第2話 淡い現実

 書店で買ってきた本を三冊を、少女が眠っている近くの棚に置く。

 眠るその少女はすっきりとした輪郭りんかくと整った鼻梁びりょうを持ち、くちびるまぶたは閉じたままであった。

 同年代からも少し大人びた印象を与えていた美人の、ただでさえ白かった肌はあの日の雪のように色を失い、長い黒髪は少しだけ艶が失っていたようにも見える。端整たんせいな顔立ちから、彫刻ちょうこく硝子細工がらすざいくたぐいなのではないかと思ってしまうほど綺麗きれいで、少女の白くき通った肌はれたら最期、――粉々にくだけ散ってしまいそうなはかなさを感じさせるほど、生気が無く映った。


 ――まるで、本当に眠っているだけではなく、このまま目が覚める事は……


 本を置いた少年の頭に過る不安の言葉を、目をせる動作でさえぎった。

 白を基調とした明るい部屋であるはずなのに、どこか重苦しく感じるのはここが病院の一室だからという理由だけではないだろう。

 少女は交通事故により頭部を強く打ち付けてから、半年以上は経ったが未だに意識は戻らない。昏睡状態が長く続いている。


 冬の北海道では、どんなに運転に慣れた人間でも自動車によっての事故が起きてしまう。

 一見するとただ濡れている道路でも、薄い氷の膜にハンドルを取られる事故もある。

 視界の悪い大雪の夜なら尚更であろう。

 闇夜のとばりが下りた冬空を、覆いつくす勢いで降り注ぐ白雪――その情景を彼は今でも鮮明に覚えている。


 忘れられるはずがなかった。


 確かに心と身体の熱が奪われていくのに、雪の冷たさすら何もかも感じない事故のあの日。

 ただ、胸の内から出でる痛みだけが未だに消えずに残っていた。

 

 少女が横になっているベッドのすぐ傍に置いてあるテレビは、廊下の自動販売機で売っているカードを買わなければ見ることができない仕様だ。でも目を覚まさない少女には必要ないものだろう。テレビの画面を遮ってしまうが少年は以前に買ってやった本が何冊か入っている紙袋をそこへ移した。新しい本は少女の手元に置き、古いのは移動させる。

 すでに他の置き場にも本が占領済みだ。

 今まで買ってきた本を床に置いたら、きっとその白いベッドを抜き天井に到達する高さになるだろうなと悲し気な顔で少年は自嘲じちょうする。

 薄緑のカーテンの間から見える、窓の先から差し込む陽光が眩しくて目に染みる。

 いつの間にかまぶたからこぼれたしずくに気づいて少年は、その部屋には眠りについている彼女以外に誰もいないのに慌ててぬぐい取り、誤魔化すように咳払せきばらいをする。


「…………じゃあ、今日はこれで」


 これ以上ここに居ては、塞き止めようと努めている感情が決壊するかもしれないと判断し、少年は一言だけ寝ている少女に告げてその場から離れた。

 白い部屋で眠る少女は返事をしない。

 病室で深い眠りついているだけであった。

 少年は以前に買っておいた古い本を何冊か持ち出し、自身の無地でシンプルなデザインの手提げカバンの中に入れる。さすがにいつまでも置いておくわけにはいかない。それでも看護師に文句を言われない絶妙なギリギリの量を残している。

 いつ目が覚めても良いように、だ。

 少年は部屋から出て数歩だけ歩くと立ち止まり、彼女が眠っていた部屋に向かって振り返り、一瞥いちべつする。ネームプレートには部屋番号“五〇三”と彼女の名前――“朱堂美雪すどうみゆき様”と書かれていた。

 それを見てほんの少し項垂うなだれ気味で再び外へと歩き出す。清潔感のある廊下をスリッパで歩く度、カサっと擦れる音がする。足取りが無意識に重くなっていた事に少年は気づかぬまま、静かに病院を後にした。


 本格的な冬の始まりである十二月の下旬で起きた事故のあの日から季節は変わり、うだるような暑さが空から降り注いでいる。外気が下がる夜には、吸収した熱がアスファルトから放出されて寝苦しい熱帯夜となりつつある七月となっていた。

 病院全体が空調で程よい温度であったが、いざ外へ一歩踏み出すと、戻りたくなる衝動に駆られる暑さで辟易へきえきしてしまう。

 数瞬の間、止まった足を進め外へ歩いて行く。強い日差しから逃げるようにすぐに走り出すが駐車場一帯に日陰と呼べる場所はない。少年は脇を走り、日陰にある駐輪場へと向かう。


「……あっちぃぃ~~」


たった数十秒移動しただけで止めどなく汗が噴き出してくる。自転車の鍵を取り出し鍵穴へと差し込む。ガシャンと音を立てロックが解除された。

 そんな音が不自然に感じない程、周りはそれ以上に騒音が響いていた。蝉の大合唱と道路工事の音だ。夏の風物詩とコラボレーション。

 リズムを合わせれば名曲に――。


「――ないな。ないない」


 暑さで変な考えが生まれてしまいそうだ、と独りごちりながら自転車に乗って帰路へと駆け出した。

 世間は夏休みといっても、彼――立花颯汰たちばなそうたには、年上の先輩から同輩になってしまった朱堂美雪への見舞いと喫茶店の店員のアルバイト以外にこれといった予定はない。

 颯汰に面と向かって聞けば必ず否定するが“彼女のために”不定期ではあるが、自主的に本を買って病室に置いている。気に入りそうなものをリサーチし、購入していつ起きても良いようにと。文学・小説、実用書、医学・薬学書、イラスト集、科学雑誌、漫画などなど……様々なジャンルを朱堂美雪は読むものだから颯汰もアルバイト代やお年玉を崩し、直感で選んでは買っている。誰に頼まれるまでもなく、勝手に買っているのだ。

 花の持ち込みは院内で禁止にされている。何より寝ている朱堂美雪が世話なんてできるはずがない事に買った後に気づいて自室のベランダから日が当たる場所に飾っている。店員に勧められたまま買ったトルコギキョウは鮮やかで淡い色で今も咲いている。


 朱堂美雪は昔から無類の本好きであった。颯汰はそんな彼女から読書は強制された事は無いため、本が好きでも嫌いでもない。自主的にはたまに読む程度で、もっぱらテレビゲームに勤しんでいる事の方が多いと言っていいだろう。

 そんな立花颯汰はどこにでもいる平凡な高校二年生であるが、友達はそう多くない。

 別にこれといって不和が生じた訳でもなく、クラスに馴染めていないわけではない。話し掛けられれば普通に話すし、無駄に攻撃的な態度や孤独アピールをするようなことはしていない。むしろ目立つ杭は幾つもの槌で壊れるまで叩かれるという事を知っているため、彼は出来るだけ『目立たず、浮かずに、されど沈まず』を心がけて生きていた。

 どんな時も周りに流されず、かと言って迎合げいごうを大げさに避けずにいる。言わば彼は常に他人の目を気にする“傍観者”であった。

 傍観者である彼をただ一人だけ、振り回せた存在が朱堂美雪であった。

 一つ上の学年であった朱堂美雪は頭脳明晰ずのうめいせき容姿端麗ようしたんれい、表向きは人当たりも良く性格は良い。絵に描いたような理想像の体現であった。……“表向きは”。

 長い黒い髪と少し気が強そうな瞳、かもし出す雰囲気は大人びた印象を与えるが、その実態は……颯汰も掴み損ねている。


 彼女との出会いは颯汰が幼稚園児の頃からとなるが、颯汰が小学校三年生の頃から中学校三年生までの六年間、彼女は両親の都合で引っ越していた。子供にとって長い年月であるが、颯汰は夏の川で溺れた日に救われてから彼女の事を一時ひとときも忘れた事はなかった。


 しかし、朱堂美雪は立花颯汰が高校入学するのとほぼ同じタイミングでここ伊坂いさか市に帰ってきたが、一学年だけとはいえ学年が違う異性であるから関わる事は少ないだろう、と颯汰は思っていた。寂しいようで恥ずかしさもあり、それを表に出す事はしなかった。

 関わる事は少ない――その考えが一日もしない内に崩れ去り、平凡な日常は終わってしまったが、不思議と不快感はなかったと言える。

 彼女はミステリアスよくわからない性格で、クールな雰囲気を出しつつ、また結構な行動派であり、颯汰は振り回される日々が始まったのであった。 



『聞きたい事があるんじゃないのかしら?』


淡々とした無感情そうな口調で、朱堂美雪は立花颯汰に訊ねる。

 急に校内放送で呼び出され、生徒会室に入って掛けられた第一声がこれで、颯汰は面を喰らう。

 颯汰は真っすぐ飛んで来る視線を避けるように目線をずらした。

 生徒会室は他教室と比べると半分も満たない小さな部屋であった。会議などで使う資料は小奇麗にまとめられ、キャスター付きのホワイトボードには何も書かれていない。


 ――確か以前見た時は散らかっていたはずだ。備品も所々、綺麗になっている


 転校してから早々に生徒会長に就任した朱堂美雪が自らやったのだろうな、と颯汰は何となく分かった。

 生徒会の他のメンバーは今はいない。完全に私用で呼び出しである。

 越権行為えっけんこうい許されません。


『…………わざわざ放送で呼び出すなんて職権乱用では?』


質問に答えず、新たに質問を投げ掛けたが朱堂美雪はなんてこともないような顔で、


『放送使わなかったら、帰っているでしょう?』


と答える。否定が出来ず、颯汰は声が詰まった。

 颯汰の性格は昔と比べるとだいぶ、かなり、ひどく歪んでしまったが、彼女はそれすらすぐに掌握していたようであった。

 颯汰は、もし口頭で呼ばれても涼しい顔で「はい」と答えて帰るつもりであったが、校内放送となれば他の問題が生じる。それで帰れば他の人間に『放送で呼び出しされていた』と声を掛けられる、帰るのに理由を聞かれる可能性があるからだ。

 そうなるとわずらわしい、それに放置しても後々面倒くさいことになるだけか、と颯汰は諦めて生徒会室におもむいたのだ。


 実際、聞きたい事は山ほどあった。


 ――夏の川の、俺が溺れた日の事をを覚えているのだろうか


 颯汰は覚えているならばお礼だけ言おうとは考えていた。そのお礼を言えないまま別れてしまった事も心残りではあった。だが、


『……いえ、別にありませんけど』


いざ人工呼吸を受けた事を思いだし、恥ずかしくて言葉に出せなかった。顔と声も抑えて努めて冷静に嘘をついた。今まで本音を隠す事が多かったため、全くの同様もなく自然に放った言葉に、朱堂美雪はふぅん、とわざとらしく興味がなさそうな声を出してから続けた。


『無理して敬語を使わなくていいよ。あの頃のように“みゆきお姉ちゃん”とでも呼んでくれても――』


『――朱堂“先輩”いえ、朱堂“生徒会長”の方がいいですかね』

 ――というかそんな風に呼んだ記憶ねーんだけど



距離を遠ざけようと、反射的に露骨な避け方をしたため逆に彼女を刺激してしまったのだ、と颯汰は後になって気づいた。

 何か、押してはいけないスイッチを押してしまったような感覚に襲われるが、後悔しても遅い。

 ここから、彼女に振り回される生活が始まった。

 表情こそは変わらないが、纏う雰囲気は少し威圧的であり、


『ソウくん。私との唇の感触は覚えている?』


自身の唇に静かに手を当て訊ねてくる仕草になまめかしさを帯びていた。

 柔らかく、自然な赤みとつや蠱惑こわく的で、心を乱れさせるのに充分であった。


『ッッッァ!!??』


クスクスと小悪魔のように笑う悪魔神は、更に追い打ちをかける。


『むしろ……今から思い出させようか?』


 その一言を聞いた後、颯汰は顔を赤らめて、一目散に逃げ出していた。


 ――あぁ、この人には勝てない……!


 そう思わざるを得なかった。

 ちなみにその後に家に追撃に現れて、面倒な事になったのはまた別の話。


 立花颯汰は、他にも朱堂美雪とのやり取りを思い出しながら、赤面していた。首を横に振り、あの日の残像と顔から出る湯気を消し飛ばそうとするが、思い出の中の彼女は消えること、消そうと思う事もない。彼女に救われたのは命だけではない。“心”まで救われたのだから……。



 自転車で自宅に辿り着いた時、身体中から汗が止めどなく噴き出していた。

 その時、ふと院内で仲良くなった小学生といつも会っていたのに今日はたまたま会わなかったことを思い出す。どういった症状かは詳しく聞いていない。

 今度、倉庫にある妹たちのぬいぐるみのひとつでも持ち出してプレゼントしようなどと考えながら颯汰は自転車を降りて倉庫へ押して運び、自宅へと入ろうと玄関まで歩いて行く。自転車の鍵のストラップに指を掛け、くるくる回しもてあそびながら、どこからでも聞こえてくる音に思わず足を止めてどこに音の発生源がいるのか辺りを見渡したが頬に伝う汗が地面に落ちた時にハッと我に返り、すぐに探すのを諦めて歩き出す。


 蝉の声は絶えず鳴り続け、短い命を懸命に燃やしている。長い年月を地下で静かに生き、次に繋げる為にはねを鳴らす。

 彼女は静かに眠りついているが、それでも生きている。彼女も蝉にように満を持しているのだろうか。


「…………こんなに煩くもないし、バイタリティにあふれてる。目が覚めればひょっこり部屋にいるかもしれない。……何も心配する事はないさ」


成長後の寿命の短い蝉と朱堂美雪を何となく並べて連想させてから、馬鹿な事を、と自己嫌悪に陥る。もし大人になった後も眠っていて、目が覚めたらぽっくり逝ってしまうなんて縁起も悪いもいい所だと反省した。誰に宛ててかわからない弁明をした後、


「いつまで待たせるんだよ……」


そう独り言を呟いてから玄関の扉を開ける。

 外よりは若干涼し気な空気が流れを感じて颯汰は帰宅したのであった。

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