Ⅳ.【アリスはふたり】


 狼狽した。いつの間に? 空っぽのトランクは空洞を見せつけてくるばかりだ。眞紘の表情に、千紘もトランクを覗きこみ「あら」と声を漏らした。彼女自身のトランクの留め金を外し、中を確かめる素振りを見せると、眼を丸くした。「──わたくしも」

 校長らしい人物は、落ち着き払った態度で、二人の顔を見下ろした。「駅か、列車の中でしょう。運転手はここに勤めていますから、盗んだところですぐに捕まることくらいわかっているはず」

 話しながら、廊下の先にある木製の扉を手で示した。応接室らしい、落ち着いているが、磨かれたドアノブは葡萄の葉の彫刻が施されたものだった。

 室内は暖かかった。葡萄酒色のソファに、薔薇の刺繍がされたクッションが置かれている。大きな机と壁一面の本棚が目に入り、普段なら背表紙に目を走らせるところだったが、眞紘はそんな余裕を失っていた。

 校長は、机に置かれた電話の方へ歩み寄る。淡いピンクの、ダイヤル式のものだった。

「何が入っていましたか?」

 訊ねられ、自分で詰めた荷物の中身を思い返す。

「その──着替えと、歯ブラシとか、身支度の道具と、本です」

「本のタイトルは?」

「……『不思議の国のアリス』」

 訊かれるのは当然と理解していたが、どうしてか自分の秘密にしていたことを暴かれたような居心地の悪さがあった。「矢川澄子が翻訳したヴァージョンです」と付け加えた。

「わたくしも、着替えと、櫛と、化粧水と、その他素敵なもの──つまり、女の子に必要なものと、本ですわ」

 千紘は、櫛など要らなさそうな髪を揺らして首を傾げ、「タイトルは──」と続けた。

「『鏡の国のアリス』」

 ぞっとして、思わず半歩後ずさった。踵がソファに当たる。千紘は微笑んでいる。眞紘と同じ、薔薇色の瞳で。

「……はい、駅員に伝えておきますね。この手の盗難は、金目のものだけを奪って、残りは捨て置いておくことが多いのですよ」

 どきどきと、不穏に波うつ胸を押さえながら、眞紘は校長の話を聴き流していた。高価な服や日用品など入れていない。本も、最近発売された文庫本だ。盗難事件というより、この状況そのものに当惑していた。

「眞紘は、不思議の国のアリスがお好き?」

 先にソファに腰掛けた千紘に話しかけられ、彼女への疑惑の念をなんとか押し隠しながら答える。

「その──翻訳に興味があるんだ。外国語の詩や言葉遊びを、どうやって翻訳するのか気になって、いろいろな翻訳家のヴァージョンを読み比べてる」

「あら、素敵ね。あなたも翻訳をなさるの?」

「僕はまだ、……それに、英語はそこまで得意じゃないんだ」

「ご謙遜だと思っておきますわ」

 電話を終えた校長が、二人の方へ戻ってきた。「災難でしたね。──どうぞ、おかけになってください」

 そう言いながら、校長自身もソファに腰掛けると、ドレスコートの下には、足首まで隠す長い深紅のスカートを穿いていることがわかった。

 こうして面と向かうと、校長という立場のわりに、随分と若いように思える。四十路そこそこに見える。はっきりとした目鼻立ちをしているが、艶っぽい切れ長の垂れ目や、薄く微笑みをたたえている唇の形は、日本の美人画の雰囲気も持っている。癖のある黒髪を短くして、あらわになっている耳には小さな赤い宝石のピアスが光っていた。

「申し遅れました。私は本学の校長を務めております、雪風ゆきかぜといいます。ここのルールでは──ファースト・ネームしか名乗ってはいけないことになっていますので、あなた方もそのつもりで」

 にこりと笑った唇の合わせ目から椿のような赤色が滲んでいた。口紅だとしたら、まるで水彩画のように塗られた、手の込んだ化粧だ。役者のような堂々とした笑みに、奇妙なルールに対する疑問も思わず飲み込んでしまう。

 列車内で、自分が苗字を名乗るのを止めた千紘のことを思い出した。彼女は、あらかじめこのルールを知っていたのだろう。それにしても、学校に着く前から…というのは徹底しすぎな気もするが。

「この学園に入るにあたって、大きなルールは三つ。

 一、不可侵。苗字ファミリーネームを始め、お互いの素性には触れないこと。誰にだって秘密はありますからね。

 二、自律。私たち教員は、あなた方の自由な意思を尊重します。しかし、自由には常に責任が伴います。そのつもりで行動すること。

 三、奮励。ここは確かに特殊な環境ですが、停滞してはなりません。向上心を持って互いに切磋琢磨すること。学びたければ、我々教員は協力を惜しみませんよ」

 おだやかで、優しい口調であったが、有無を言わさない迫力があった。

「他の生徒に紹介する前に、まずはあなたがたの、寮のお部屋に案内しましょうか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る