Ⅵ.【中庭の迷宮】


 ひと通り寮の設備を説明され、制服に袖を通した。まだ、肩口や襟のあたりが固く、動きづらいのが新鮮だった。シャツに腕を通すとき、ほのかにライラックの匂いがした。

「歯ブラシとか、基本的に必要なものは支給されるんだけど、個別に欲しいものは紙に書いて申請するんだ。眞紘くんは、整髪料とか、こだわりある?」

「いや、そういうのはないよ」

「そんならいいかな。女の子だと、シャンプーとか、化粧水とか、いろいろ入り用だって聞くから」

「女の子って大変なんだな」

「まあね。僕、お腹弱いんだけど、薬もいちいち申請しないと診察を受けられなくって面倒」

「そうだ──ここ、医務室とかはどこにあるんだい? 体調を崩す子もいるだろう」

 菫之助は二度瞬きをすると、ああ、と頷いた。

「校長先生、医師免許持っとるから。風邪引いたら、あすこの家に行くンよ」

 驚いて、目を瞠ったまま黙ってしまった。あの若さで校長というのも驚きなのに、医師免許を持っているなんて? 一体、どんな人生を送ってきているんだろう。

「もうちょっと軽い怪我とか、頭痛くらいなら、寮監の先生に伝えればお薬とか絆創膏はくれるよ。……そろそろ、『ファミリィ』ンとこに行く時間かな。出られる?」

 時計を見て、菫之助がそう訊いてきたので頷いた。ファミリィと彼らが呼ぶものが具体的になんなのかはわからないが、察しはつく。

 ランドリーの位置などを教えてもらいながら寮を出ると、ちょうど坂の上の女子寮の玄関扉から、覚えのある少女の姿と、知らない少女がその肩に腕に回して出てきた。

「千紘?」

 声を少し張り上げると、千紘はこちらに微笑みかけた。

「あら、眞紘。『ファミリィ』のところへ案内してもらいますの?」

 眞紘は頷きながら、千紘の肩に、親友じみた馴れ馴れしさで腕を回している少女に目を向けた。

 大きく波打つ黒い髪ブルネットがかかる額から鼻梁、頰にかけて、はっとするほど色が白く、深い眼窩からこちらを真っすぐに捉える瞳は青かった。千紘と同じくらいの背丈だが、短く穿いたスカートの腰回りや、ネクタイが結ばれた胸元は肉感的な重みがある。

「チヒロ、この子が君の言ってた『鏡の国の双子』?」

 ジャズ・シンガーのような、少し掠れた声で彼女は千紘に訊ねた。千紘が頷くと、青い瞳は眞紘の頭から爪先までを見たあと、一息に話し始めた。

「私はナージャ。今日からこの娘の同室になるのさ。とは言っても先客というわけじゃない、私も本日二月の終わり、今まで住んでいた部屋を飛び出してきたのさ、音楽性ならぬ人間性の不一致という奴でね──全く、繊細さを免罪符みたいに振り翳す神経症気取りの女にはうんざりだ──」

 立板に水と捲し立てる勢いにすっかり眞紘が固まっていると、菫之助が半歩進み出てやわらかく受けた。「ナージャ、ずいぶんカリカリしてるね。そんなにモニカと揉めたの」

「揉めたどころか。あの、私と同室を続けるならカウンセリングにかかるとまで言い出したよ。そんなのこっちの台詞さ──おっと、驚かせたね」

 ナージャと呼ばれた少女は、眞紘に視線をやって瞬きをした。カールした睫毛が鳥の羽のように上下する──もう『女の人』って感じがする子だ、と眞紘は如才なく彼女に微笑みかけながら、こっそり思った。

「僕は眞紘。その…千紘とは、きょうだいじゃないんだ。信じてもらえないかもしれないけど」

「それ、聞いたよ。本当かい? 知らないだけで、生き別れの双子だったりしないの」

「はは、僕もそんな気がしてきた」

「感動の再会かもしれないところ悪いけど、私は今日から君の双子の妹─姉かな?─と同じ部屋で、ぜひ仲良くなりたいんだよ。チヒロもいいって言ってるし、構わないよね?」

「わたくし、ナージャみたいなエネルギッシュな方とお話しできて楽しいですわ。きっと楽しい毎日になりそう」

「私もひと目でチヒロを気に入っちゃったな。任してよ、毎晩、刺激的な話をしてあげるよ」

 そう言うと、なんとナージャは千紘の頰にキスをした。

 眞紘が面食らっていると、ナージャは流し目をくれて「じゃ、後ほど。──ファミリィのとこに行くんでしょ。チヒロと君は同じファミリィだから、キンノスケに案内してもらうといいよ」と手を振って、千紘から離れた。

「あら。ナージャともう少し歩きたいですわ」

「なに? 嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 ナージャは千紘に微笑みかけるが、すぐにその笑顔を消して、古い洋画に出てくるような冷たい表情を浮かべると「でも、前の部屋から荷物をとってこないといけないんだよね。あの神経症の娘相手にもう一戦してこなきゃあ」

 それじゃ、と手を振りながらくるりと背を向ける仕草に華がある。千紘も控えめに手を振りながら「ご武運をお祈りしていますわね」と返していた。

 菫之助は、歩きながらサッと眞紘に耳打ちしてきた。

「びっくりした?

 ここの女の子たちは、まあ個人の性格もあるけど──自分をしっかり持ってる人たちが多いから、けっこう灰汁も強いんだよ」

「うん。でも、僕は自分をしっかり持っている女性は素敵だと思うから……ナージャ……ナジェージダの愛称かな」

 ゲルマン系でもラテン系でもない、少し独特の面立ちを思い返しながら、そう呟いた眞紘のほうを、菫之助が立ち止まって、じいっと見つめた。

「──眞紘くん。そういうのはね、だめ。分かっていても、口にしちゃ」

「あ……そうだった。ごめん」

 詮索するつもりはないよ、と謝れば、菫之助はさらに眉尻を下げて「ま、ナージャはけっこうオープンに話してくれる方だけど……そうじゃないコも居るから」と、弧を描く唇な人差し指をあてた。

 蛇行した坂を、丘の斜面に沿って歩いていけば、少し開けた場所に出る。芝生が敷かれ、整然とした幾何学庭園を形作ると思しき、剪られた薔薇の生垣はまた寒々しい裸の枝だが、季節がやってくれば、緑豊かな空間になるだろう。

「ここでよかったはず。えっと、君たちのファミリィは……」菫之助はきょろきょろとあたりを見回した。「ここらじゃないのかな。迷路の方かしらん」

 言いながら、生垣の間へ分け入る。胸元より少し下くらいの薔薇の生垣は、硬い緑と薄紅に色づいて、芽吹いていた。

「ここが中庭ですのね」

 千紘は薔薇の新芽に目を落として、軽く指で触れた。眞紘は思わずその指を止めようとしてしまう。気をつけて、棘が刺さったら──

 そこまで口から出掛かり、はたと我に帰る。自分は何を夢みがちなことを言おうとしていたのだろう。お伽話からの連想だろうか? それにしては、妙に切迫した危機感があったような──

「今は人が少ないね。もう少し暖かくなったら、人気のスポットなんだけど」

 菫之助の声にはっとした。千紘はあたりを見渡して、眞紘のほうを向いてにっこり笑う。

「薔薇咲くのが今から楽しみですわね」

「うん。ちょっとした薔薇園になりそうだ──薔薇以外もあるんだろうけど」

「ね。いろんな花が咲き揃うと、本当に奇麗なんよ──その時期には必ずパーティーをやるから、楽しみにしとって。もっと夏が近くなると、野点とか、生きているリビングチェスとか、色んな催しもやるね」

 ガーデン・パーティーに合わせて、あそこの劇場で野外でコンサートを開いたりもするンよ──おっとりとした口調で、生垣の向こう側に見える灰白の石造りの柱を指さす。その少し手前には、こんもりと、この季節だというのに深い緑を保った、前衛芸術作品のような奇妙な立体が存在していた。

「あれは?」

「あれがね、迷路。あ。さては、君たちのファミリィはあン中かな──」

 そう独りごちると、菫之助は当たり前のようにその迷路に向かって歩き出した。そのまま、一見緑に埋もれて見えにくい、角の入り口から入っていってしまう。眞紘は千紘と顔を見合わせ、後を追いかける。

 ちょうど、眞紘たちくらいの背丈があると、向こう側が見えるか見えないか…微妙な高さに調節された入り口付近から、塔のように、迷路の中心部を構成する常緑低木の背丈は高くなっていく。進んでいくと、ひやりと、温度が下がっていくような心地がした。

 菫之助は、左手で生垣の葉に触れながら、二人の少し先を歩いている。彼が角を曲がるたびに、自分たちが後を追って曲がった先に彼がいなかったらどうしようという微かな杞憂のなかで、迷路を進んでいく。くらり、と眩暈がした──地面を踏みしめているのに、不安のせいか、浮遊感に襲われる。それを拭い去りたくて、目の前の背中に声をかけた。

「ねえ、菫之助。僕たちのファミリィがこの中に? というより、そもそも、ファミリィというのは、ここの生徒たちのことなんだよね」

「うん。ファミリィ言うンは、つまり、ええと…学年とか部活とか、取ってる授業に関係なく組まれた班で、だいたいひとグループに十二人かな。本当は各学年から二人ずつ、って感じなんだけど、ウチは毎年新入生の数にムラがあるし、転校も多いから、けっこう学年ごとの人数は適当」

「小学校の縦割り班みたいなものかな」

「あー、近いね。ここは特殊なところだし、友達もつくらずふさぎ込んでしまうコも多いから、半ば強制的に知り合いをつくらせる作戦ってとこかな。実際、わりと役に立ってると思うよ。先輩たちに困ったことを相談したり、後輩を助けてあげたりね……」

 迷路の壁が、おそらくは二メートルを超えたあたり……あの長身の校長ですら、向こう側を見ることはできないだろうと思える高さに達したあたりで、突然視界が開けた。

 目の前には半円形の野外劇場。その手前、灰白の石が敷き詰められたスペースがあり、そこには椅子とテーブルが並べられていた。

 そこには、四人の生徒が座っていた。

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