Ⅸ.【Le bénédicité】


 食堂は、古い礼拝堂を改修した建物だった。寮からは歩いて二分もかからないが、高低差が激しい道で、雨や雪の日は憂鬱になりそうだった。

 少し溶け残った雪が染みた革靴を、入り口で擦って泥を落としていると、傍らを通る在校生たちがちらちらと見てくるのがわかる。全校生徒が多い学校ではないから、転入生は目立っているだろう、とわかっていても少し気まずかった。

 天井がアーチ状に丸く、高く、元は祈りの空間であった場所は、今はたくさんの長机と椅子が並び、紺色の制服を着た生徒たちが枝にみっしりと群れた小鳥たちのようにざわめいている。その光景は壮観だった。

「先に席をとっておいたほうがええけど、まあ、座れないってことはないよ」

 菫之助に言われ、あたりを見回すと、入り口に近いところに千紘の姿を見かけた。やはりナージャと腕を絡ませており、他にも何人かの女子生徒─男子もいる─と楽しげに会話している。

 ちょっとこちらを見た千紘と目があい、片手をあげて無言で挨拶をする。にっこりと微笑まれ、少しどぎまぎした──彼女が魅力的だからではなく、自分とよく似ているから。

 笑うと、丸みを帯びた頬がもちあがり、アーモンド型の眼が上弦の月になる。前歯が少し見えるのも同じだった。

 千紘たちが先に並んだ列に、トレイを持って自分たちも並ぶ。メニューは決まっているが、食べるか食べないかは選べるようだった。最初こそ並ぶか、すぐに皆、自分の取りたい料理の前に行く。さて、どれを食べようかと見回すと、メニューは存外、家庭的だった。南瓜のポタージュとサラダをとり、メインらしい素朴なポトフを器に注いでいると、隣にやってきた千紘が「わたくしにもくださらない?」と器を差し出してきたので、「ああ」と注いでやる。そのとき、後ろからくすくすと笑い声が聞こえて、最初は何も思わなかったが「子供じゃないんだから」と聞こえ、すっと頸筋が冷えた。

 小さくとも、割れた氷柱のように鋭い悪意だった。千紘は、なにも聞こえていないように──本当に聞いていなかったのかもしれないが──「ありがとう、眞紘」と鈴を転がすような声で礼を言った。

「千紘は──ナージャと食べるのかい?」

「ええ。彼女、演劇のサークルを主催していて、そこのお友達を紹介してくださるそうなの」

 素敵だね、と返しながら思案する。さすがに、そこに同席するのは気が引けた。素直に菫之助と座ればいいか、と、千紘にまたあとでと声をかけて立ち去った。

 果物コーナーで、菫之助は、丸ごと並べられている小さな林檎をひとつ取った。眞紘も迷ったが、綺麗に切り分けられた梨や林檎も隣に置かれていたので、そちらから何切れか皿に取った。

 千紘が、ナージャと一緒に何人かの女子生徒と話しながら歩いていくのを見送り、眞紘と菫之助は別のテーブルを探し始めた。

「ねえ、菫之助は、ナージャと同じファミリィじゃないのかい?」

「違うよ。僕は、モニカちゃんと同じトコ」

 ええと、とその名前を思い出そうとしたとき、ぱっと視界に印象的な光景が飛び込んできた。

 切り揃えられたショートカットに、金の環のピアス。パンツ・スタイルの制服のすらりとした女子生徒は先ほど会った茉莉だ。果物コーナーに入ってきた彼女は、真っ赤に熟れた林檎をひとつ、向かいに立つ少女に手渡していた。

 後ろ姿でも、目を惹く少女だった。頸が長く、頭は小さい。セシル・カットにした黒髪は繊細な巻き毛で、後ろからでも小さな耳朶が見える。あまりにも細くて長い手脚は、バレリーナのようだった。華のない制服より、冬の鳥のように膨らんだチュチュがよく似合いそうだ。

 それとなく見ていると、隣の菫之助がその視線を辿り、対象が誰なのか気がついたらしい。そ、と耳打ちしてきた。

「あれが、モニカちゃん。ナージャの元ルームメイト」

 そのとき、急に振り返った彼女と目があった。想像に違わず、ぱっちりとした青い目に、小さな鼻と唇が上手に誂えられている顔も可愛らしい。その仕草で、茉莉も眞紘たちに気がついたらしい。挨拶をしようとしたら、モニカの方は、ふい、とそっぽを向き、どこかへ行ってしまった。

「あ。モニカったら……」

 茉莉は肩をすくめた。「彼女、個人主義なの」

「ナージャの元ルームメイトなんだってね」

「そう。ナージャから聞いたのね。あの二人、面倒くさいのよ。付き合いたての恋人みたいにべたついていたと思ったら、恋敵みたいに罵りあって目もあわさなくなったりして。何かと苛烈」

「なるほど……」

 話し終えた茉莉は、慣れた様子で狭いテーブルの隙間を縫って歩き、空いている一角にさっさと腰をおろした。そのテーブルにはまだ空いた席が多く、あそこに座ろうかと近づいたところで、はたと気づく。

 金の環のピアスと同じ、金色の髪。茉莉の斜向かいに座った見覚えのある姿に、眞紘は「夢吾!」と声をかけた。

 夢吾は顔を上げ、歯を見せて笑った。「おー、さっきぶり」

 菫之助が少し身を屈めて、茉莉に話しかける。

「ここ、僕らも座っていい? 茉莉ちゃん」

「どうぞ」

 頷いた茉莉は胡桃の入ったパンをちぎり、ポトフにつけて食べ始める。

 向かい合って座ると、菫之助は茉莉のひとつあけて隣に、眞紘は夢吾の隣に腰かけることになる。

「どうして夢吾くんと向かいに座らないの、茉莉ちゃん?」

「顔をあげるたびに目を合わせたいほど、この男と仲がいいわけじゃないからよ」

「俺が先に座ってたのに、後から来たのは茉莉だろ」

「あなたが独りでパンを齧っていて、哀れに思ったからよ。そういえば、仁は?」

「あー。なんか、帰省してた奴らが戻ってきて騒がしくなるから来たくないって」

「これからしばらくずっと騒がしいだろうけど、夏休みまで来ないつもりかしら。彼、これ以上痩せたらハリガネムシよね」

「せめてナナフシとかにしてやれよ」夢吾はパンを大きな一口で食べきると、ちらりと茉莉を見る。「そっちこそ、ジナイーダは一体どこにいるわけ?」

「私に訊いてどうするのよ。あの子、部屋にだってほとんど居ないんだから」

 その名前を聞いて、眞紘はポトフを掬う匙を止めた。そういえば、ファミリィが集っていたとき、茉莉が挙げたその名前が気に掛かっていたのだった。──ジナイーダは最初からくるわけないわね。

「ジナイーダっていう子は、あまり誰かといるのが好きじゃないのかい?」

 茉莉と夢吾は顔を見合わせた。ざわめきが、一瞬間に入り込む。

 少し間があって、夢吾のほうが先に口を開いた。

「人といるのが好きじゃないというか……そういう話でもないというか……」

 夢吾はそこで言葉が出てこなくなったらしく、首を捻る。

「ちょっと、会ったことのないタイプよね」

 何事にも歯切れのよい茉莉も、表現する方法を考えあぐねているようだった。

 丁寧にパンを千切っていた菫之助が、ゆっくり顔をあげる。黒目がちな瞳は、穏やかに笑んでいた。

「会ったら、ひと目でわかると思うよ」

 なんとなく、そこで会話を一区切りつけられてしまったような気がして、眞紘はそれ以上深追いしないことにした──今は。また、誰かに聞く機会もあるだろう。

「おいしい? 眞紘くん」

「ああ、うん」サラダを飲み込み、頷く。本心からおいしいと感じた。舌鼓を打つような美食でこそないが、あたたかく、丁寧に調理されている。「なんていうか…料理上手な身内が出してくれる家庭料理って感じがするな」

 丸ごとの林檎をじかに齧って、夢吾はぼやいた。「でも、男子高校生的には足りないよな、普通に」

「あなたは燃費が悪すぎると思うけどね。クリスマス休暇に、食堂ここに置いてある軽食用のパン、食べ切って怒られたのあなたでしょ」

「あれは俺が一人で罪を背負っただけで、共犯者はいたんだよ」

 弁明する夢吾を冷たい目で見ながら「私、サンドイッチでも作ろうかと思って、三時くらいにここに来たのよ。そうしたら籠が空っぽじゃない。あの日の夕方は空腹が身にこたえたわね。食べ物の恨みは深いのよ」

「いや確かに俺も食べたよ。すみませんそれは。でもさ、実はあの時、……」

 ふと、断ち切れたように夢吾は黙った。青い目は一瞬、空を見つめたまま、真顔で唇を閉じる。眞紘はぎょっとして、ぜんまいが切れた人形のような彼を見たが─まるで、ノイズが走った古い映画が、また何事もなく動き出すように、夢吾はにこりと笑顔に戻った。

「……仕方ないなあ。じゃあ茉莉へのお詫びとして、今度、俺がこさえた特製サンドイッチと苺水のピクニックにご招待します」

「どうせそれ、くすねた職員用のワインでしょ。危ない橋はいやよ」

 茉莉が冷たくそう言い放つと、夢吾はぎょっと周りを見渡して「声がでかいよ、先生がいたらどうすんのさ」と声をひそめる。

「校長ならあそこにいるわよ」

 フォークを切った林檎に突き立てながら、茉莉は躊躇いなく腕を伸ばして指した。

 ひと目見たら忘れられない、街灯めいた長身が、赤と黒をまとって立っている。周りを生徒たちが取り囲み、彼女たちの眼差しはみな憧れのそれであった。なぜ、今まで意識に入らなかったのだろう? 眞紘が驚いて注視すると、校長が側に立っているテーブルに、千紘とナージャたちが座っているのが見えた。

 丁度そのとき、彼女たちに挨拶をして、校長がこちらへ歩いてきた。

「うわっ、見つかった」

 夢吾が首を縮める。茉莉は冷静に「そのでかい図体で隠れるのは無理よ」と言い、近づいてきた校長の顔を見るために視線をあげた。眞紘と菫之助も同じようにする──首が大変だ。

 校長は、ドレスコートを脱いでいて、深紅のスカートに合わせた黒絹のジャケットを羽織っていた。赤い手袋こそ外していたが、目を惹く佇まいなのに違いはない。しかも、ただでさえ背が高いのに、さらに踵が高い靴を履いている。

「ご機嫌よう、“勿忘草”の皆さん」

 低く、鼓膜を甘ったるく震わす声はざわめきの中でも不思議とよく聴こえた。眞紘は困惑の声をあげる。「勿忘草?」

「ファミリィの花…紋章みたいなものよ。私も忘れてたけど」

 率直な茉莉の物言いに、校長は微笑んだまま、軽く眉を下げた。「Forget-me-notと言い残した騎士は泣きますよ」

「ああいう女々しい男、嫌いなんです」

 さらりと言い、茉莉は林檎の艶々した紅の果皮にフォークを突き立て、不意に校長の姿に目をやった。「先生、紅がお似合いですね」

「おや、ありがとうございます」

 微笑んで会釈した校長の耳元で、真紅の石が光った。

「千紘も、眞紘も、ファミリィには馴染めたようで、何よりです。なにか困っていることはありますか?」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

 微笑んでいる表情を見ていると、なんだか強い酒精アルコールの香水を嗅いでいるような気分になってくる。目の奥がくらくらとして、居心地が悪いような、もっと見ていたいような、奇妙な感覚だった。

 気圧されているのだろうか? それとも、魅了?

「あなたがたは二月の転入生。明日から始まる新しい三月の王国で、あなたがたはきっと色んなことを見聞きして学ぶでしょう」

 はい、と操られたように口が勝手に返事をする。座ったままで校長を見上げていると、その長身が影のように広がり、こちらに覆い被さってくるようにすら感じられる。あまりにも大きなその手が持っている紅茶のカップが縮んでいくように思えて、遠近感や現実感が少しずつ狂っていく目眩のなかで、影は完璧な優しい笑みを浮かべていた。

「なにかあったら、私でなくとも、気軽に誰かに相談してくださいね。では、体に気をつけて」



「校長先生って、背が高いよね」

 あまり言及するものではないかと思いつつも、言わずにはいられなかった。「僕が今まで会ったことがあるなかで、一番かも」

「ああ……確かに」俺より高いしな、と頷いた夢吾も、一八〇センチは超えているだろう。茉莉が、デザートの林檎を食べる手を止める。

「眞紘、もしかして気づいてないの?」

「何に?」

「あの人は男よ」

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