ⅩⅩⅠ.【踊り場にも幽霊は】
階段状の斜面に沿って建てられた図書館の最上階、暗い緑が途切れた崖の上に、その温室はひっそりとあった。
曇った硝子の前に立ち、眞紘は深く息をする。
霧のような憂鬱が、昨日からずっと眞紘の足にまとわりついているようだった。
千紘の言葉に、野外劇場は静まりかえった。
「──それこそ、催眠かなにかのせいだと思うがね」
ナージャが腕を組み、低い声で言った。
「双子の兄が弟に殺された──っていうのはあくまでマヒロの憶測で、暗示にかけられた眞紘が、まるでそれが事実かのように断定的な言い方をした、というだけだと、私は思うけど」
あの話を聞いて、双子の弟が兄を殺したんじゃないかと推測しない人はほとんどいないだろう──ナージャの言葉に、菫之助も小さく頷く。おそらく、彼らも同じように考えたことがあるのだろう。
千紘はそれ以上抗弁することもなく「そうかもしれませんわね」と引き下がったが、誰もその後にこの話題を広げようとはしなかった。
結局、陽が落ちてきたことを理由に、四人は少し気まずいままの解散となった。
仲良くなれそうだと思った相手とも、少しざらついた摩擦を残したままの感覚が嫌だった。昨晩も、眞紘は早々に寝床につくことで、同室の菫之助との会話を避けてしまった。
その少しの気まずさが尾を引き、今日も放課後に寮の部屋に戻りたくなくて、こうして図書館を探検しに来たのだった。
吹き抜けになった空間を囲むように何層にも分かれた回廊は、それぞれの階を、折れ曲がった細い階段が繋いでいる。柱や天井には木彫りの凝った装飾と、高く伸びる書棚の隙間からちらりとこっちを覗く天使の絵……眞紘は足を止めて、優しげだが、どこかぼんやりと掴みどころのないその天使の瞳を見上げていた。足音を吸い込む毛足の短い絨毯が敷かれた通路を歩いて、歩いて、階段を上がって、上がって、…上がる。
何かを振り切りたかったのかもしれない。
見上げると、そこが最上階らしい──予期しない、明るい光とその向こうに透けた緑が乱反射しながら目に飛び込んできた。硝子の天窓でもあるのか? 折れ曲がった階段や踊り場でよく見えないその天上に惹かれて、眞紘は階段を上りだした。
そして、そこに温室があると気がついたのだった。
鳥籠に硝子をはったような、瀟洒なデザインの温室の外装は全体的に薄曇り、紗をかけたようにぼんやりとしか見えない内部の色彩からは、今も保たれた湿気と、この温室の外では生きていけないのに、箱庭のなかで横溢する緑のいびつな精気を予感させた。その上に、少し傾いた西陽の明るい光が降り注いでいる。
──塔の上の温室。
ここを知っている気がする。
ふ、とそんな既視感を憶えた。眞紘は気が急いて、強く把手を引っ張った。しかしその瞬間、がちゃ、と思いのほか大きな音がする。
「さすがに、鍵はかかってるか」
少し気恥ずかしくて、口に出してそう呟いた。
「そうだね」
息が止まった。
自分の足の下、踊り場の影。折り返して降っていく階段の、死角になって見えない陰に、人がいる。光が遮られたそこから声がする。
かわいて嗄れた──変声期の少年にも、老人にも聴こえる声だった。
「悪い奴らが鍵を持ってるよ」
踊り場の下、折り返す階段の手すりを挟んで、影の中で相手は喋り続ける。
そのとき、眞紘の鼻腔を、灰の匂いがくすぐった。
煙草を吸っている?
腰をあげて見下ろそうとしたところで、「見るなよ」と、声が制した。
「情緒のない奴だな。君みたいな人間が、開けるなって言われた箱も開けちまうんだろうさ」
「ご、ごめん」
返事はない。細い
「“妹”は一緒じゃないんだな」
突然にそう言われて、一瞬誰のことかわからず、千紘のことだと気がついて動揺した。
「なんで、──」
「ふん。君たちのことなんて、もう学園の全員が知ってるよ」
僕じゃなくてもね、と言った後に、かちりと音がした。ライターの音だ、と気づくと同時に、もっと強い烟の匂いがたちのぼってくる。
「──二月にやってきたから?」
そう訊ねてみた。
相手はしばらく黙っていた。やがて、ため息に似た烟を吐く音とともに、低く掠れた声が返ってきた。
「“勿忘草”の奴らに言われたのか」
その声の持つ刺々しさに、咄嗟に肯定できなかった。
「あのファミリィこそ、呪われてるからな。年にひとりやふたりは、必ず居なくなりやがる」
「え?」
困惑の声がまろび出た。もともと、人数が少ないファミリィなのだとは聞いている──だが、居なくなるとは?
眞紘の反応に、今度は深いため息が聞こえた。
「なんだよ。サルヴァトーレのことも聞いてないのか」
その時だった。眞紘の真後ろからよく響く音がした。
がちゃり。
鍵の開く音だ。
咄嗟に振り返るより先に、眞紘は数段、階段を駆け降りた。どうしてそんなことをしたのかはわからない、本能的に姿を隠そうとした。首をすくめて、頭上の様子を窺う。誰が温室から出てきたのか、確かめようと注意深く見つめていると、階段を足音がふたつ分、降りてきた。どうやら生徒のようだ。
身を屈めている自分と行き合ったら、不審に思われるだろうと、少し体を起こして、今登ってきたかのように見せる。
降りてきた足音の主は、昏い蜂蜜色の睫毛を瞬かせ、驚きの声を上げた。
「あれー、何してんの、眞紘」
夢吾の暢気な声音に、肩の緊張がほどける。だが、先ほど聞いた言葉が耳に甦った。呪われたファミリィ──その言葉を追い出すように、笑顔を浮かべて答える。
「いや、ちょっと図書館を探検してたんだ。今、そこにいる彼と話してて……」
言いながら、踊り場の下を指さして覗きこむ。その途端、あれっと声が出た。
誰もいない。
夢吾も下を覗き込み、眞紘のほうへ視線を移した。
「いや…今の今まで、男の子が居たんだけど。人が来たから、どこかへ行ってしまったのかな」
「あのな、眞紘」
夢吾はぐ、とかがみ、階段に腰かけた眞紘の顔を、逆さまに覗き込んだ。
「それ、幽霊だよ。図書館の階段に出る幽霊」
「えっ」
「ここも、十何年か前に自殺した男子生徒の霊が出るって噂だぜ。眞紘、見ちゃったなー」
にやり、とチェシャ猫のような笑みを見せた夢吾の頭を、誰かが背後からすぱんと叩く。
「ふざけんのも大概にしとけよ」
眼鏡の向こうの切れ長の目があきれ半分で夢吾を見る──仁だ。彼はそのまま夢吾を追い越し、階段を降りてきた。「どうせ、俺たちみたいなサボり組の誰かだろ」
彼らが、温室にいたらしい。ふと、先ほどの言葉を思い出した──悪い奴らが鍵を持ってるよ。
夢吾も階段をおりてきて、眞紘の肩を軽く叩く。「ここさあ、俺たちの秘密基地なんだよ。今度、入ってみる?」にこ、と歯を見せて笑う。その手には、小さな鍵があった。
曖昧な返事をした眞紘は、階段を降りていく二人の背を見ていた。白いシャツの背が、階段の下の踊り場の暗がりに消えそうになった時、──思いきって口にした。
「──サルヴァトーレって誰だい?」
二人が揃って振り返る。無表情だった、二人ともが。
ふ、と──夢吾だけ、煙るような薄青い瞳で微笑んだ。
「──幽霊だよ」
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