ⅩⅦ.【砂糖衣の少女たち】
朝の光は白くあかるく、湿原にも遅い春がやってきていることを確かに告げていた。
降霊会の夜から三日ほど経ち、いまだに首元になにかがまといついている感覚は消えなかったが──眞紘は幾分か、気持ちが上向いて日々を過ごせそうになっていた。
授業は、基本的なカリキュラムのほかに、さまざまな内容を自由に選択して履修できる。特に、芸術科目の多様さが顕著だった。
「わたくし、ヴィオラにいたしました」
廊下で会った千紘はそう言った。
「すごいね、心得があるのかい」
「ありませんけれど、譜は読めるから」
「なるほど。僕は音楽は明るくないし、基礎コースにしておこうかな──うわ、試験に実技のソロがある。困ったな」
「あら、眞紘は歌が苦手?」
「苦手というか、うーん。人前で何か目立つことをするのはね……どちらかというと、今は絵に興味があるんだよね。千紘は美術、どうする」
「履修は後から変えられるみたいだから、水彩画にしてみようかしら」
「いいと思う。千紘は絵が好きなんだろう?」最初の日、校長の家の前で話したことを思い返す。アンリ・ル・シダネルの《離れ家》──そういえば、まだどんな絵か教えてもらっていなかった。
「好きなだけで、それほど詳しくはありませんの。でも、一度は大きな絵を描いてみたいものですわ」
にこりと笑った千紘に、眞紘も同意する。そう、大きなカンバスに、自由に絵を描いてみたい。その気持ちは眞紘も理解できた。
眞紘は悩んで、油彩画を選択した。部屋に飾られているマグリットの絵を脳裏に浮かべながら、自分もいつか、ここに絵を残したいと考えた。
なぜそんなことを?
不意によぎった思考に、疑問の矢が突き立つ。自分はこの学園に、なぜ何かを残すつもりになったのか──
「あ! 二人とも止まって、追いつくから!」
背後から、明るい声が響く。次いで、石の廊下を軽やかに駆けてくる音。
振り返った眞紘は驚き、立ち止まってしまった。声の主──寧々は、赤毛をポニーテイルにして、スカートを穿いていた。丈はびっくりするほど短くしており、長く伸びた真っ白な太腿に静脈が浮いて見えた。
「あら、寧々。もう気分はいいんですの?」
少し遅れて振り返った千紘は、驚く様子もなく寧々に微笑みかけた。
「うん、このとおりすっかり。ねえ、一限目って、二人とも国語だよね? 演劇論の課題出てたやつ。アタシ、演劇論苦手なんだー。先生と趣味があわなくってさ。そうだ、放課後、ナージャがやってるワーク・ショップ、観に行かない? あのコたちの演劇のほうが、アタシずっと好きなんだ」
少女らしい砂糖衣のマシンガン・トークに、眞紘はたじろぎながらも表には出さず「それは楽しそうだね、」と答えながら、千紘に目配せする。彼女は「わたくし、ご一緒したいですわ」と頷いた。
「やったあ。六限終わったら、中庭に集合ね。アタシ、お菓子持っていく」
一人称の変化や、制服の変化──これはひょっとしたら、彼女のその日の気分に過ぎないのかもしれないが──眞紘は、降霊会の夜のことを思い返さずにはいられなかった。
彼女もまた、憑き物が落ちた、ということなのだろうか。
放課後の中庭には、まばらではあるが生徒の姿が見られた。やはり、春が来ているからだろう。
中庭に続く階段の、枝分かれした道を行くと、テニスコートがあるらしい。テニスラケットを持った生徒たちが談笑しながら、眞紘と千尋の傍らを通りすぎて、石段を上がってくる。六限の終わりだろうか、と思った矢先、その一団の後ろのほうにいた背の高い男子生徒が振り返る。目元のほくろと、短い黒髪。紅一だった。「あ、眞紘と──」
彼の背負っていたラケットケースの柄の部分が、振り返った拍子に千紘の肩に当たった。眞紘は、咄嗟によろけた千紘を支える。
「ごめん、大丈夫だった?」
紅一が手を差しのべてくる。
「ええ。きっと雪のせいですわ」
礼儀としてその手を取り、千紘は優美に礼をする。「眞紘も、ありがとう」
「怪我なくてよかった。ごめん、またあとでね」
やはり授業終わりらしく、列の先のほうから紅一を呼ぶ声が聞こえた。ひらりと身を翻して駆け出した紅一の背を見送り、階段をおりて、中庭に入る瞬間──すれ違った少女たちが、可愛らしい声で囁きあうのが妙にはっきりと聴こえた。
「やあね。きょうだいにエスコートさせた上に、他の男に色目つかって」
「あれ、きょうだいじゃないらしいわよ。本当のところは知らないけど」
「やだー、汚らわしい」
耳を疑った。さすがに、この内容で自分たちのことではないと思えるほど楽観的ではない。つい、振り返ってしまう。
「あら、騎士に睨まれちゃった」
きゃはは、と階段の上で笑ったのは、美しく磨きあげられた、自信がありそうな娘たちだった。眞紘は訳もなくショックを受ける。こんなに綺麗な娘たちが、あんなに醜いことを?
短いスカート、長いスカート、三月の風と軽やかな足取りに揺れる裾は不気味にその隙間から蛇が目を覗かせるカーテンのように──
「失せな、蛇女ども」
低い声が響く。
濃い緑の砦の前で、ナージャが、腕を組んで立っていた。
気づくと、中庭で談笑していた生徒たちが、みなその声に会話を止め、こちらを注視していた。
「失せろって言ってんの。今から舞台の時間だ」
枯れた薔薇の茂みを背景に、彼女は独り舞台を演じているような迫力があった。
眞紘たちにひどい言葉を投げかけた少女たちは「なによ」「いやね、育ちが悪いんだから」と囁きながら、決まり悪そうに階段を早足であがっていった。
──次の瞬間、時計が巻き戻ったかのように、生徒たちが談笑を始める。心なしか、周囲の彩度が上がったような気がした。
千紘が軽く頭を下げた。
「ごめんなさいね、ナージャ」
ナージャは肩をすくめた。
「ああいう何もかもありきたりな性質しか持っていないくせに、自分は特別だと思い込みたい女っているものさ」
ありきたりって見抜かれているから王子さまが振り向いてくれないのにね──眞紘にウインクしてきたナージャの青い目にどぎまぎする。
「二人とも、もうついてたんだー。お待たせ」
背後から、明るい声が聴こえた。振り返ると、赤い巻き毛に、腕にはピクニックバスケット。短いスカートが三月の風に揺れる。
階段を一段とばしでおりてきた寧々は、眞紘と千紘、そしてナージャの前で立ち止まると、きょろきょろと中庭を見渡した。
「あれー、みんないる。もう
その瞬間、あたりで談笑していた生徒たちが、ぱたりと話をやめた。ぎょっとして、眞紘と千紘は顔を見合わせる。
中庭の中央で、ナージャは手を広げ、役者らしく華麗に一礼した。
「それでは、改めて──ようこそ、演劇実験室
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