ⅩⅡ.【トゥ】
体育館の外へ出ると、雲間から、ほんの少し青空が湿原を覗き見していた。午下りの陽光こそまばゆかったが、空気はしんと冷えている。
「ナージャたちのファミリィは、あのまま体育館に集まるそうですわ」
「へえ。僕たちも、せめて室内が良かったな」
蛇行した階段を下りながら、眞紘は千紘の手をとってやる。雪ですべりやすくなった石段を注意深く踏みしめて歩いていくと、ふと、昨日すれ違った、灰色の髪の生徒を思い出した。
彼はずいぶん、身軽にこの階段を駆けていったな。
そう思ってから、おや、と思考が巡りなおす。
あの生徒は、たなびくほどに長い髪をしていたのに、どうして自分は『彼』だと確信したのだろう?
中庭につくと、寒々しい薔薇園の付近にはやはり誰もいなかった。冬薔薇のひとつでも植っていれば話は違うのかもしれないが、と、新芽がまだ固い裸の枝を見まわすが、この寒さではどのみち長居する物好きは少ないだろう、と思い直した。
「千紘、寒くないかい」
「大丈夫ですわ。コートが暖かいから」
「そう──僕は耳が冷たいな」
千紘は笑った。「男の子は、髪を短くするから耳が寒いんですわ。伸ばせばいいのに」
少し考えて、迷路は迂回した。道を覚えていなかったし、すぐに解き明かす自信もなかった。
しかし、迷路の周りを囲む薔薇が思っていたよりも枝を伸ばしていて、手の甲を擦ってしまう。まさか、本来は迷路を通らないと、野外劇場へは辿り着けない構造になっているんだろうか? そんな面倒な、と思いながらも、常緑樹の艶々とした生垣の周囲をぐるりと回りきると、ぱっと視界が開ける。
灰白色の野外劇場の前には、昨日会った四人がもう集まっていた。寧々が真っ先に手を振る。
「二人ともー、早いじゃん」
「俺たちが言えた話じゃないだろ」
夢吾が笑いながら、テーブルの上にチェックの布を敷いている。魔法瓶が三つも置かれ、積まれた紙コップや色とりどりのジャムの壜が、まるでミニチュアのおとぎの国のようだった。
温かい紅茶を注がれ、紙コップを渡される。ひと口飲むと、ジャムが入っていて甘かった。指先とお腹が暖まる。
「もうそろそろ来ると思うよ、コーイチとサラも」
袋に入ったビスケットをつまみ食いしながら、寧々が迷路を指さしたので、先ほどの疑問を訊ねてみた。
「正式な道順ではあの迷路を通らないと、ここへは来られないのかい? 迂回してみたんだけど、すごく通りにくくて」
「別に美術館でもないから、正式な道順とかはないと思うけど。でも、たぶんそうだね」元々は、もっと薔薇が植えられてて通れなかったと思う、と寧々はビスケットにジャムを塗りながら言った。そのジャムの壜には手書きのラベルに『Rose』とあった。
「ここ、二十年くらい前に大きな火事があって。その時に色々、造り直されてるらしいから」
「火事?」と、眞紘が訊ねようとしたまさにその時──二人の生徒が、迷路の出口から続けて姿を現した。赤いマフラーをした青年と、その後ろに、暗い灰色のコートを着た少女。
「コーイチとサラだ!」寧々が嬉しそうに手を振る。
昨日不在だった二人がやってきて、中庭にいるのは眞紘と千紘を含めて八人。
やはり、一人欠けている。
「改めて、紅一と沙羅を紹介するわね。二人とも仁と同級生よ」
茉莉がまとめ役らしく口火を切る。
紅一は、やはり黒い髪を健康的に切った長身の青年で、清潔そうな佇まいはどことなく仁と似て見えたが、眞紘と千紘を見るなり破顔して駆け寄ってきた。
「初めまして、俺は紅一っていうんだ。今日から五年生になる」君たちの先輩だね、と、笑う目元に泣きぼくろがある。七竈の実のような真紅のマフラーが、湿原にやってきた春の命の色彩のようだった。
後ろに立っている沙羅は、存外背が高く、南欧風のはっきりした目鼻立ちに、赤茶色の長い髪を後ろで一つに束ねていた。佇まいは地味で大人しそうだが、ナージャの時と同じように、肩や腰まわりの骨格の印象は明らかに日本人離れしていた。
「サラです」よろしくお願いします、と言いながら、軽く手を握ると、すぐに目を伏せてしまった。内気な子なんだな、と眞紘はそれ以上話を続けず、よろしく、と微笑みかけた。その時、ふと、なにか頭の隅によぎった既視感があった──なんだろう?
「沙羅は去年の三月に編入してきたの」茉莉が補足する。「話すのは得意じゃないけど、こちらの話してることはよく聞いてるし憶えてるわ。気をつけることね」
「おまけに、スポーツが得意ときてる」夢吾が目配せした。「ま、それは紅一も同じだけど」
「俺は走るのが好きなだけだよ。別に特別指導も付けてない」
「そういえば、説明してなかった気がするけど」茉莉がくるりと眞紘と千紘のほうを振り向く。
「ここでは、必修科目さえこなしていれば、空きコマに好きな授業、つまりは特別指導を取ることができるわ──本当に、なんでも」茉莉は首を傾げ「申請書類は明日あたりに配られると思うけど。よっぽどじゃなきゃ、なんだって習えるわよ。沙羅は水泳の強化選手なの。ときどき大会で居なくなるわね。紅一はこう見えて超ロマンチスト、詩が得意でね。個人レッスンで、色んな文章について勉強してるわ。最近は脚本だっけ? 校内で発行される文芸誌に載ってるけど、結構読み応えあるわよ」
「こう見えてっていうか、そうにしか見えねえだろ」
「それ、褒めてる?」
仁の言葉に、疑問符が頭の上に浮かんでいるのが見えるような表情で紅一は訊き返している。仁は「褒めても貶してもいねえよ」と冷笑した。向かいあうと、やはり似ていると感じさせる容姿の二人だが、まるきり性格は異なるようだった。
眞紘は、勇気を出して、敢えてはっきりと訊いた。
「ジナイーダって、どんな子なんだ?」
一瞬、場はしんと、水を打ったように静まり返った。
眞紘のほうを向いた紅一が、二回、瞬きをして答える。
「ジナイーダは、一年くらい前に転校してきた子だよ。そういえば、あの子も二月の終わりじゃなかったか?……」
彼の邪気のない声音に、氷が溶けたように、他のメンバーも口々に喋り出した。
「そうだった。雪が降ってたのに、コートも着ずに、独りで正門に立ってて」
「あのときも野外劇場で歓迎会をしたけど、たまたま居合わせたナージャが、ジーナって愛称で呼んだら怒ってさ。取っ組みあいになってね」
「──あれって、結局どういうことだったんだ? 親しくもないのに愛称で呼ぶなってこと?」
「いや、ナージャの
ま、ジナイーダの方が、ちょっと気難し屋ってこったな、と夢吾が軟着陸させた。
「人嫌いなのよね、要するに」
夢吾のオブラートを茉莉が破る。「私も大概だし、仁なんて、こういうところには夢吾が引っ張ってこなきゃ来もしないと思うけど。ジナイーダはもっとすごいの」
野生の獣みたい、と茉莉は呟いた。
会ったら、ひと目でわかるという菫之助の言葉を思い出す。どんな女の子なんだろう? ジナイーダ──ツルゲーネフの『初恋』に出てくる、
「──さあ、あなたたちの番よ。自己紹介にも飽きてきたかもだけど、そういう季節だと思って」
茉莉が、眞紘と千紘を順番に手で指す。二人は顔を見合わせた。千紘は微笑み、眞紘も頷く。会って二日だというのに、なんとなく彼女との呼吸が理解できていた。
「初めまして」眞紘が代表して、昨日と同じ自己紹介をする。「僕は眞紘。千紘とは、昨日初めて会ったんだ」
紅一も沙羅も、昨日のファミリィのメンバーたちと同じような驚きの反応を見せた。そろそろ慣れてきたので「不思議だよね」と微笑んで受け流す。自分だって不思議としか言えないのだから。
しかし、紅一が「やっぱり、二月に来る子は特別なのかなあ」と呟いたことで、また意識がそこへ向かってしまった。誰もが口を揃えて、二月の転入生を好奇の眼差しで捉える。その視線は蜘蛛の巣のようで、もがくほど指にまとわりつき、べたついて意識に張りつくのだ。
「そんなに二月に来たことが重要なのかい?」
「だって、『二月にやってくる者は──』」
そこまで言って、はっと紅一は口をつぐんだ。焦れったくなり、「呪われているとでもいうのか──」と眞紘が言ったのと、千紘が「『呪われている』でしょう?」と涼しい顔で言ったのは同時だった。
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