ⅩⅧ.【異化】
「──ようこそ、演劇実験室
面食らっている眞紘たちの周囲に、あたりにいた数人の生徒たちが次々と近寄ってきて、口々に挨拶をした。男子も女子もいるが、歓迎会の日に見た、背の高い女子生徒が見あたらず、あれ、と思った。今日は不在なのだろうか。
「──びっくりした?」
背後から親しげに声をかけられ、振り返る。ブレザーを着崩したその男子学生は、ワックスで前髪を後ろに撫でつけていたが──大人びた黒い瞳と、下がった眉の温厚な印象はここ数日ですっかり馴染み深いものとなっていた。
「菫之助!」
菫之助はにこりとして、ラフなオールバックを手櫛で戻す。「僕、眞紘くんたちの真横に居ったンよ」
「全然気づかなかった──その、変わるね」
にこにこしている菫之助は、今は素行不良の学生のように、シャツの裾を出して、心なしかズボンも低めの位置で穿いている気がする。日頃、優等生そのものといった恰好をしているからか、一度彼だと気づけば──本人が演じるのをやめたのもあるだろうが──全く違う生徒を見ているようだった。
「それが舞台というものだもの」ナージャが横から口を挟む。「別人と
一方で、寧々は、ピクニックバスケットを椅子に置いて、ちいさめのクロスを広げ始めた。
テーブルの上に並べられるのは、リボンで束ねられたシュガースティックとミルク。あの夜の注射器を思い出したのも束の間、紅茶の魔法壜とクレイジー・ケーキ。チョコレートの匂いが鼻をくすぐった。差し入れ、と紙皿に盛られたケーキを差し出されたナージャが腕を広げた。
「ありがと──でも、ここでお茶会でもする気? 目の前で怒ったり、泣いたり喚いたりしてもいいなら構わないけど」
「うん。アタシ、ナージャたちの練習みるの、好きだから」
ね、二人とも、と同意を求められ、眞紘は深く頷いた。菫之助の変貌を間近で見ると、なるほど演劇というのは面白い、と改めて実感したのだった。
「邪魔にならないのなら、見ていたいな」
快く了承され、二人は寧々の用意したお茶会の席についた。
しばらく、誰かを探すようにメンバーを見渡していた寧々は、面白そうにナージャに声をかけた。
「ねえねえ、まだモニカとは喧嘩中なの?」
するとナージャは腕を組み、そっぽを向いた。
「ふん。猫と一緒さ。そのうち戻ってきたら相手してやればいい」
寧々は眞紘たちに耳打ちしてきた。「モニカは元々ナージャとおんなじ部屋のコでさ、仲良しになったり、喧嘩したり、大騒ぎの二人なんだ」
「ああ、噂には聞いてるよ。二人はいつからの付き合いなんだい?」
「えー。ナージャがここへ来たのは二年前だけど、モニカもちょうどそのくらいかな。最初に同室になって、その時はすっごく仲良かったの。でも、夏くらいに喧嘩して、やっぱりナージャが部屋を出て、しばらく口も利かなくってさ」その時はなんだかんだでナージャが謝って仲直りしたんだけど、と寧々はちらっと彼女を見た。
「モニカはね、ほんとに不安定なコなんだ。あんまりこの学校にも馴染もうとしないし、日本語も得意じゃないから、いつも独りでさ。喧嘩中でも、ナージャにはこうしてモニカの話をできるけど、モニカの前でナージャの話なんか出したら大変。モニカと話すことはそんなにないと思うけど、気をつけてね」
戸惑いながら、眞紘は頷いた。千紘も頷いたが、ふと眞紘の顔を見て「──でも、わたくしたち、あまり英会話は得意ではありませんものね」と笑いかけた。
「あれ、そうなんだ。マヒロも?」
「翻訳には興味があるし、英文学は好きなんだけど──話すとなるとね」
そう答えてから、眞紘は千紘を注視した。なぜ彼女は、自分が英語を話すことに苦手意識があると確信を持った様子で言えたのだろう?
「ま、アタシも英語が母語ってわけじゃないから、わかるけどね」
ふと、降霊会の夜の彼女の様子を思い出してどきりとする。彼女が──そして、自分が話したのは、フランス語だった。
「──あれ、どうしたの。幽霊にでも出会ったような顔しちゃってさ──」
その瞬間、目の前で、今会ったような顔をして、ナージャが男子生徒に話しかける。声色は悪戯っぽい少女じみたもので、声をかけられた男子生徒は、ひどく驚いた顔を見せた。「開演時刻」らしい。眞紘はあたりを見渡した。
どうやらこの即興劇は、三月一日に見た、体育館での劇と似た構成のようだ。この中庭のあちらこちらで、散発的にそれぞれの会話劇が演じられている。観客はその間を歩き、彼らの人生の一部を垣間見、ときどき巻き込まれる。
菫之助はまた、前髪をかき上げると芝生に腰をおろした。その途端、不貞腐れた不良少年の空気をまとって、切れ長の目の静かさが、触れたら切れそうな危うさに変わる。「彼」は、隣に歩み寄ってきた小柄な三つ編みの少女と口論を始めた。
その後ろ姿を見て、ふと三月一日のことを思い出す。自分を即興劇に巻き込んだナージャと、もうひとり。帽子を目深にかぶっていたせいで、顔はわからなかったが、おそらくは──体型から──女子生徒だったはずだ。
紅茶にいれるシュガースティックを渡すついでに、寧々に訊ねる。
「劇団のメンバーはここにいる人だけ?」
「ううん、もう何人かいるかな。でも、ここのメンバーはそもそも流動的っていうか、演目を新しくするごとに、役にあってるからって誘われたり、自分から入ったりするの…」紅茶を飲みながら、ちらりと菫之助を見た。「それこそ、キンノスケはいつもはいないよ。そのコも、前回だけ出演してたのかもね」
背の高い女の子かー、誰だろ、と寧々は首を傾げた。
「まさかとは思うけど、ジナイーダかもね」
また、ジナイーダ。
その名前を聞くと、胸がざわつく。いまだに出会ってすらいない。クラスが違うのか、学年が違うのか、それすらもわからない。ジナイーダは
「この学園は、──外国の子が多いよね」
よほど、この場でジナイーダについて訊いてしまおうかとも思ったが、同じファミリィである寧々が敢えて深く言及しないのだから、それなりに訳があるのかもしれないと思うと単刀直入には切り込めない。
はたして、寧々はこくりと頷くと、まるで薬を溶かすように紅茶に砂糖を注ぎ、淡々とかき混ぜながら話し出した。
「──マリも言ってたと思うけど、ここにはモニカみたいな子も結構いるの。つまり、心身ともに異邦人っていうか」
中庭を見ている彼女の横顔から、くるりと伸びた赤い睫毛が、陽光のもとで金色に透けている。眞紘は、向かいに座っている千紘の長い──自分の同じ色の金髪に視線をやった。千紘は黙って座って、ナージャの方を見ていた。
眞紘の視線の動きなど気にしないのか、気づいていないのか、寧々は独り言のように話し続けた。
「アタシもだけど、ここにいる子たちはみんな訳アリばっかだよ。特に、アタシたちのファミリィは余りものたちで、季節はずれの──あ、これは二月とかじゃなくって途中の学年で入ってくる子とかね──よせあつめだから、外国人とか多いの。他のファミリィはこんなんじゃないよ。ナージャのファミリィは、白人はナージャひとりだし、キンノスケのファミリィもモニカだけ。
アタシたちの“勿忘草”はね、──流れ着く場所なの」
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