Ⅶ 下
*
今沢はどうしてあのタイミングで、佐々木に手を引くように求めたのか。それは今も分かっていない。
桜の木が並び立つ大通りを歩きながら佐々木はふとそんなことを思った。
あれから、彼女とはまともに話していない。普段は刑事のパートナーとして行動しているが、二人揃って休みを取った事により、もともと手元にあった仕事は他の組に回されていた。さらに、ここ最近二人が動くような事件が起こっていない事も含め、彼女と会話をするきっかけがないのだ。
「はあ……」
そもそも、彼女にとって正義とは何なのか?
これは、あの議員と猫耳の強盗少女に問うた事だった。
あの議員は正義とは欲だと言った。
あの少女はこの世に正義などない。あるのは人の価値観のみだと言った。
どれも真理だろう。しかし、そのどれも彼の中にストンと落ちるものはなかったのもまた事実だ。
「はあ」
何度目かになるため息を吐いた時、ちょうど警察署の前に設置されている自動販売機の前に立った。入り口が見通せるこの場所から彼女が入っていく姿が見えた。五〇〇円玉を入れスイッチを押す。ガコンという音が二度響いた。自販機の口から中にある缶を取り出した。
そこで、佐々木は気がついた。
「やべ……なんで二本も買ってるんだ?」
今までの癖で二人分買ってしまったようだ。捨てるのも勿体無いし……守衛さんにでもあげるか? そこまで考えた時、佐々木の中でひらめくものがあった。
「そうだ! 小百合さんにあげよう!」と。
そして、会話のきっかけになればという思いも。
歩き慣れた廊下を踏みしめながら一課のプレートをくぐる。中には数人居るのみで半分以上が空席だった。自然と彼女のデスクへ視線が流れる。そこには肩あたりで切りそろえられた黒髪が見えた。
「百合子さん、おはようございます」
彼女のデスクの対面に置かれた自分のデスクに腰を下ろす。彼女は佐々木を一瞥すると再び書類に目を落とした。あの日以来いつも通りのやり取り。佐々木は鞄の中から先ほど買った缶コーヒーを彼女の前に置いた。
「どうぞ。間違えて二本買っちゃんです」
そう言うと、彼女は顔を上げた。見開かれた瞳の中に驚きの色が見て取れた。
「何? くれるの?」
「だからそう言ってるじゃないですか」
「……佐々木君、あなた、今日は早く帰りなさい。温かくして早く寝るんだよ。今日の仕事は明日以降に回しておくから」
あまりの言い草に佐々木の内心はズタズタに切り刻まれた。
「そんなに僕が奢るのは奇妙ですか!」
「ええ」
「そこは否定してくださいよ。まるで、僕がケチくさいようじゃないですか」
「事実でしょ」
佐々木と今沢の視線が交差する。一秒か十秒か。それとも一分か。心地いい沈黙を破ったのは、どちらともなく笑い出した声だった。
周りの人は不思議そうに突然笑い出した二人を不思議そうな目で眺めている。時間帯が早く、まだ来ていない人が多いのが幸いか。
「今まで散々避けてきた佐々木君が、一体どういう心境の変化があったのか分からないけど、これはありがたく貰っておくよ」
缶のプルタブを押し上げた彼女。その姿を見つめる彼。
二人の間にあった冷たい何かが溶け始める音が聞こえた。
「そうだ。佐々木君には伝えておかないと。あの事件だけど、あれから色々なことが分かった。
中国が関わっていたのは事実だった。ただし、向こうはそれを否定しているらしいけど。
一ヶ月程前に仮想通貨が大量に盗み出された事件、議員殺人未遂・狙撃事件、佐々木君が巻き込まれた強盗事件。その全てが大きな流れの中で起きたものだった」
彼女が言ったことは佐々木にとってあまりにも突拍子のないものであった。それもそうだろう。普通なら結びつくことない点が互いに結ばれ、ありえない線が重なり合い真実という名の地図になる。
「そんな事……」
ありえない。思わずそう呟きかけた口を無理やり閉じる。彼女は佐々木に嘘を吐く理由はない。
案の定、彼女は首を横に振った。
「調べていくなかで確信した。佐々木君はこの話に踏み込み過ぎている。そして、もう引き返せない所にいる。それでももう一度頼む。これ以上こちらに来るな」
佐々木が何かを言おうと口を開いた瞬間、彼女のデスクに備え付けられた電話が鳴った。
今沢はそれを取り、一言二言程度交わすと受話器を置いた。どうかしたのかと、問いかけた佐々木に彼女は「呼び出し」と短く伝えた。
その顔には幾ばくかの不安と焦りの色が見て取れた。
「それじゃあ、行ってくる。それとコーヒーご馳走様」
そう言って彼女は一課を飛び出して行った。
ふと、彼女がさっきまで目を通していた書類が視界の隅に入り込んだ。それはちょっとした好奇心だった。佐々木は彼女のデスクに放置された書類を手に取った。
その瞬間、彼の中に大きな衝撃が走り抜けた。
それもそのはずだ。
そこに記されていたのは、彼女が今まで調べてきた事であり、彼が途中で手を引いた事だったから。そしてなにより、目を引いたのはその内容だ。
さっき彼女は中国が関わっていると言っていた。しかし、この資料を見る限り関わっているどころの話ではない。
彼女の語り口的にはどちらかというと中国は巻き込まれたような印象を受ける。だが事実は真逆だ。中国こそこの騒動の原点にして中心だったのだ。
しかし、なぜ今沢は中国が巻き込まれたかのように言ったのか。この内容を見れば一目でそうではない事が分かる。製作した本人なら尚更だろう。佐々木は「この他にも資料があるのでは?」という考えが脳裏をよぎった。気がつけば、彼はデスクの引き出しから資料を探し出していた。
もしもこの時、今沢が戻ってくれば彼はすぐにこの行為の意味を考え、その手を止めただろう。だが、今沢は帰ってこず、彼は目的の資料を見つけ出した。
「そんな……」
呆然と呟いた佐々木はハッと何かに気がついたかのように辺りを見回した後、資料を元の場所へ戻した。
向かいにある自分の席に深く腰掛ける。力なく虚空を見つめる彼の頭の中では、幾つもの言葉が反芻する。
『暗殺対象』
『ターゲット』
『事件を知る者』
『Invisible inhabitants』
どれも、物騒な単語や意味深なものばかり。思考は、深い泥の中を沈んでいくようにゆっくりと重たく、不快に纏わりつく。
「佐々木君」
そんな彼の意識を戻したのは、数十分前に一課の部屋を出て行った今沢だった。
佐々木のデスクに腰掛けた彼女は必然的に見下ろす形になる。
「ちょっといいかしら?」
「まあ。それじゃあ、署内のカフェにでも」
すると彼女は首を横に振った。そのいつもと違う様子に、佐々木はそれ以上勧めることはできなかった。
「そう、屋上がいいわね」
黙ってしまった彼に助け舟を出す。
「屋上ですか……わかりました」
一応、寒かった時に上に羽織れるよう、コートを手に取って今沢の横に並び歩く。佐々木は彼女の表情は伺い知ることはできないが、どことなく嫌な予感を覚えた。
二人の間に会話はなく、それでも同じペースで歩く彼ら。その姿は、一年という短い時間ながら濃密な時を過ごしたことを表していた。
階段を上りきった先、屋上の扉が見えた。所々錆び付いているそれは、大きな音を出して開いた。暖かい陽が降り注ぐ屋上は予想していたよりも快適だった。後ろ手に扉を閉めると今沢はフェンス近くに設置されたベンチに座った。佐々木も彼女に習い隣に腰掛けた。
「ここ、実は私の秘密の場所なの。事件が行き詰まった時とか、何か悩みを抱えている時とかにここに座ってボーとするの。頭の中を空っぽにして、ただ街の喧騒を眺めてる。そうするとね、答えへの道のりが思いつくんだよ」
しばらく黙って、眺めていた今沢が口を切った。
佐々木が横を向くと視線を街の姿へ固定した彼女の姿が写った。
「それが一体−−」
どうかしたのか? という、佐々木の言葉は結局最後まで言い切る前に今沢が遮った。
「でも、今は何にも思いつかないや。佐々木君。私がここに君を連れてきたのはね、この場所を譲るためだよ」
悲しみと悔しさと、そして、諦めを混ぜた表情を浮かべる彼女は、そう言ったのだった。そして、佐々木はその言葉からある推測が脳裏に過ぎった。当たって欲しくないと思いつつも、確認せざるおえない。
「まさか……どこか、移動になったんですか?」
「……そう。本日付でここを去ることになった。
コンビは解消だ。それに、場所は言えないけど、今まで見たい気軽に会える距離ではないんだ。次に会える保証もない。だから、佐々木君。
−−−−君とはここでお別れだ」
「どうしてですか! どうして、あなたが移動を……もしかして、あれを無断で調べたたりしたからですか?」
思わず立ち上がり、声を荒げた。それとは対照的に未だ座ったままの彼女。
そんな彼女がコクリと頷いた。
「そうだ。あの事件を調べたのがきっかけだった」
「なぜ、あなただけが処罰なんですか! なんで僕にはないんですか!」
「私が提案したんだ。君には……」
「僕の分の責任を負ったんですか? 先輩だから? そんなの、コンビじゃないでしょ!」
今沢は肩を震わせながら立ち上がった。
すぐに振り返って、佐々木へ顔を見せずに扉の方へ歩き出した。引き止めようと佐々木が手を伸ばした直後、彼女はピタリと止まった。
振り返えらないまま彼女は空を仰ぎみた。
『ありがとう』
そうして彼女は立ち去った。
屋上には一人の男と暖かな彼女の言葉が残っていた。
しかしそれも吹き付ける風に攫われてしまう。だけど、男はその暖かさを手放さぬよう、優しく抱きしめる。
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