雲行きが怪しくなって来た!

第8話 一難去ってまた一難!

 俺の身体から重力の感覚が無くなり、身体中が風を切り、スローモーションの様にホテルのガラス窓が下から上に通り過ぎて、コンクリートの地面が近づいて来るのが見えていた。人間って生き物は、緊急事態になると神経が研ぎすまされて時間の感覚を長く感じる事があるらしい。あ、デジャヴって奴だ。でもこれは現実。いま実際に起きている出来事だ! 取り返しの付く問題では無い!!


「ミィ! たぁすけぇてくれぇ!」

「まったく!」

 

 するとミィは俺にシンクロする様に落下しながら現れた。


「ミィ!」

「ヒロ! 自分のバッジに人差し指でキリストクロスを切って!」

「こ、こうか?」


 キリストクロス? どんなんだっけ? とりあえず俺は胸の金色のバッジの表面に十字風のタッチ操作をするが、何も起こらない。ミィは俺と一緒に急速落下しつつ叫ぶ!


「順番と方向が違う! こうやるのよ!」


 ミィは俺の手を取ると、俺のバッジに十字を刻んだ。俺の指の軌跡が眩しい光を発し、バッジが大きな光の球を生成して俺達を包み込む。その瞬間、俺達は地面に激突寸前でストップし、宙吊りのまま光の球に包まれてふわふわと浮かんでいた。どうしたって言うんだ? これが未来のバッジが起こした奇跡なのか? だが、ミィこの奇跡よりも俺の顔を見てあきれ顔をしつつ文句を言って来る。


「ヒロってば、キリストクロスの切り方も知らないワケ?」

「ウチの家系は仏教徒だ!」

「クリスマスとかは祝うクセに? いい加減な家系ね!」


 ん? 今の日本人は大体そうだぞ。というか無信教がほとんどだ。未来ではそんなにキリスト教が幅を効かせているのか? 俺は憤怒の思いで頭に血が逆流して来た。


「そんなのはウチだけじゃねぇよ! それより、こんな格好じゃアタマに血が上っちまう。地面に降ろしてくれよ?」

「まさかこんなショック療法があるなんて思ってもみなかったけど、これで大原聖奈さんも身投げは思いとどまってくれるでしょう。またもやヒロのケガの功名でミッションもクリアーね。そのバッジには他にも色々機能があって、それは後々教えるけど、今回はここまで!」


 ミィは自分のバッジをタッチ操作すると光の球が消失し、クルリと宙返りして地面に立った。俺はと言うと、突然の出来事にちゃんと降りそこねて、腰をしたたか打ちながら転んでしまった。


「アイテテテっ! もうちっとマシな降ろし方はねぇのか?」

「あ~あ。一人前のエージェントに育てるには、ヒロの鈍いアタマの回転の他に、運動神経も鍛える必要がありそうね。これからミッションの無い日は毎日トレーニングするよ!」


 ツンとお澄まし顔したミィは俺の顔を覗き込むなり、俺の額に人差し指でデコピンをかましやがった。


「痛えっ!」


 コイツ、この世に実在してない癖に、こう言う一方的な力技だけは得意なんだよな。


 ミッションが終わると、俺の身体はマイホームのリビングに素粒子化して戻っていた。時間は俺が転移した瞬間の凍り付いたまま。俺は身なりを元の部屋着に着替えるとソファーに座り、ビールジョッキを手にして上着の上からバッジを触る。バッジはいつも身に付けている様にとミィから言われていたし、俺は元々アメリカン・ポリスのドラマ・フリークでバッジコレクターだったので亜希子にも怪しまれないだろう。時間が正常に動き出す。メジャーリーグの中継の音。亜希子が出汁巻き卵を焼くいい匂い。全てが元に戻って来た……。



 その翌日、俺が我が家のリビングで朝刊を読みながらくつろいでいると、インターホンのチャイムがピンポ~ンとなった。亜希子が受話器を取ってモニターを見ると、


「あなたにお客様にみたいよ?」


 と言った。こんな日曜日の朝っぱらから誰だろう? 玄関のドアを開けきる前から、俺には嫌な予感が走っていた。俺の鼻を突いて来たのは、独特な甘い媚薬を彷彿とさせる香水の「プワゾン」。俺がこの香水の名前を知っているのは、以前亜希子とデパートの化粧品売り場で買物に付き合わされていた時に、亜希子が、


「私はこの香水だけは着けないわ。だってどこか品の無い女に思われそうだから」


 と言っていたからだ。そして現在、俺の知っている人物でその香水を身にまとっている女性はただ一人。玄関先に出てみると、そこには思った通りの人物が立っていた。


「ミィ? 今日はなんでそっちの格好で?」


 その女性はニコッと笑いながら手をヒラヒラとさせ、


「お久しぶりね、井原クン。木村優子よ。30年ぶりかしら?」


 え? ミィじゃないのか? まさか本物? いやいやそんな筈がある訳が無い。


 俺は頭が混乱したまま優子(?)を家に上げた。リビングで亜希子と俺と三人でテーブルを囲みながら、優子は楽しそうにはしゃいでいた。


「そうなんですぅ~。井原クンとは小学生以来の幼なじみで。それで今回は知人の紹介で井原クンのダイエットのトレーナーを受け持つ事になりまして」

「それはそれは。タクの主人もご覧の通りメタボ気味で、ワタクシもちょっと心配していた所なんでございますよ。オホホホホ」


 俺は亜希子の突然の奥様オクサマ豹変ぶりが心配で、背中にイヤな汗をかいていた。ダイエット? そう言えば昨日ミィがトレーニングを始めるとか言ってたな。でもまさかこんな人物を装って来るとは。それに何故か亜希子と優子が目線同士で見えない火花をバチバチ散らしている気がする……。


「それでは井原クン、そろそろ私のジムに車で参りましょうか。奥様、旦那様をお借りしますね♡」

「どうぞどうぞ。たっぷりシゴいてやって下さいネ♡♡」


 亜希子は玄関先の優子が見ている目の前で、


「じゃあアナタ、いってらっしゃい。チュっ♡」


 う、亜希子がお出かけのキスなんて、長女が生まれてこの方した事が無い。しかも亜希子の目は、「こんな事聞いて無かったわよ!」と言わんばかりにギラリと光っている。聞いて無かったのは俺も同じだ。ミィの奴、一体何を企んでいるんだ? これは、もはや不吉の前兆としか思えない俺であった。

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