しには本当にびっくりしました! あと、弁護士役のおじいちゃんがキュートなんですよね! 法廷ものじゃないミステリー部門だと、『さつじんついおく』とか『オールド・ボーイ』とかもすごい映画ですよね、観た後かなりずしんときますけど。ラブコメ部門だと、『おあついのがおき』がすっごく好きです! これもビリー・ワイルダー監督作品で、マリリン・モンローがI wanna be loved by youって歌うシーンが有名ですけど、この映画のマリリンが一番可愛い気がします。でもこの映画の場合、なんといってもトニー・カーティスとジャック・レモンのコンビがいいですよね! コメディに限らない恋愛映画部門だと『ニューヨークのこいびと』とか『ラブ・アクチュアリー』も大好きです。あと、アカデミー賞獲った『アーティスト』! あれも良かった……あの、ペピーがジョージの楽屋に忍び込んで、彼のタキシードのかたそでに腕を通して自分を抱きしめるシーンが、もう本当に良くて! 冒険ものなら、ベタかもしれませんがインディ・ジョーンズシリーズの初期三作が、今観てもやっぱり面白いんですよね。ファンタジーなら『ロード・オブ・ザ・リング』三部作でしょうか、映像の素晴らしさと、あの映画のために開発された数々の技術を思うと、トップに挙げたくなりますね。あと、何部門に入れればいいのか悩みますけど、『だいだつそう』は永遠に歴史に残る名作ですよね! もちろん、『スティング』とか『かってて!』も忘れちゃいけませんけど! ええと他には『ガタカ』に『アメリ』に『ライフ・オブ・パイ』に『ショーシャンクのそらに』に『ベートーヴェン めつこい』、『ビッグ・フィッシュ』、『ダークナイト』、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』……あ、あと、『ゼロ・グラビティ』! 話はシンプルですけど、すごく感動しましたし、映像も震えるほど綺麗。邦画は古いのはあんまり観てないんですけど、『ゆれる』とか『こくはく』とか『アフタースクール』とか『そしてちちになる』とか『いかり』とか……『キサラギ』も大笑いできていいですし、『パコとほうほん』も大好きです! ミュージカルなら、王道ですが『サウンド・オブ・ミュージック』と『メリー・ポピンズ』で悩むところで。ああでも、『レ・ミゼラブル』や『レント』もいいですよね! あとはそう、ドキュメンタリー部門なら、『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかけるゆめ』が泣けました! これは本当にお薦めです! ブロードウェイで『コーラスライン』の舞台を再演したときのオーディションを追った映画なんですけど……──あ」

 あさひはそこではっとして口をつぐんだ。

 御崎禅が完全に固まっている。まずい。

 やってしまった。よくあるのだ。自分が観た映画の話を節操もなくずらずら並べてドン引きされてしまうことが。そうならないよう、親しい友人以外の前では極力控えるようにしていたのに。

 御崎禅がゆっくりと唇を開いた。

「……よく、わかりました」

 すっかり毒気を抜かれたとでもいうような口調で、言った。

「瀬名さんは……映画が、とても好きなんですね」

「……はい」

 すみません映画オタクで、という気分であさひはしおしおとうなずく。引かれた。絶対引かれた。

「──『ブロードウェイ♪ブロードウェイ』は、僕も大好きです」

 御崎禅のその言葉に、あさひは目を見開いた。

 御崎禅はソファに身を預け、映画のシーンを思い出すかのように視線を遠くした。

「覚えてますか、ポール役のオーディションのシーン。何人もの受験者が次々と落とされた後に、ついにぴったりの役者が現れる」

「はい、覚えてます! 確かジェイソンって名前の若い子で」

「ええ。彼の演技を見た演出のボブ・エイヴィアンが、涙を流すんですよね。ボブだけじゃない、周りの他の審査員達も、皆して鼻をぐすぐすいわせて泣く。そして、『決まりだ』と言う。──あれを見たとき、すごいと思いました。彼らにとってはもう何度となく聞いた台詞せりふ、何度となく見たシーンなのに、それでも彼らはそのシーンを見て本気で泣けるんです。それほどに彼の演技が素晴らしかったというのもあるでしょうし、それほどに彼らが『コーラスライン』という作品を愛しているということでもあるのでしょう」

「はい。あの映画は、シーラ役のオーディションも忘れがたいですよね。シーラにしか見えない、絶対この人がシーラ役になるんだって思ってた人が、落とされちゃって……そのときの彼女の、『去年の夏と同じ演技なんて求められても忘れたわ、恋人と別れたり色々あったけど、八ヶ月も前よ』って言葉が、なんかたまらなくて」

「そう、そしてその直後に、シーラ役に合格した方の女優の笑顔が大写しになる。輝くような、生き生きした笑顔と声……あの明暗こそが『コーラスライン』そのもののようで、ひどく胸に残ります」

 御崎禅がうなずく。その表情は、先程までよりも格段に柔らかくなっている。

 もしかしてこれは──と、あさひは大橋を振り返った。

 それまで黙ってあさひと御崎禅のやりとりを見ていた大橋は、ぱちぱちと拍手し、

「ほら、やっぱり瀬名が適任でしょ? 何しろ、うちの編集部で一番の映画好きだ。御崎先生のディープな映画トークについてこられるのは、こいつくらいのもんです」

「……成程。これは確かに、大橋さんより余程いい」

「その言い方はちょっと傷つくなあ。まあでも、合格ってことでいいですよね?」

「わかりました、いいでしょう」

 観念したように、御崎禅がそう言った。

 と同時に、ルーナがキッチンからやってきて、テーブルに紅茶とケーキを置く。まるで、やっとあさひ達が客だと認められたとでもいうように。

 そこから先は、驚くほど和やかに場が進んだ。

 御崎禅の周りには、どうやらあさひほど映画好きな人間がいないようだ。マニアにはマニアなりの孤独がある。同じ気持ちを分かち合える相手は貴重なのだ。

「最近の若い人は、メディアがあおる話題作しか観ないという人が多いですからね。昔の作品なんて全く知らないという人ばかりで。実に嘆かわしいことです」

「まったくです。大体わたし、ドラマとかでよくある『映画行かない?』だけ言ってデートに誘うシーンが理解できないんです! 何でタイトルを言わないんでしょう、絶対おかしいですよね!」

「同感ですね。映画館へは観たい映画があるから行くのでしょうに」

「いやいや、そりゃ単にデートがしたいだけでしょ? 現に俺、その誘い文句言ったことあるし。だって映画館って、最初のデートの場所には手頃じゃないですか」

「何言ってんですか編集長! いちゃつきたいならでしてください、心の底から迷惑です!」

「純粋に映画を楽しみたい者からすれば、今すぐ出ていけと言いたいところですね。もしくは、相手の好みでない映画をうっかり選んで目一杯気まずくなればいい」

「いやそんな二人して本気で怒らなくても……」

 映画馬鹿二人に挟まれて、大橋が苦笑する。

 あさひは御崎禅と映画の話を続けながら、内心でこぶしを掲げた。この先どうなるかはまだわからないが、この分なら、第一段階はクリアしたといっていいだろう。

 それにしても、御崎禅は一体何歳なのだろうか。見た目年齢とキャリアから計算すると、処女作の『輪舞曲』は十代の頃に書いていたことになるのだが──高校生かそこらであれが書けたのなら、すごすぎる。

 と、ふいに視線を感じて、あさひは後ろを振り返った。

 キッチンのカウンターの陰から、ルーナがこちらを見ていた。

 あさひと目が合うと、ルーナは猫が威嚇するようにふしゃーっと息だけ吐いてうなるような声を出した。ぎょっとするあさひをしりにカウンターの陰から飛び出し、部屋から出て行ってしまう。何やら敵視されてしまった気がした。

「……あのー、ルーナちゃんって、御崎先生の……妹さん、ですか?」

「いいえ」

 あさひが尋ねると、御崎禅は首を横に振り、

「僕とルーナの間に血縁関係は皆無です。知人の子を預かっているわけでもありません。さらに言うなら、孤児を引き取ったわけでも、わけありの子を仮に保護しているのでもありません」

 こちらの予想を全て先回りした回答が返ってきた。おかげでますます二人の関係がわからなくなる。まさか恋人か、と考えて、あさひは内心でぶんぶんと首を横に振った。だってあんな小さな女の子なのに。

 御崎禅はそんなあさひを横目で見つめて、くすりと笑った。

「だって──小さい方が、いいでしょう?」

「……はい?」

 まるであさひの内心を読んだかのようなその言葉に、あさひは一瞬引きりそうになった。ロリコンか。やはりロリコンなのか。

 が、続く御崎禅の言葉は、さらに謎だった。

「日本の家は狭いですからねえ。今はマンション住まいですし。大きいと、手狭になっていけません」

「……え、ええと?」

「家の中で傍に置くならコンパクトな方がいいという話です。理解できませんか?」

 そう言って、御崎禅が優雅にティーカップを口に運ぶ。そのまま映像に残したくなるような、実に美しい所作と横顔だった。

 しかし、言っている内容はさっぱりわからない。というか、これだけ広々としたマンションに住んでいて手狭になるのが嫌だと言われても、まずそこが理解できない。

「ああ、そろそろ、そっち方面の話もしておいた方がいいようですね?」

 御崎禅が大橋に目を向け、軽く首をかしげてみせた。

 大橋は肩をすくめ、

「そうですねえ。隠したところでいずればれるし、先に知っといた方がいい」

「大橋さんからあらかじめ話しておいてくれてもよかったのでは?」

「実物見ずに話だけ聞いたって、信じられるもんでもないでしょ? 例の注意事項だけは先に伝えときましたけどね」

「それで気づかないほど鈍いのであれば、仕方がないですね」

 御崎禅と大橋は、そんなことを言いながらうなずき合っている。

 一人だけ話が見えないあさひは、御崎禅と大橋を代わる代わる見やり、

「あの、一体何のお話をされてるんですか?」

 すると、御崎禅と大橋が同時にあさひの方を向いた。

 口を開いたのは、御崎禅だった。

「ところで瀬名さんは、ホラー映画はご覧になりますか?」

「あ、すみません、怖いのはちょっと苦手で……そっち系大好きな友達がいるので、話だけは教えてもらったりもするんですけど」

「では、吸血鬼映画などはあまり観ない?」

「吸血鬼モノですか。ゲイリー・オールドマン主演の『ドラキュラ』は観ました。他にも幾つか……吸血鬼モノはそんなに怖くないので、わたしでも観られるのが多いんです。友達に薦められて観た『ぼくのエリ 200さいしようじよ』は、かなり良かったですね。主演の子役が二人とも素晴らしかったし、映画としての雰囲気も良くて」

「ああ、『ぼくのエリ』の子役は確かに良かった。あれで二人とも演技経験がほとんどなかったとは驚きです。ハリウッドリメイクの『モールス』より余程素晴らしい。しかし、本物としてひと言言わせてもらうなら、エリが口の周りに血を付けたままオスカーの部屋に来るシーン、あれはいただけない。行儀が悪すぎます。口の周りにソースやドレッシングを付けたまま歩き回る人などいないでしょう? 『ダーク・シャドウ』でも、ジョニー・デップが同じように口も胸も血で汚したまま、歩き回ったり人と話したりしていましたね。実に恥知らずで、見ていて不快でした。およそ紳士のやることではありません」

「まあでもそれは、吸血鬼だってことを観客に印象づけるためですよね。としてのインパクトもありますし、それに……──」

 映画の話と思って話していたあさひは、途中ではたと違和感に気づいた。

 なぜ急にホラー映画の話。しかも、なぜ吸血鬼モノ。

 御崎禅と大橋は、意味ありげな視線でじっとあさひを見つめている。

 いや、それよりも。

 映画における吸血鬼表現に駄目を出す前に、御崎禅は何と言った?

 そう、確か──『本物としてひと言言わせてもらうなら』と、言った気がする。

 御崎禅と大橋は、じっとあさひを見つめ続けている。あさひが気づいたことに気づいて、二人してにやりと笑う。

「──御崎禅の担当につくにあたり、重要な注意事項」

 大橋が言った。

「その一、『昼間は絶対に連絡してはいけないし、訪ねても行かないこと』。では問題。その二は、何だったかな?」

「……御崎先生と会うときは、銀製品を身に着けていかないこと……でしたよね」

「正解。それじゃ、次は連想ゲーム。夜型で銀製品が苦手といえば?」

「ええと……」

 考えるふりをしながら、あさひはテーブルの上に視線を落とす。金で縁取りされた真っ白なティーセット。添えられたティースプーンもケーキ用のフォークも、全て金色にメッキされて輝いている。──銀製品は、一つもない。

 視線を上げ、あらためて御崎禅を見つめる。

 ひどく整った、まるで人間ではないかのようなぼう。透けるように白い肌。かんぺきな形をした唇がゆっくりと笑みを浮かべると、白い歯がちらりとのぞく。心なしか、犬歯がやけにとがってみえる。まるできばのように。

 頭に浮かんだ言葉を、しかしあさひは即座に否定した。そんなことはありえない。

「いいえ、それが正解ですよ。瀬名あさひさん」

 まだあさひは何も言っていないのに、御崎禅はそう言って笑みを深めた。

 あさひの考えたことをそのまま読み取ったかのように。

「ひっ」

 あさひはソファに座ったまま、お尻だけであと退ずさった。

 あさひの頭の中を、御崎禅の言った『正解』の言葉が駆け巡る。

 吸血鬼。ヴァンパイア。

 人の生き血をすすり、永遠の夜の闇を生きる──化け物。

「まあ、そうですね。確かに化け物ですよ。けれど、それが何か?」

 不機嫌そうな素振りもなく、あさひの反応を楽しむかのように笑みを浮かべたまま、御崎禅はそう言った。

 御崎禅がすうっと目を細めると、そのひとみが一瞬だけ、おきのように赤く輝いた。

 その瞬間、あさひは、首筋の皮膚が異常なほどあわつのを感じた。

 それは本能だった。

 本能が、あさひに教えていた。今あさひの目の前にいるのは、人間とは違う生き物なのだと。

 それでもいちの希望にすがりたくて、あさひは叫んだ。

「あああああのっ、これ、どこかにカメラありますかー!?」

「ありません。映画やドラマの撮影とは違いますので」

「そそそそうですかそうですよね失礼いたしました!」

「というか、この状況で映画の撮影を期待しますか普通。面白い人ですね」

 御崎禅があきれた声で言った。わあ作家さんから面白いって評されたぞと、あさひは少しうれしくなる。そんなことが嬉しくなってしまう辺り、相当頭がおかしくなってきている。

「ああ、脅かして申し訳ありませんでしたね。どうぞ楽にしてください。別にあなたをどうこうする気はありませんよ」

「あのさ瀬名、言っとくけど俺、この先生に血吸われたこと一度もないからな?」

 ほぼパニック状態のあさひに向かって、御崎禅と大橋が言う。

「大橋さんは喫煙者ですしね。そんな有害極まりない血液、食用には向きません」

「わ、わたしっ、喫煙者じゃありませんけどっ!」

「ですから瀬名さん、あなたの血を飲む気もないと、さっき言ったところでしょう。大体、いくら吸血鬼と呼ばれる種族だからって、今のこの社会でそうそう人の生き血なんて飲めるわけがない。警察に逮捕されてしまいます」

「えっ、た、逮捕? 逮捕されちゃうんですか!?」

「されますよ。報道はされませんけどね」

 あっさりと、御崎禅がうなずく。

「……ええともしかして、先生みたいな方々って、他にも意外とたくさんいらっしゃったりするんでしょうか?」

「いますよ。一般に知られてないだけで」

「そうだったんですかっ……」

 まさかこいつも、という目であさひは大橋を振り返る。が、大橋は心外なという顔で首を振った。てっきりチェシャ猫のしんせきだったりするのかと思ったのに。

「人間社会で生きる以上、我々人外の存在も基本的には人間が作った法というものを守らなければなりません。とはいえ、ほとんどの人間は、自分達と異なる種族が自分達の社会にまぎれているなんて夢にも思ってませんからね。混乱を避けるために、人外の存在に関する情報は極力伏せられているんです。だから今でも、我々は映画や本などの想像の世界にしかいないものだと思われているわけです」

 御崎禅が言う。

「ちなみに世の中の吸血鬼作品については、物申したい点が多々あります」

 苦々しい顔で、御崎禅は現実を生きる吸血鬼の立場を訴えた。

「まず、吸血鬼と伝染病を混同するのはいい加減やめていただきたいですね。吸血鬼にまれた人間がいちいち吸血鬼化していたら、世の中あっという間に吸血鬼だらけですよ。ただでさえ寿命の長い種族なのに、捕食対象が全て同族になってしまったら、我々はすぐにも絶滅です。そんなの種としてありえないでしょう? それに、吸血鬼といえば十字架と聖水に弱いというのがセオリーらしいですが、別に我々は悪魔ではないので、あんなもの怖くもなんともありません。他にも、ニンニクが駄目だの、流れる水を渡れないだの、招かれないと入れないだの、鏡に映らないだの、不思議なルールがまことしやかに語られていますが、ほとんどが創作です。ブラム・ストーカーの想像力には心底迷惑しています」

「そんな吸血鬼モノの根幹を揺るがすようなことをおつしやいますか!?」

「僕らは、単にこういう生き物だというだけなんですよ。猫が猫であるように、犬が犬であるようにね。それを悪魔の一種のように扱って十字架と聖水で退治しようとするなんて、愚の骨頂です」

 御崎禅がそう言い捨てる。その割に、『ドラキュラ』も『ダーク・シャドウ』も『ぼくのエリ』も『モールス』もしっかり観ているあたり、映画オタクの業は深い。

「とはいえ、事実に沿った設定もあります。実際僕は陽の光には当たれないし、銀製品にも触れられない。一種のアレルギーみたいなものですからね。犬にタマネギを与えると中毒を起こすのと同じようなものです」

「じゃあ、白木のくいを心臓に刺されたら?」

「瀬名さんは、心臓をくししにされて生きてる自信があるんですか?」

「ないです」

「僕もありません。試したこともありませんけどね」

「あの、そしたら、御崎先生って、今、お幾つなんですか?」

「おかげさまで、見た目より長生きしてますよ。日本に渡ってきたのは、大正の頃です」

「大正っ……」

 あさひの祖父母よりも年上らしい。こんなにお肌つるつるでぴちぴちなのに。

 だがしかし、これで高校生が『輪舞曲』を書いた疑惑は晴れた。それだけ長生きして人生経験豊富だからこそ書けた作品なのだと思う方が、まだ気が楽である。

「あ、そしたら、ルーナちゃんも、もしかして」

「ルーナは、吸血鬼というわけではありません。人間でもありませんがね。昔ちょっと縁があって、もう随分長いこと僕に仕えてくれています」

 御崎禅がそう言った瞬間、さっき確かに部屋を出て行ったはずのルーナがひょっこりとソファの後ろから姿を現した。御崎禅の腕に抱きつき、あさひに向かってべーっと舌を出す。何だろう、自分のご主人様に気安くするなという意思表示だろうか。

 そしてあさひはついに、最も気になっていた点について、御崎禅に質問をぶつけた。

「じ、じゃあ、お食事は……いつも、どうされてるんですか?」

 確か『ぼくのエリ』では、吸血鬼であるエリは、人間の食べ物が食べられなかった。しかし、御崎禅は先程ケーキを口にしている。

「あくまでこう品として、人間の食べ物も食べられますよ。どうしても血が必要なときは、輸血用の血液などで済ませています」

 やはり主食は人血らしい。

 あさひは、血液パックにストローを突っ込んで中身を啜っている御崎禅を想像してみた。いまいち優雅さが足りない。現実とはそんなものなのか。

「──さて、ここまで話したところで、あらためてきますが」

 そこで御崎禅は一度言葉を切り、あさひを見据えた。

「瀬名あさひさん。あなたは、それでも僕の担当として仕事をする気はありますか?」

 あさひは息をんだ。

 そうだ。自分は、御崎禅の担当編集になるために、今日ここに来たのだ。

「あなたは編集者で、僕は作家です。あなたの仕事は、僕が書いた作品を世の中に送り出すこと。僕は理由があって、プロフィールを伏せたままにしておきたい。その理由が、僕の正体が人間じゃないからなのか、それとももっと他の理由なのかは、この際どうでもいいことです。だって、そんなことは僕の作品そのものとは一切関わりがない」

 きっぱりと、御崎禅がそう言い切った。

「僕が何者かわからなくても、世の中の人々は僕の作品を読む。作品は、世の中に送り出された時点で、もう僕個人とは別個のものになっている。僕は、ただ作品それ自体を、読者の方々に楽しんでもらいたい。それだけです」

 御崎禅の言葉が、あさひの中にみ込んでいく。

 作品と作家は別のもの。

 作家の人となりや日常について知りたがる読者は多いし、作家本人がブログやツイッターで自分自身を世の中にプレゼンすることはよくある。そうやって書き手と読み手がつながっていくことによる相乗効果は大きい。

 だが──純粋に作品世界を楽しみたいなら。

 作家が何者なのかなんて、本当はどうでもいいことなのかもしれない。

 あさひだって、そうだった。

 御崎禅が何者か知らなくても、その作品を心から愛していた。

 そう気づいたときには、混乱も恐怖も波が引くように消えていた。いつの間にかあさひは姿勢を正して、御崎禅と向き合っていた。

「あなたは編集者として、僕に協力してくれますか? 僕に関する情報の全てを隠したまま、僕の作品だけを世の中の人々に届けてくれますか?」

「──はい」

 御崎禅の問いかけに、あさひはしっかりとうなずいた。

 御崎禅の目を真っ直ぐに見つめ返し、答えることができた。

「それが、わたしの仕事ですから」

 心の隅の方で、悪魔と契約したような気分がしなかったわけではないけれど──でもどこか少し、誇らしいような気がした。

 御崎禅の作品を、読者のもとに届ける。その役目を、御崎禅は今、あさひにくれたのだ。

 そして、その言葉は、実に自然にあさひの口をついて出た。

「だから──御崎先生。あなたは、書いてください」

 あさひの言葉に、御崎禅がかすかに目をみはる。

 ついさっき担当になったばかりの、しかもまだまだひよっ子の編集者が何を言っているのかと思われただろうか。でも御崎禅は今、「僕の作品を世の中の人々に届けてくれますか」と言った。ならば、御崎禅は書かなければならない。

 そう、書くべきだ。

「わたしは、担当編集者として全力であなたをお守りします。そして、あなたの作品を待ち望んでいる読者さん達に、あなたの作品を届けます。だから、御崎先生」

 正直に言おう。この瞬間、あさひは大橋から課せられた任務のことさえ忘れていた。

 御崎禅の作品を待ち望んでいる読者。それは他ならぬあさひ自身だ。公私混同と言うなら言え。これが悪魔との契約かもしれないなら、あさひの望みはただ一つ。そのためなら何だってするし、何を差し出したってかまわない。それこそ魂だろうと、血だろうと。

 ただただ、御崎禅の新作が読みたいと──その気持ちだけで、あさひは、御崎禅に向かって頭を下げた。

「小説を、書いてください。お願いいたします」

 そしてあさひは、「……いいでしょう」と御崎禅が言うまで、頭を上げなかった。

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