ⅩⅩ.【さざなみ】
──雪風先生。
その名前の響きのせいか、頸筋がひやりとする。
人の印象は呼び名で決まる。校長先生、と皆が呼ぶうちは、彼はパブリックな存在として認識される。
しかし、ひとたび名前で呼ばれれば、得体の知れない個人となる。
瞼裏の闇に、溶けるような紅がひらめいた気がした。
「……ま、先生が生徒の個人情報をいたずらに洩らすようなことは、まさかしないだろうけど」
菫之助が、冗談、といった表情で手のひらをこちらに向ける。
「わざわざニンニンにだけ、というのも変な話だしね。あの娘がお気に入りって話も、特別聞かないから」
ナージャも面白くなさそうな顔はしているが、同意する。お気に入り、の言葉に、菫之助が気まずそうに「そのウワサ、怖いなァ。誰がお気に入りなん?」と声を小さくする。
「えーとね。有力なのは…五年の×××とか、かなあ」眞紘たちは知らない名前をあげられる。よく校長の家に呼ばれてるらしいよ、と言ってから、ナージャは手を叩く。
「そういや、最近コウイチもけっこう呼ばれてるらしいから、噂になってたよ」
「えー、そんな。あすこは医務室もあるから、僕もときどき行ってるし…体のちょっと弱い子は、みんなお気に入りってことになってしまうよ」
「ま、さすがにそれだけじゃ変な噂は立たないと思うけどね」
紅一の名前に、ここへ来るときのことを思い出す。彼自身が、明るい清廉な雰囲気を持っているからか、周りに影が落ちるのか──くるくると回る衛星のように暗い人の悪意が渦巻くのかもしれなかった。
「わたくし、ナージャにお話しするのを忘れておりましたけれど」
全員が千紘のほうを見る。唐突に話し出した彼女はやわらかく微笑んでいる。声色も微笑みと同じく可愛らしい──なのに、姿勢は凛と、目線は落ち着き払ってナージャを見据えている。
「ルゥルゥという名前は、眞紘の口を借りた“幽霊”から出たものですわ。もしもこれがオカルティックな事件でないとしたら、眞紘が寧々の本名を知っていたということを、ナージャは仰りたいのかしら」
今度は、皆の視線がナージャに移る。眞紘はぎゅっと拳を握った。
ナージャは腕を組み、舞台上から千紘の目を見つめ返していたが、不意に眞紘のほうを見て観念したように目を閉じた。
「…そうだね。認めるよ、私はマヒロを疑ってるんだ」
正直な言葉に、すっと爪先から体が冷えるが、手の強張りはかえって解けた。
「うん……まあ、僕も第三者の視点で、納得のいく説明を考えるなら……真っ先に僕の立場を疑うよ」
マジックショーでのサクラみたいなものだよね、と笑顔を作る。ナージャは髪をかきあげて「悪いね。でも、真っ先に思いついたから」と肩をすくめる。
「結局、ナージャも僕も実際、その場に居らんかったからなァ」
菫之助が取りなすように発言する。「あくまでも“謎解きゲーム”の一環として、『霊媒がサクラである』という推理は提示できるけど、実際そこにいて『霊媒』だった眞紘くんからしたら、ちょっと気分が悪いよなァ」
「犯人扱いするな──って怒るほどじゃないけれどね。
悪魔の証明というやつで、『知らなかった』ということを証明することは不可能に近いし、闇雲に主張したところで、僕も信じてもらえるとは思わないよ。でも、動機がない」
菫之助はやんわりと、だが確実に眞紘の味方をしてくれるつもりのようだ。
「眞紘くんが寧々ちゃんのお兄さんたちのふりをして、寧々ちゃんを混乱させて、何がしたかったん? そこに納得いく説明がないと」
トリック先行型の本格推理小説じゃないんだから、と、茶化した菫之助に、ナージャも罪滅ぼしのつもりか乗ってくる。「そうだよね。登場人物が、なぜそんなことをしたのかっていう説得力は演劇でも大事だ」
「そうそう。えっ? なんでそんな面倒なこと、わざわざしたの? っていう疑問は、ノイズになりうるからね」
「一体、現実に誰が、数え歌にあわせて連続殺人をしたり、密室なんていう奇想天外なトリックなんて使うんだって話だし──」
話題が意図的にずらされ、ぎこちなくも談笑の雰囲気を取り戻そうとしている時だった。
「現実だからこそ、納得いく理由がないこともありますわ」
千紘の鈴を振ったような声が、今は水面に投げ込まれる石のようだった。彼女の言葉ひとつひとつが、その場にいる者の心に不安の波風を立てさせた。
眞紘は唾を飲み込み、努めてはっきりとした口調で、千尋に向き直って言った。
「千紘は……千紘も、僕が寧々のことを知っていて、『霊媒』になったと考えているのかい?」
千紘は、今度こそ、真っすぐに眞紘の眼を見て──鏡のような瞳で言った。
「だって“幽霊”は──自分が兄弟に殺されたのだと、はっきり言ったのですから」
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