第一章 座敷童誘拐事件 ──憧れの作家は人間じゃありませんでした──3

 そんなわけで、御崎禅との初顔合わせを前に四十八分の待ち時間を強制的に設けられてしまったあさひは、大橋が適当に選んだパスタ屋で、運ばれてきたカルボナーラに手をつける気にもなれぬまま、ひたすらにぐるぐると想像をめぐらせていた。

 はたして御崎禅とは、どんな人物なのだろう。

 先程電話に出た声は、男性のものだった。あれが御崎禅本人だったなら、少なくとも性別は男だ。一瞬だったし、ちやちや緊張していたので、あまりよく覚えていないけれど。

 そんなあさひの向かいで山盛りのナポリタンをもりもり食べつつ、大橋がとどめを刺すようなことを言う。

「たぶん御崎先生に会ったら色々驚くと思うから、覚悟しといて」

「い、色々って何ですかっ?」

「色々は色々だよ。まあ、会えばわかる」

 大橋はそう言って笑う。もうやだこのチェシャオヤジ、とあさひは思う。

「そういえば御崎先生って、どうしてうちで書くようになったんですか? 賞獲ってデビューってわけじゃなかったですよね」

「うん、まあ、ちょっと縁があってね」

「御崎先生って、もう八年くらい作家活動されてますよね。お幾つなんですか?」

「うん、まあ、それも会えばわかる……とは、言えないなあ、うん」

 大橋があいまいに言葉を濁した。げんな顔であさひは首をかしげる。

 あさひの想定では、御崎禅の年齢は三十代から四十代、あるいはそれ以上。素敵なおじさまだといいなと思っていたくらいなのだが、意外と若作りなのだろうか。

 と、大橋が急に声を低くした。

「──実は、御崎先生に会う前に、瀬名に言っておきたいことがあるんだ」

「な、何ですか急に」

「知ってるだろうけど、あの人、ここ二年くらい、新作ほとんど書いてないだろ」

「あ、はい。確か、短編を二本書いたくらいですよね」

「そう。それじゃ困るんだよ、うちの一番の稼ぎ頭なんだからさ。だから瀬名の任務は、なんとかしてあの人に新作長編を書かせること」

「そんな重たい任務、今ここで課しますか!? こんな不安しか抱けない状況下で!」

「だって瀬名だって読みたいでしょ、御崎禅の新作長編」

 にやりとチェシャオヤジは笑みを深くし、あさひは思わず口をつぐむ。

 それはもちろん読みたい。御崎禅の新作長編。

 短編なんかじゃ、全然足りない。がっつり一冊、むさぼりたい。

 ただの読者なら、出ない新作を待ち焦がれて飢えるだけだ。

 だが、担当編集なら──直接、作家に催促できる。

 作家に書かせることが、できるのだ。

 そう思った途端、震えるほどの興奮が胸に湧いた。

 わかっている。御崎禅は別にあさひのために書いてくれるわけではない。

 それでも、次に御崎禅が書く原稿を一番最初に読むのは、あさひなのだ。

「期待してるよ、瀬名」

 チェシャオヤジが含み笑いと共にささやき、あさひは赤くなった頰を慌てて押さえた。

 とはいえ、問題は──それでちゃんと作家に書いてもらえるかどうかである。やっぱり不安しか抱けない。


 そして四十八分の待ち時間が過ぎ、大橋はあさひを伴ってパスタ屋を出ると、駅前の繁華街を離れて住宅街の方へと歩き出した。

「あの、もう一度お電話で確認しなくて大丈夫ですか?」

「平気だと思うよ。どうせいつもの趣味の時間だっただけだろうし」

 あさひの問いに大橋はそう答え、さっさと歩を進める。御崎禅の趣味が何なのかは教えてくれない。それも「会えばわかる」なのだろうか。

 あさひは大橋について歩きながら、なんとなく空を見上げた。

 今は六月で、東京はつい先日梅雨入りしたばかりだ。今日も雨が降るかと思っていたが、ぎりぎり降らずに済みそうな気配だ。とはいえ、空に浮かぶ月は濃い色の雲に半ば隠されている。上空は風が強いのだろうか、雲の流れが速い。吹き流れる黒いもやのような雲の向こう、それでもなお白く輝く月はまるで墨絵のような美しさだった。

 これが御崎禅に会う晩の空か、とあさひは妙な感慨を覚えた。

 長年憧あこがれつづけた、恋すらした作家に対面する直前に見る空。

「ほら、ここが御崎先生のマンション」

 大橋の言葉に、空に向けていた視線を斜めに下げる。

 夜の中に白くたたずむ、しようしやな六階建てのマンションが見えた。いい物件のようなのに、明かりがいているのは六階の一角だけだ。

 エントランスにあるインターホンで、大橋は603号室を呼び出した。

「どうも、大橋です。もういいですか」

 返答はなく、ただオートロックの扉が開く。

「じゃ、行くよ」

 大橋に付き従って、あさひはマンションの中へと足を踏み入れた。

 エレベーターで六階に上がり、大橋が603号室のインターホンを押す。表札はなかった。

 と、がちゃりと扉が開いた。

「……え?」

 あさひは、扉を開いた人物をまじまじと見つめた。

 まるでお人形さんのような、金髪の少女だったのだ。

 十歳かそこらだろうか。どう見ても西洋系の顔立ちだ。しかもとてつもない美少女だ。見事な金髪の巻き毛に青いひとみ、白い肌。フリルがついた黒いワンピースを着てこちらを見上げてくる顔は実に愛らしいが、どこか子供らしくない冷たい無表情で、それが余計に人形めいた印象を強めている。

「こんばんは」

 大橋があいさつすると、少女は扉を大きく開き、大橋とあさひを中に迎え入れた。二人が靴を脱いでいる間に、足音もさせずに廊下の奥へと走っていく。

「……あの、編集長。今の子は?」

「ああ、あれはルーナちゃん。ここに住んでる子」

 小声で尋ねたあさひに、大橋がそんな答えを返す。御崎禅の子、と言わなかったのが気になった。

 廊下の突き当たりの扉を開けると、そこは広々としたリビングになっていた。キッチンとつながっており、そこでさっきの子がお湯を沸かしているのが見える。リビングの中央には大きなガラスのローテーブルと、立派なソファセットがあった。

 そしてそこに、栗色の髪の男性が座っていた。

 入ってきた大橋とあさひの方を、彼はゆっくりと振り返る。

 ──心臓が止まるかと思った。

 この人が、御崎禅だというのだろうか。

 若い。どう見ても二十代にしか見えなかった。

 それに──ルーナと同じく、西洋系の顔立ちだ。ハーフかクォーターか、もしくはそもそも日本人の血が入っていない可能性もある。高いりように白い肌、長めの前髪の下の瞳は明るいとびいろまゆまつも、髪と同じく淡い色合いだ。恐ろしく整った顔立ちは、作家ではなくモデルか俳優でもやった方がいいんじゃないかと思えるほどである。ゆったりした白のシャツに黒のパンツ姿、組んだ脚はやはり日本人ではありえないほど長い。

 煙水晶のように透き通った瞳で、彼はじっとあさひを見つめていた。彼が目をそらすまでの数秒間、あさひは完全に呼吸を忘れていた。

「やー、どうも、御崎先生。お邪魔してすみません。今日は担当の引継ぎがてら、ご挨拶に伺いました。今後は、こちらの瀬名が担当になりますんで」

 大橋の声で、あさひはやっと我に返った。

 硬直している場合ではない。やっぱりこの人なのだ。この人が、御崎禅。

「せ、瀬名あさひです、どうぞよろしくお願いいたします! これ、つまらないものですが!」

 あさひは慌てて頭を下げた。そのまま、手土産に持ってきたケーキの箱を差し出す。

「瀬名──あさひ、さん」

 頭を下げたままのあさひの耳に、澄んだ響きの甘いテノールが聞こえる。これが、御崎禅の声。

「そうですか、あさひ。それはまた随分と素晴らしい名前ですね」

 御崎禅に名前を褒められた。その事実に、あさひは自分の顔に一気に血が昇るのを感じる。きっと真っ赤だ。恥ずかしくて顔が上げられない。

「あ、あの、ありが」

 ありがとうございます、とあさひが言おうとしたときだった。

「ところで、あなたが先程から差し出している物についてですが、つまらないものなら要りませんよ。持って帰ってください」

 耳に心地よい美声が、名前を褒めてくれたときと同じ口調のまま、そう言った。

 え、と思う暇もなく、御崎禅は言葉を続ける。

けんそんを美徳とするのは確かにこの国の文化ではありますが、しかし普通に考えて、つまらないものを他人に贈るというのはどうなのでしょうね。この本は面白くないですよ、この食べ物はしくないですよ、そんな風に言って商売をする人がどこにいます? 本当につまらないものをもらって喜ぶ人もいないでしょう。つまり、先程のあなたの言葉は、あなたが今差し出している物を作った人に対しても、受け取り手である僕に対しても、大層失礼な言葉だったと言えます」

「え、えっと、あの」

 あさひはおたおたと顔を上げる。

 御崎禅はもはやあさひになど興味ないとでもいうように目線をに向け、軽く左手でほおづえをついていた。女性のようにふっくらとした形の良い唇が、再び開く。

「こんばんは、瀬名あさひさん。はじめまして、そしてさようなら。僕はあなたと仕事をする気はありません。お帰り下さい、そのつまらないものを持って今すぐに」

 この世のどんな女性だって口説き落とせそうな甘い声。詩でもそらんじているかのような優雅な口調。外見に反して実にれいな日本語の発音。

 が、言っている内容は相当ひどい。

 しかも、挨拶しただけで、担当につくことを拒否されてしまった。あまりのことに、ショックで頭が真っ白になる。藤井華絵に「あなたって本当につまらない人ね」と言われたときの記憶が瞬間的によみがえり、あさひはにじみかけた涙を必死にこらえた。

「あのねえ、御崎先生。あんまりいじめないでやってくださいよ、うちの若手を。一般的な挨拶の言葉でしょーが、『つまらないものですが、どうぞ』なんて」

 大橋がやれやれという顔で間に入ってくれた。

「ったくもう、そろそろ担当替わりますよーって、前からお伝えしてたでしょーが。これでも、うちで一番御崎先生に合いそうなのを選んできたんです」

「一体何を基準に選んだんですか、それとも余程粗末な人材しかいないんですか?」

 御崎禅の毒舌は、大橋が相手でも変わらない。

 しかし大橋は動じた様子もなく、にいっとチェシャ猫笑いを浮かべ、

「あれ、そんなこと言っていいんですかあ? この瀬名は、さんのお墨付きなんですけど」

「小夜さんの?……そう、ですか」

 大橋の言葉に、なぜか御崎禅はそう言って、口をつぐんだ。眉をひそめてはいるが、言い返そうとはしない。小夜さんとは誰なのだろう。

 と、キッチンからルーナがやってきて、あさひの前で足を止めた。

 無言のままあさひを見上げ、ケーキの箱を取り上げると、キッチンへ戻っていく。とりあえず、手土産だけは受け取ってもらえたようだ。御崎禅にではなく、謎の美少女にだが。

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