Ⅲ.【青の丘】


 駅舎は無人だった。石畳のロータリーに、迎えの車が来ているはずだったが、溶け残った雪が見える道路の向こうのほうまで、人っこ一人見あたらない。

「ねえ、眞紘」

 コートの内ポケットを探りながら、千紘が親しげに名前を呼んできたので、どきまぎしながら眞紘は顔を向けた。「なんだい」

「わたくし、オペラグラスを無くしてしまったわ。大切なものなのに」

 千紘は、濃紺のコートの内から小さなポシェットを引き出して、その中を探っている。折り畳んだ地図や入学書類、小さな財布などが出てくるのを見て、またも眞紘は居心地が悪くなった。自分も、まったく同じように、小さな鞄を身につけて貴重品を入れておいたからだった。コートの上からそれがわかるはずもなかったが、襟元を寄せてしまった。

「でも、列車の中では何も取り出していなかったよ。トランクの中じゃないかい──あ、車が」

 黒い車が、静かにロータリーへ滑り込んできた。

 運転席から降りてきた初老の運転手は、一礼し、白い手袋をつけた手で二人の荷物を持ち、車のトランクルームに入れた。手持ち無沙汰になりながら、二人は車に乗り込んだ。後部座席、間にひとり座れる距離を空けて、それぞれが革の匂いのなかに身を落ち着ける。

 車が発進した。駅の近くだというのに、まばらな民家はたちまち姿を消し、雪に覆われた広い畑や荒野──ときおり、うずくまる生き物の背のような木立──があたり一面に広がり出した。

「眞紘、あれを見て」

 唐突に、千紘が窓の外を指さす。目をやると、そこには、煉瓦積みの塔のようなものが立っていた。

「──塔?」

 なぜだか、どきりとした。千紘はなぜ、自分にあれを見せるのだろう。

「サイロですよ」

 マネキンのように動かなかった運転手が突然口を開き、驚いて眞紘は前を向いた。運転手は淡々と「家畜の飼料の貯蔵庫です」と説明した。

「──もうすぐ、湿原ですよ」

 やがて、道路脇の地が泥濘み、灰色のなかに、暗い緑や、茶褐色が滲む、冬の終わりの湿原が現れた。その向こうに、その城は見えた。

 真っ青な鉱石を切り出したような丘だった。どうして、森は深くなると青くなるのだろう。目を凝らすと、針葉樹に似た尖塔が幾つか見えて、鬼火のような黄色い灯りが点っていた。

「──ここは太古の昔、海であったのです」

 運転手はそう云いながら、窓を開ける。とたん、冷たい風が吹き込んできて、肺を突き刺すが、その痛みも心地よかった。

 雲間から伸びてきた神様の指が、この湿原にことん、と青い宝石をおく。風が吹き、緑は波うち、湿原の麦や葦、百合がざわめく。漣に、鳥の群れが飛び立つ──魂のように。そんな光景をふと、思い描く。

 そしてさらに気がつく。──どうして自分は、この湿原が美しい季節を、これほど克明に思い描くことができるのだろう?

「夢にみたような景色ですわ」

 千紘が呟いた。そうだ。まるで夢のようなのだ。

 その瞬間、どきりと心臓が跳ねた。夢。それは悪夢ではなかったか? 冬の湿原に沈み、凍りついている記憶。

 これ以上見続けていると、なにか恐ろしいものが灰色の海から這い上がって脳に侵食してくる気がした。眞紘は頼んで、窓を閉めてもらう。けれど、女の悲鳴のような風が、窓硝子ごしにでも鼓膜を引っ掻いてくる。

 青の丘は、もう間近に迫っていた。



「この階段を登っていった先にある、玄関に燈の点った家が、校長の家です」

 糸杉の木立を抜けて、黒い鉄製の門扉の前で車は止まった。城の入り口に相応しい、聳えるようなひやりとした、重たい黒い鉄は冷気を放ち、「素手で触ってはいけませんよ」と、運転手は手袋をした手で鍵を開けた。門扉を押し開けると、灰色の石階段が、冬枯れの茂みの合間を蛇行して、丘の上に続いている。

 二人のトランクを持って、先に登っていく男の背を追いながら、眞紘は自然に千紘に手を差し伸べていた。敬意を払われることに慣れている者の仕草で、彼女は眞紘の手を取った。あたたかい。自分の指が冷え切っていることに、そこで初めて気がついた。

 運転手は、玄関の少し手前でぴたりと立ち止まり、「失礼致します」と、トランクを地面に置いた。そのまま背筋を伸ばすと「では、お体にお気をつけて」と一礼し、返事も待たずに階段を降りていってしまった。

 これより先には立ち入れない──といった雰囲気だった。

 夜色の針葉樹に囲まれた、左右対称の家。ランプがひとつだけ燈った玄関扉。絵画の中に入ってしまったように、ふと錯覚した。

「光の帝国、」

 隣の千紘が不思議そうにこちらを見てきたので、口に出してしまっていたことに気がついた。

「昔、家にあった画集の絵に似ているような気がしたんだ」

 千紘は少し首を傾げ、柔らかい金の髪を冬風に遊ばれながら、にこりとした。

「わたくしは、アンリ・ル・シダネルの『離れ家』を思い出しましたわ」

「知らない絵だな。今度、教えてくれないか」

「ええ。この学園に画集があるかわからないけれど」千紘は、ランプを見上げながら呟いた。「薔薇の咲く頃には届くでしょう。きっとよく似ているはず」

 その不思議な言い回しに、どういう意味か訊ねようとしたとき、千紘はおもむろにドアノッカーを掴み、躊躇いなく鳴らした。

「──はい」

 扉の向こうから、声がした。

「──編入生の二人?」

 はっと息を飲みかけ、慌てて返事を絞り出した。「──はい。今日からこちらにお世話になります、──」

 言葉の途中で、音もなく大きな扉が開いた。

 隙間から姿を現したのは、長身の人物であった。横に流した前髪が影をつくる、彫りの深い顔が、こちらを見下ろして微笑む。

「ようこそ、三月の王国へ」

 低いというより、深い声だった。

 とにかく、背が高い。同年代の男子高校生と比べても決して小柄ではない眞紘が、首をぐっと逸らさないと顔が見えないほど。

 黒いドレスコートはウエストを絞った形で、襟元からは艶のある生地のシャツと、幅の広い黒のチョーカーが覗いていた。雪国のための、これもまた黒い靴の先が、雪に濡れて光っていた。

 手袋だけが、艶々と、椿のように真紅であった。

「──入って。冷えるでしょう」

 大きな、大きな赤い掌が、ひょいと眞紘と千紘のトランクを持ち上げて、家の中へ入れた。

「軽いね」

 慌てて靴を脱いで揃え、「自分で運びます」と跡を追い、トランクの把手を握って受け取った。その時、留め金が外れ、トランクが開いた。

 あっと声が漏れた。

 トランクは空っぽだった。

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