ⅩⅥ.【草の根】
部屋に戻っても、
菫之助だけには話してしまった。夜遅くに、顔面蒼白になって帰ってきた眞紘に、菫之助は当然なにがあったか聞いたものだから、思わず言ってしまったのだった。
「──来たよ、幽霊は」
降霊会の混乱の後、寧々以外のメンバーは、校長の家に連れていかれ、あたたかい紅茶を出された。ミルクポットの白い液体に、眞紘は先ほどの注射器を思い出した。
校長は、おだやかな態度のまま、自由時間とはいえ、夜間に出歩いたことを軽く叱責した。──「八時からの自由時間は、基本的には就寝前の勉強や、寮内での行動を想定しています。談話室の使用までは結構ですが、冒険をさせるための時間ではありません」──特に夢吾や茉莉たち上級生は、編入生を連れ出し『修繕中』の部屋に入ったことを咎められた。
誰も、あの《娯楽室》の扉に、そんな札は掛かっていなかったと主張はしなかった。
出された紅茶は、薬草のような匂いがした。眞紘はそれを飲む気になれず、ひと口だけ飲んでソーサーに戻したままでいると、ちらりと校長の目がそれを追って微笑んだ。夜だというのに、やはり紅をつけたような唇をしていた。「
テーブルの上には、ミルクも用意されていたが、誰も手をつけなかった。眞紘の脳裏には、先ほどの注射器の中身が甦った──ミルクのような液体。あれは眠り薬なのだろうか?
唐突に、千紘が口を開いた。
「寧々はどちらに?」
一瞬、緊張が走る。
校長は変わらず、あの紅い唇でにこりと微笑んだ。
「ここは医務室も兼ねていますが、簡易的な診察しかできませんからね。体調を崩した生徒は、職員棟の療養室に収容します」
他の生徒をいたずらに心配させてはいけませんからね──おだやかな彼の声を聞いていると、なんだか思考がぼんやりとして、そうすべきだ、と自分自身の声でしきりに耳元で囁かれているような錯覚を起こす。ああ、魔女というのは本当かもしれないと、眞紘は手を強く握った。
このことは他言無用だと、優しい口調で釘を刺された。
「でも、もともと噂はあったよ」
給湯器が置かれた廊下から、白いティーカップをふたつ、盆に載せて菫之助が戻ってくる。
「あのコ、外国の子やろ、どう見たって。言葉だって今は達者だけど、前はもう少しヘタクソで、名前も──
目の前に、ことんとティーカップが置かれる。「ありがとう」と手に取り、口をつけると、ふわりと青くさい匂いが鼻をついて、思わずカップをソーサーに戻した。
「これ、薬草茶?」
「え? あ、ごめん、ハーブ苦手?」
菫之助が困ったように眉尻を下げる。眞紘は笑顔を作って首を振る。
「いや。たまたま校長先生のところでも、同じものを飲んだから」
「ああ。これ、食堂とか寮に葉が置いてあるンよ。先生の趣味なんやろね」
寝る前に飲むのに、珈琲も紅茶もカフェインが多すぎるから、僕はこれにしてる、と菫之助は自分のティーカップを傾けた。
「それで、噂っていうのは──つまり、彼女が幽霊話の双子と血縁だっていう?」
「ああ、そうそう。双子も、僕らが入学した頃はまだ直接本人たちを知ってる人も多かったし、赤毛に緑の目をした外国の子たちだったって、外見の詳しいことも伝わってたから。珍しい色合いだものね」
目を伏せて、菫之助はハーブティーを飲む。こちらを見ていないのはわかっているが、眞紘はつい、居心地が悪く、自分の髪に触れた。俯くと視野にかかる前髪は、淡い色をしている。
「──ここでは素性の話は
「僕たちのことも?」
菫之助は黙って微笑んだ。つい訊ねてしまった眞紘も、軽く手を振って、返事は要らないというジェスチャをする。
菫之助は、音を立てずにカップをソーサーに置く。その仕草からも、彼の育ちは窺い知れる。
「──僕だって、イントネーションでわかると思うけど、西の生まれで──そっから絞りこまれるわな、こんなトコに子どもを入れるような家で、関西といえば…って感じで」
大っぴらにできるような家柄ではないけど、と微笑む瞳の深い黒に、併せ呑んできた清濁を感じとる。彼が妙に大人びて見えるのは、この瞳のせいなのかもしれなかった。
彼は立ち上がり、カーテンを少し開けて、すっかりと闇に閉ざされた窓の外をちらりと見る。
「──まあ、これから眞紘くんたちも、いろいろ聞くと思うし、いろいろ云われると思う。でも、何にも耳を貸したらいけないよ。
ここでは、幽霊の声より、生きた人間の声のほうが怖ろしいんだから」
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