序章-------「帰り道」



婦人の体調が優れない。

ロートラウトの母、シーナの頬に、深い影がおちた。

使用人の誘導か、それとなく禁忌の気配を感じ取ったのか、ロートラウトは母の自室に近づかなくなった。

もともと交友の薄い母娘だったが、数ヶ月顔を見ない、なんてことが増えた。同時にロートラウトには家庭教師がつけられた。

ロートラウトは不思議な焦燥感を抱くようになった。周りの様子が目まぐるしくかわる。その様子に足元から悪い風が吹き荒れているような気分になった。



サル山の中に、大人しい少年がいた。名はビンセ。積極的につるんでいるわけではないが、一流の釣りの腕で、サル山の腹部からよく誘われていた。

細いクリーム色の髪と、滑らかなひたいをもつ、老成した少年博士、そんな印象だった。


ロートラウトは、不安を彼に打ち明けた。

「気が滅入るよ」

小寒い秋の午後だ。小さな森の茶色い湖の岸辺、ふたりで釣り糸を水面に引っ掛けながら、落ち葉が沈んでいくのを眺めていた。

「見えない迷路に延々と挑んでいる気分だ。親の後を継ぐなんて、こんなちっぽけな身体で?」

ビンセは黙って遠くを見つめていた。

ガキ大将なら、ここで気の利かないシャレを飛ばしていたことだろう。

「……聞いてくれ、父上が家庭教師を雇ったんだ。人のいない部屋で、冷たい教師に見張られながら、言葉をひたすらこねくりまわして何になるんだろう。これで当分街にはでれない……」

ロートラウトはいつになく雄弁だったが、急に空虚な気分になってうなだれた。

刻々と、下町へ続く道が、閉じられようとしている。12時の鐘を惜しむシンデレラは、王子との時間を無邪気には過ごせまい。領主の娘に戻るには、ここはあまりに豊かすぎた。

釣り針は底に沈み、落ち葉の夢に隠されてしまった。

ビンセは空いた手で彼女の背中をさすり、目を閉じた。

「同じだよ。君も、僕たちも。みいんな大人になるーージャイアン、あいつ知ってる?」

ジャイアンはガキ大将の事だ。

「金具職人の方に弟子入りするらしい。あいつがだよ。皆んなもそう。あちこちに弟子入りして、金を稼いで女の人と結婚して、子供をぽこぽこつくって、おじさんになる」

「……ビンセももう決まってるの?」「うん。」

と言っても、君と違って三年後だけどね。

ほどなくして、ロートラウトの釣り針がかかった。不器用な彼女の背を、合わさるようにしてビンセが応戦する。

あたたかい熱が背中越しに光り、薄い筋肉が波立つのを感じた。

二人は盛大に尻餅をついた。

「ダメだ。もう食いちぎられている」

ビンセは釣り糸の先を見せながら、苦笑した。



しばらくして三匹の魚を釣った。そいつはビンセが引き取ることになった。二人で片付けをし、彼と別れた後、奥の茂みで石蹴りに励んでいた護衛に微笑みかけた。

「やっ、待たせたよ。それ、楽しいの?」

「ただ待つよりは有意義な時間だと思うのです」

少女はつんと唇を尖らせた。

「石は思い通りに動いてくれますゆえ」

「悪かったよ」

ロートラウトは困ったように笑い、ロミルダのやわい指先にそっと触れた。

ロミルダの手は滑らかではなかったが、みずみずしくロートラウトの手に吸いついた。

嬉しい。ロートラウトは胸が跳ねた。迷惑をかけたというのに、もう自分を受け入れようとしている。ぶっきらぼうな風貌からは想像しにくい事柄だ。

ロートラウトは、ロミルダを盗み見た。

ふいに、母に似ていると思う。

「どうかしました?」

ロミルダが怪訝そうに首を傾げた。

「なんでも……帰ろう」

ロートラウトは付き人が拒まないのを知ると、そのまま腕にもたれた。

町娘用のドレス。その布地越しに、柔らかく透き通った熱がロートラウトを誘った。


子供たちは歩き出す。蜜色に熟れた空が、屋敷に向かって伸びている。










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