Ⅴ.【人の子】


 校長の家を出ると、寒空の下、空っぽのトランクの軽さが余計に心細くなった。あたりを取り囲む冬の木立の色彩はずしりと重く、コートの襟元をつかみ、隣の千紘の様子を見た。彼女はなぜか、なにかを探すような、ぼうっとしたような、奇妙な眼差しで、遠くを見ていた──揺れる瞳。それは昼間だというのに暗がりに沈む、樹木の陰をさまよっていた。今までの彼女の振る舞いからは、少し意外ともとれる様子が、眞紘は気にかかった。

「足元に気をつけて。ここから寮までは一本道ですが、階段は古い時代のものだから」

 先ほど登ってきたのとは別方向に伸びた石段を、さらに登っていくらしかった。

 方向感覚を失わせるような、蛇行した石段。木々の隙間から見える幾つかの建物を結んでいるのだろうが、一本道と聞かされていても、どこかへ迷い込んでいってしまうのではないか、という不安が拭いきれなかった。

 切り立った岩肌が露出したところを曲がったとき、北風のように、一人の生徒とすれ違った。

 深い紺色のブレザーに、暗い赤のネクタイ。上着と同じ色のスラックスを穿いた脚は、羚羊のように鋭く、階段を二段ほど飛ばしながら駆け降りていった。

 その横顔を隠すかのように、たてがみめいてたなびいていたのは灰色の長い髪。外国人の生徒だろうか。

 振り返ってその背を目で追おうとしたら、蛇行した階段の先に、既に姿はなかった。黒々とした冬枯れの茂みと、岩肌と木立の向こうに見える、灰色の湿原。それだけだった。

 幽霊?

 そんなことを考え、まさか、と前を向く。単に死角が多いのだろう、と自己解決する。ふと隣に目をやって、また身が強張った。

 千紘は、先ほどまでの虚ろな視線とはうってかわって、真っ直ぐに前を見て微笑んでいた。肌寒い空気のなかで少し赤くなった小さな鼻や、貝殻のような耳朶にくらべて、頰は微かに紅潮すらして見えた。

 校長は、黒いコートの裾からわずかに覗く深紅をひらめかせ、こちらを振り返ることなく階段を登っていく。

「──制服と必要な物品は、寮の部屋に用意してあります。ランドリーや簡単なキッチンもあるので、各自節度を守って使用すること」

 寮は二人部屋なのだと聞かされた。少し緊張する──先客とうまくやれるだろうか?

 男子寮と女子寮は、坂の途中に背中合わせに建てられており、間には針葉樹が植えられて目隠しになっていた。女子寮が上で、男子寮が下にあり、男子寮の方が少しだけ校舎から遠い。

 二つのよく似た石造りの建築は、校長の家と似て比較的新しいものらしく、やはり同じように玄関扉の上に燈りがひとつ。

 その真下に、おそらくは葡萄の葉の紋章が、鈍い銅色に光っていた。彫刻された文字を読もうと目を凝らしたが、すぐに、千紘に入り口で待っているように言い、校長が建物に入っていってしまう。慌てて「またあとで」と千紘に声をかけて、あとを追いかけた。

 入ってすぐに伸びている廊下は長く、靴は脱がないらしかった。壁紙はウィリアム・モリス風のデザイン。両側の壁に向かい合う形で扉が並んでいた。番号のほかに、鳥のレリーフが施された、凝った金属板が飾られている。

 『13』と書かれた金属板の扉の前で、校長は立ち止まった。

 そのとき、焦茶の扉が内側から開かれた。

「あ。校長先生、こんにちは」

「こんにちは、ちょうどあなたを呼ぼうと思っていたところでしたよ。彼があなたのルームメイトです。あとは頼んで構いませんね」

「ハイ。部屋の説明して、『ファミリィ』のところに連れていけばいいんですよね?」

 眞紘と同じくらいの背丈の男子生徒は、慣れたように校長と話している。ブレザーはやはり深い紺、…室内では黒にすら見える。青みがかって黒い髪に、黒い瞳。切れ上がった眦とは対照的に下がった眉尻が、人の良さそうな印象を与えていた。

「──編入生のコ、だよね」

 校長が去ったあと、にこやかに片手を差し出され、慣れたその仕草に眞紘は少し緊張しながら手を握った。

「うん。今日からよろしく。僕は眞紘、……その、一緒にきた子は、千紘っていう女の子なんだけど」

「へえ、名前が似てるね」

 顔も似てる、とは言い出さず(どうせ、顔を合わせたら一目でわかるのだ)、「双子でも、きょうだいでもないよ」とだけ伝えておいた。

「僕は菫之助きんのすけ。すみれって字ィ書いて、キンって読ませるんよ」

「ああ、星菫派とかの……」

 やわらかな、独特の抑揚に頷きながら返すと、彼は目を細めて「そうそう」と首を縦に振った。

「眞紘くんは、本が好きなん?」

「趣味で少し読むかな。小説や、詩集ばかりだけれど」

「ええね。僕もいっしょ」

 女性的な雰囲気のある菫之助のイントネーションに、眞紘は少しほっとした。まるで異国に迷い込んでしまったようなこの学園で、彼の持つ日本的な要素は舫い綱のようだ。出身を聞こうとして、校長から伝えられたルールを思い出し、押しとどめる。代わりに、話題を探して目線を部屋の内装に向けると、装飾品の類いはほとんどない室内で、ベッドの頭側の壁にだけ、絵が掛けられていることに気がついた。

「この絵は……」

 訊ねると、菫之助もベッドに一歩近づく。

「どの寮でも、ベッドのところに必ず、絵が掛けられててね。別な絵に変えてもらうこともできる。僕はこれ」

 指さすほうを見ると、彼の枕元にも、簡素な額に入れられた絵が飾られていた。

 匂い立つような闇の中にぽつんと、真っ赤なさくらんぼが浮かび上がっている。重力に従って落ちていく連続した赤の姿。

「これ、銅版画。浜口陽三っていう作家のなんだけど、黒が深くって、好きなンよ」

 へえ、と声が漏れた。知らなかったが、いい絵だと思った。だが、黒の深さに、知らずにこくりと呼吸を飲み込んだ。

 自分のベッドの方へ歩み寄り、近くで絵を見る。マグリットだ。絵画に明るくない人でも見たことがあるだろう、有名な作品。顔が青林檎によって隠された男。

「この絵は、前にこの部屋を使っていた人の?」

「いや。人が出ていくと、寮の部屋は一新される。壁紙もシーツも替えられて、残るのは骨組みばかり。君の前の人の絵はね──」

 思い出すために遠くを見る彼の目は、瞼の影が滲んで、真っ黒に見えた。

「ベックリンの『死の島』、だったよ」

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