第3話 最大の敵との遭遇

 喫茶店きっさてんのアルバイト帰りの午後五時過ぎ。未だ空は明るく、青空が続いていた。

 昼時のコンクリートで舗装された道から発せられていただるような暑さは少し弱まったが、それでも少し歩くだけで汗がにじむ。住宅街を立花颯汰たちばなそうたは徒歩で進み、自宅へ向かっている最中であった。

 白い半袖のシャツに、灰色で七分丈のカーディガンを羽織っている。下はジーパンで全体的に自己主張しない服装だ。

 彼はあまりお洒落しゃれには気をつかっていないので服はもっぱら妹のチョイスである。

 本来はリュックサックを背負って帰りたかったのだが、以前、妹の一人からこぼれた『ダサッ』という感想に相当ショックを受けて、今は無地の手提げ鞄にアルバイト先の制服を入れている。

 喫茶店の制服を持ち帰り洗濯をしなければならないのだ。昔は店長マスターの家の洗濯機を使っていたのだが、近年は女性の従業員が増えたため、自分で持ち帰って清潔にすることが義務付けられたそうだ。

 颯汰自身、不衛生な状態ではさすがにお客様に迷惑が掛かるという事と、貸し与えられた物でも自分の衣服は持ち帰って洗うがしかるべきだ、と考えているので文句はない。だが、荷物になって少し邪魔であるのは否めない。

 電線の上に乗るスズメがチュンチュンと忙しなく音を立てている下で、颯汰は路傍ろぼうの石をつま先で突き転がすが道路の端の側溝へと落ちていってしまった。それを見て颯汰は肩をすくめる。この気怠さは暑さのせいだ。


 車通りの少ない道だからか、子供たちが自転車で走り過ぎていくのが見えた。小学校低学年くらいの少年少女が入り混じって無邪気に駆けていく姿に、どこか寂しさを覚えたのを颯汰は押し殺す。


「……あんまり遠くないんだけど、今度から自転車で通おうかな」


普段は重い本ばかりを運び、彼女の元へ走るだけの道具であるが、それだけで終わらせるのも勿体無い話だろうと颯汰は心内で自分自身を納得させる。

 颯汰を追い抜かしていった子供たちを見て、素直な気持ちが口から出ていた。


「羨ましいな……」


 無邪気にはしゃぐ事ではない。男女で仲良く遊ぶ事をうらやんでいるわけではない。ただ純粋に、彼が視線で追いかけている子たちぐらいの年齢のとき、そうやって遊ぶ事が出来なかったのだ。

 口に出して数秒後には咳払いをして誤魔化す。しかし、気恥ずかしさと正反対に、彼の脳裏に浮かぶ過去の情景と眼前の景色が重なり始めていた。幼い頃の颯汰や友人だった者が、颯汰の脇を抜けて走って行く姿が映る。


 ――我ながら女々しいな


 どこか呆れながらも、その表情は穏やかなものであった。

 しかし、その数分後、普段帰りに進む道を前にして立ち止まった颯汰の表情は陰りを見せ始める。


「――ッ!」


視界に映るのは、ただのY字の分かれ道。

 颯汰の家まで近いのは右の道である。

 だが、彼は重い足取りで左の方を選んで進んでいく。遠回りの道であるのに関わらずだ。

 左の道へ入っていく颯汰は苦虫を潰したような顔のまま一言呟いた。


「――何年ぶりだよ……」


“それ”が最後に起きた日をはっきり覚えているのに、颯汰は顔色を悪くしながら言葉に毒を含みながらひとちる。そのひたいには汗が伝っていたが暑さによる発汗ではなかった。

 颯汰の目線では先ほどの景色――右への通路は常人と異なって映っていたのだ。

 薄い闇色のけむり……そこだけが辺りより重い雰囲気で、薄気味悪い黒いもやがかかって映っていた。

 もしその闇へと進めば、ろくでもない事が起こると颯汰は身を持って知っている。

 石につまづく程度なら運がいい方だろう。鳥の糞が直撃ならまだかわいい方なのだ。



 ある日、小学五年生の頃の話だ。ある場所で当時幼かった颯汰少年に同じような靄が見えた。車通りの多い交差点であった。颯汰少年は得体の知れないそれが見え始めてしばらく経っていたが、怖くてその進まないで今のように迂回うかいしたのだ。そしてその結果、その方向でバスが横転して何十名も死傷者が出る痛ましい事故が起きた。

――『行かなかったから、巻き込まれなかった!』

 幼い頃の颯汰少年はそう思ってしまったのだ。

 心のどこかで偶然だろうと思いつつも、それが何件も重なれば幼い少年にとって必然であると思い込むのは仕方がないのかもしれない。

 いつから“これ”が起こるようになったかは分からない。ある時まで颯汰は誰しもこれと似たような能力があるものだと思っていたくらいだ。

 だから彼はそれを友人たち、、、、に話した。


『マジで何言ってるの?』『不謹慎ふきんしんすぎんだろ』『馬鹿かオメー』『つまんな』『そんなんで目立ちたいのかしら』『気持ち悪い』『――!』『――!!』


 幼い心を抉るのには充分過ぎる刃の数々だった。周囲から孤立、陰口、イジメ、それが起こるのに大して時間は掛からなかった。

 それが……立花颯汰のほうむりたい過去。この日を境に、彼は人と一定の距離を取るのであった。



 それでも颯汰はこの能力を否定しない。ムキになって靄へと前進したため小学校六年生では手足を骨折し、中学生の頃には太腿ふとももうほどの怪我もした。

 そして最後にこれが起きた時――、自分がもし無駄な意地を張って靄へと歩みを進めなければ時間を食わずに済み朱堂美雪が今、入院をするハメにはならなかった、と本気で思い込んでしまっている。


 彼はこの特異な現象を自然に受け入れる、とまではいかないが気味悪がりながら、忌々いまいましいと思いながらも『けるのが無駄なトラブル回避かいひつながる』と知っているため、その道を歩むことを二度としないとちかった。『危機察知能力ききさっちのうりょく』というより『不運発生能力ふうんはっせいのうりょく』だと呪いながらも。


 進む先に黒い靄が掛かる時、必ず不幸が起こる。どうせなら傷が治る力や、誰かを守れる力の方がいいと何度願った事かは本人すらも覚えていない。

 かつてほどこの能力を憎んではいないにしろ、颯汰が苦虫を潰したような顔になるのは仕方がないことだろう。


「遠回りになるけど、仕方がない、……かぁ」


だが逆に明るく物事を捉えれば、面倒ごとを回避できる代物である。多少時間が掛かったとしても、帰ってもやる事はない。夕餉ゆうげの時間には問題なく間に合う。

 ならば急がなくても別にいいか……と思った数秒後に颯汰は後悔をする羽目となる。



「あ、颯汰先輩」


「…………あぁ、こんにちわ」


「バイト帰りですか? 偶然ですねー」


「……そうだな。枝島は――……買い物帰りか」


「はい、お母さんに買い物頼まれちゃって……その帰りです!」


 ――ハハッ、すぐに帰りたい。


先輩と言った語尾にハートマークが付いていそうなほど甘えた声を出した彼女の名前は枝島えだしま冬華とうか

 セミショートの明るい髪色と同じく性格も明るい少女だ。学年が一つ異なる年下の彼女を立花颯汰はどこか苦手意識を持っていた。

 屈託くったくのない笑顔がまぶしいせいか、人の心の障壁を安易にすり抜け入り込む気安さのせいか、


「先輩のお家ってこっちでしたっけ?」


「いや、……なんとなく別の道を歩きたいって思っただけだよ。気まぐれに」


「そうですかぁ」


あるいは――、


「…………だったら私、ラッキーです。えへへ……」


隣にいる颯汰に気づかれないように小声で独り言を口にして頬を赤らめる少女。その姿が原因か。

 答えはすべてである。

 立花颯汰はその言葉を聞こえないふりをしたが顔は複雑な表情をしていた。笑顔であるべきか迷い、半分は引きつった顔である。

 立花颯汰は黒い靄が見える以外、普通のどこにでもいるような男子高校生である。漢であるゆえに、思春期は――ながい。だから鈍感どんかんであるはずがなく、むしろ積極的に“誤解や勘違い”を誘発しやすい。


 ――やめろ……、勘違かんちがいさせるような言葉を吐くのはやめろォ!


表面上は柔らかく取りつくろう事には成功しているが、内心は気が気ではない状態であった。

 異性に少し軽く触れられただけで芽生えてしまう勘違い。異性から見られていると思い込んだだけで発動するプログラム。携帯電話などを利用した文字のやり取り中に異性から送られてきた“ハートマーク”で発症する病。

 それは遺伝子に刻まれた悲しきサガ。思春期で装填そうてんされ、あとは際限なく引金トリガーを引かれては放たれる魔弾。その呪いの名前は誰しもが知っている。――つまりは『恋』だ。

 恋はいつだって人を狂わせる。紡がれた歴史が証明している。歩んできた軌跡が警告している。

 だから颯汰は心内こころうちでは枝島冬華にれられていると思っている部分があっても、それ以上踏み出す事はできない。告白される前に受け入れる事も拒絶する事もできないのは、勘違いの可能性の方が大きいと彼は思い込んでいるためだ。

 直接聞けば彼女の性格上、答えてくれるだろうと読んではいるが、万が一勘違いであった場合のダメージストレスは尋常じゃないものとなる。


『誤解です! そんな目で見ていたんですね……! 最低……ッ!』『いきなり何を言ってるんですか!? こわい……助けて! 誰か助けてええええ!!!!』『きしょいです。誰にも見つからないところで息を引き取ってください』


 大よそ枝島冬華の口から出るような言葉ではないが、ネガティブな思考が在らぬ罵倒ばとうの台詞を生み出しては勝手に傷付き始めていた。もしそうなれば『目立たず、浮かずに、されど沈まず』が一瞬で崩れる事態となるとも考えている。おそらく悪目立ちをし、クラス内でも更に浮いてしまうのは間違いなく、気分はどん底へ沈むに違いない。

 間違いなく暫くクラス内で話題となるのは間違いない。最悪の場合、不登校になり得る。


 だから颯汰は自分からは決してアクションを起こさない。甲斐性かいしょうなしと言われようと、彼は恋愛については受け身でいるつもりだ。我ながら最低だな、と颯汰は理解しつつもそのスタンスを崩す気はない。

 既に何度かこの人類が背負った業にも近い感情の暴走で撃沈した事があったものの実際に告白はしたことはない。だいたい相手に好きな人がいたため勝手に玉砕していたのだ。その都度、枕を涙で濡らし、妹にまで慰められる屈辱くつじょくの日々も彼を卑屈ひくつゆがめたのだろう。

 しかし、されど思春期――。心をむしばむ甘い毒が理性を溶かしてしまいそうになる事など多々ある。例え『人と距離を取る(キリッ)』と言ったところで思春期の獣を抑えるのは至難の業であるのだ。

 長く過ごせば過ごすだけ、考えが歪んでしまうかもしれないと恐れている。好意を寄せられていると勘違いを誘発させる行為も、誰からも好かれる彼女自体が苦手なのだ。

 

「途中まで、一緒に、帰って……いいですか?」


普段見かける彼女らしくないしおらしさ。弱気な表情と潤んだ瞳が上目遣いとなる。所用がなく、余程相手のことを嫌っていない限りこの問いを拒否する人間はいないだろう。いたとしたら変わり者だ。

 拒絶すると双眸そうぼうに溜まった涙が決壊するのは間違いない。そうすれば面倒でもあるが、何よりも罪悪感に押し潰されるのは必至であるから立花颯汰は受け入れるしかなかった。


「あぁ、どこまでかは知らないけどいいよ」


 そう答えた瞬間、太陽に照らされた向日葵ヒマワリの如く笑顔が大輪の花を咲かせる。新緑の野に鮮やかな黄色が栄えるように、変哲もない場所だからなのか、眼前で優しい光を放つ陽光が眩しくて堪らなくて颯汰は目を背ける。立花颯汰はこれも一種のドッキリで悪意からの行動なのではと邪推じゃすいしている。それは彼の過去トラウマのせいであるのだが、如何せん歪み過ぎて好意を素直に受け取れなくなっていた。

 枝島冬華は立花颯汰に好意があるのは誰の目を見ても明白であるのだが、当の本人たちはそれ以上は動かない。両人とも方向が異なるが恐怖のため。だからこのまま何も起きずに先輩後輩のままがまだ心地よいと現状維持でいいと颯汰は逃げている。颯汰自身も本当は気づいているが勘違いであると誤魔化しているのだ。


「…………あぁ本当に――最低だな」


隣に咲く花を見て、颯汰は小さく嘆息を吐いた後、誰にも聞こえない声の大きさで自己嫌悪に陥る。突如隣にいた颯汰が立ち止まったため、枝島冬華は不思議そうな顔をして振り返る。


「え?」


「いや、…………なんでもないよ。途中まで荷物でも持とうか?」


「え? えええ!? い、いえ、結構です! バイト帰りの先輩に迷惑かけられませんから!」


頭の中で何を思い浮かべたのか、少女の顔は真っ赤に燃えて、意中の異性で憧れの先輩を前にして、脳は混乱していた。


 ――ここまで大いに拒絶するのは……やはりドッキリで無理矢理誰かに言いくるめられているのか!? 誰だ……? 会話から探りを入れるべきか……?


 そこにいるのは好意を向けてくる人間すべてに不信感を抱いた哀れな男は真剣そのものであった。


 数分間道を進みながら会話を交えたが、颯汰に探りを入れるも話題がなくて、機関銃きかんじゅうのように言葉を次々と吐き出し話題をコロコロ変える今時の女子高生JK相槌あいづちを打つのが精一杯となっていた。

 

「――それでですねー。空き教室に着いたら急にクラスの男子が告白してきてですねー。謎じゃないですか!? あんまり話したこと無かったんですよ!?」


それに対して颯汰は曖昧あいまいな返事をする。口ぶりから既に告白を受けた答えを察した颯汰は、どう反応すればいいか分からないでいた。

 その見ず知らずの男子Aはきっと勇気を出してのぞんだのだろう。そこは称賛しょうさんすべきだ。ただ段階を踏まず、勝算が薄い戦いにいどんだのは抑えきれない遺伝子に仕組まれた呪いのせいだろう、と迷った末に颯汰は同情する事にした。


 蒼天の下、夏の明るい場所に相応しくない――ドス黒い悪意が忍び寄っている事に、この頃、立花颯汰は気付きもしなかった。

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