第一章 座敷童誘拐事件 ──憧れの作家は人間じゃありませんでした──②
第一章 座敷童誘拐事件 ──憧れの作家は人間じゃありませんでした──2
大橋があさひを連れていったのは、一階下のフロアにある会議室だった。
あさひは、少し緊張して椅子に腰を下ろした。
簡単な打ち合わせ程度なら、編集部内のオープンスペースにある椅子とテーブルで十分だ。そこを使わず、わざわざ別フロアに行くとは、余程内密な話なのだろうか。
内密な話──思い当たるふしから想像し、あさひの顔から血の気が
「あ、あのっ。藤井先生の件でしたら、本当に申し訳ありませんでした!」
勢いよく頭を下げたあさひに、大橋は
「ああそれね、さっき藤井先生から俺のとこにメールきてた」
「すみません、わたしが至らなかったばっかりに、ご迷惑をおかけして!」
「あー、うん、とりあえず藤井先生は、担当変更ってことにします。あの先生相手に、瀬名じゃやっぱり無理だった」
「すみません……」
あさひは下げた頭を上げられないまま、さらに小さく縮こまった。
大橋の口調は決して厳しくはない。が、「瀬名には無理だった」と言われるのはやはり
「まあ、今回の件は、俺の人選ミスもあるとは思う。あんまり作家側の
「はい……」
「まあ、藤井先生の引継ぎの件については、また今度話そう。──今日はその件じゃなくて、別の話がしたくてね。実は、瀬名にぜひ担当してもらいたい作家さんがいるんだ」
急に切り替わった話題に、あさひは驚いて顔を上げた。
「え? わたしにって……ええと、新人さんですか?」
「いや、前からずっとうちで書いてるよ」
「どなたですか?」
「
「……え?」
「御崎禅先生の担当を、頼みたいんだよね」
大橋が言う。
あさひは思わず息を止める。
──御崎禅。
それは、とても特別な作家の名前だ。
この希央社にとっても、あさひにとっても。
御崎禅は、世間では幻想恋愛小説家などと評されている。美しい情景描写と
それどころか、御崎禅の経歴も顔も性別も年齢も、一切オープンにされていないのである。
そのため、御崎禅は謎の作家と言われ、有名作家の誰それが覆面で書いているという噂が複数出回るほどだ。実のところ、編集部の人間でさえ、直接の担当である大橋以外は御崎禅の顔を見たことがない。
世間の誰も、御崎禅が何者なのかを知らないのだ。
けれど皆、御崎禅が紡ぎ出す美しい幻想物語に魅了される。
あさひもその一人だった。
初めて御崎禅の作品を読んだのは、高校生のとき。御崎禅が書いた一冊目の本、『
始まりは、十八世紀のウィーン。詩人の男性と、オペラ歌手の女性。二人は運命的に出会い、恋に落ちるが、彼女の方はパトロンの貴族と結婚して外国に旅立つことがすでに決まっていた。引き裂かれ、添い遂げることの
『いつの日にか、夢物語のような再会を果たしましょう。たとえどれだけ時が過ぎても、どれだけ互いの姿が変わっても、きっと私にはあなたが、あなたには私がわかるでしょう』
けれど、二人がその後出会うことはなかった。──そのときの人生では。
そして、時が流れる。二人は全く別の人間に生まれ変わっている。勿論、二人は前世のことなど覚えてはいない。
だが、ふとした瞬間に、二人はかつてとても大切な約束をしたことを思い出すのだ。
しかし、
それでも二人は生まれ変わりを続ける。いつか出会えるように、愛し合えるように。わずかな手がかりを集め、相手が違う国にいることを知れば追いかけ、探し続ける。オーストリアからアメリカへ、そして日本へ。まるで同じモチーフを繰り返し追い続ける輪舞曲のように。何度も何度も、違う生を生きながら、彼らは同じ相手を求め続ける。
けれど、人というのは、同じタイミングで生き、同じタイミングで死ぬものではない。そんな都合のいいことなどあるわけがない。
すなわち──二人の時間には、やがて致命的なまでのずれが生じてしまうのだ。
探し求める相手は、同じ国どころか同じ時間軸にさえいない。男性が新たな生を生きるその大半の間、女性の方はまだ生まれていなかったりする。それでも二人の心には、かつての約束が消えない炎のように燃え続ける。出会えぬ恋人のために手紙を
物語のラストで、二人はようやくめぐり会う。
そして一緒に、長い夜が明けて朝が訪れる瞬間を見るのだ。
そのときすでに男性は息を引き取る間際の老人で、女性の方はまだ幼い少女だけれど──それでも二人は再び出会えた喜びに心を震わせ、じきに訪れる再びの別れを悲しみながら、それでも今この時が永遠に続けばいいと願って、これまで見てきた中で一番美しい朝陽を見つめ続ける。
当時あさひは、その本を読みながら何度も泣いた。何度も読み返し、言葉の美しさを
そんなあさひの様子を、友人達は「まるで恋でもしてるみたい」と評した。
確かにあれは、恋にとても似ていたかもしれない。
あの本のことを考えただけで、胸の奥底からわーっと何かが
本に恋をするということがありえるなら──あれが、あさひの初恋だ。
それからは、御崎禅の新刊が出る度に書店に走った。読む度、何度も恋に落ちた。そして、ついには御崎禅が本を出している出版社に就職を決めたのだ。
が、せっかく希央社に入社したというのに、御崎禅の顔もわからぬまま二年が過ぎ──それがいきなり、担当編集になれだなんて。
どうしよう。だって、担当になるということは。
──会えるのだ。御崎禅に。
ずっとずっと
「瀬名? 瀬名、おーい瀬名、大丈夫? 聞こえてる? 息してる?」
「……っあ、ああ、死ぬかと思いました……」
大橋の声で我に返った。詰めていた息を吐き出すと共に、絶頂と混乱が霧散する。
途端にこみ上げてきたのは、自分なんかでいいのだろうかという思いだ。何しろあさひは今日、作家から担当をクビにされている。
「なぜわたしなんですか? 御崎先生は、ずっと編集長が担当されてたんですよね」
「いや、そろそろ別の誰かに引き継がなくちゃいけないなって、思ってはいたんだよ。最近、さすがに色々手が回らなくなってきちまって」
こきこきと肩を鳴らして、大橋が言う。
しかし、なぜそれであさひに担当が回ってくるのかがわからない。
「わたしはまだ経験も浅いですし、それに……あの、昔から、御崎先生の大ファンで。その作家を好きすぎる人間が担当編集になるのは、いいことではないですよね?」
担当編集は、作家にとって一番最初の読者であり、批評家だ。場合によっては作品に対して口出しすることもある。御崎禅クラスの作家ならばそんな必要もないかもしれないが、それでもやはり思い入れが強すぎる者が担当につくのはどうなのだろう。
が、大橋は、
「確かにそうなんだけど、その辺は様子見て俺もフォローするから。まああの先生の場合、原稿の完成度は毎回問題ないから、大丈夫だと思う。とはいえ、原稿の催促は必要だし、幾つか注意点もあるけど。というか、そっちの方が心配なんだけど……とにかく、話し合いの結果、瀬名が一番適任だろうってことになったから」
「話し合い? 御崎先生と話し合ったんですか」
「いや、違うけど」
じゃあ一体誰と話したんだろうと思うあさひの前で、大橋はまたチェシャ猫のように笑う。
「
「はい。大丈夫です」
「で、ここからは注意事項。まず、御崎先生の個人情報については、他の誰にも明かさないこと。編集部内でも駄目。これはいいよね?」
「はい。作家さんの個人情報を守るのは、当然のことですし」
「それから、これから言う三つは、内容的にはちょっと特殊かもしれないけど、とにかく守ってほしい」
「はい」
背筋を正して神妙にうなずくあさひに、大橋は三つの注意事項を述べ始めた。
「まず、その一。『昼間は絶対に連絡してはいけないし、訪ねても行かないこと』」
「わかりました。御崎先生、昼間は別のお仕事されてるんですか? それとも完全夜型とか? まあ、どちらも作家さんには多いですよね」
「うん、まあそんな感じ。次、その二。『御崎禅と会うときは、銀製品は身に着けていかないこと』。これは平気かな、瀬名ってあんまりアクセサリーとかつけないみたいだし」
「はあ、平気ですけど……アレルギーでもあるんですか? 御崎先生って」
「うん、まあそんなところ。で、その三。これは本当に要注意なんだけど」
「はい」
「『警察には気をつけろ』」
「……はい?」
あさひは目をぱちくりさせて、大橋を見つめる。
大橋はいかにも困っているという風に
「いや、何しろさ、しょっちゅう警察が来るせいで、原稿滞っちゃうから」
「ちょ、ちょっと待ってください、何でそんなしょっちゅう警察が来るんですか?」
「来ちゃうんだから、仕方ないじゃない。俺らに止められるもんでもないし」
「だからどうして」
「まあ、向こうも仕事だから」
「………」
憧れの作家の担当になるというのに、そこはかとなく不安を感じる。
もしや御崎禅というのはものすごく素行に問題がある人で、しょっちゅう
そんなあさひの不安をさらにあおったのは、編集部に戻ってからの高山達の反応だった。
先輩編集を差し置いて自分が御崎禅の担当になったことに、あさひはそれなりに負い目を感じていたのだが、意外なことに高山も古谷も話を聞くや否や「うわあ、そっかあ……大変だね」となぜか同情的な
「そ、そんなに問題のある作家さんなんですかっ!?」
あさひが尋ねると、高山も古谷も首を振り、
「あたしもよく知らないけど、大橋さん、御崎先生関連でよく振り回されてたから。急な呼び出しもあったし、それに御崎先生って、確か原稿手書きなんだよね。だからメールで受け取るわけにもいかなくて、よくお宅まで行ってた」
「俺、大橋さんが警察と電話で話してるの聞いたことある。『署まで迎えに行きます』って言ってたから、間違いないと思う。御崎先生を警察署まで迎えに行ったってことだよね」
「……い、一体どんな人なんですか御崎先生って……」
頭を抱えるあさひに、しかし高山も古谷も「さあねえ……?」と首をひねるばかりだった。
結局、直接の担当以外、誰も御崎禅のことを知る者はいないのだ。
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