Ⅶ 上
まだ三月だが、梅の花が桜の花へ変わる。
あの、想像を絶する一時間にも満たない刻。
どうしても、あの時のことが忘れられないでいた。
あの後、突入してきたSAT隊員が気絶した佐々木を発見、救出した。彼が目を覚ましたのは一通り事件が解決し、後処理をし始めた頃だった。
外傷はガラス片などで切ったりした、比較的軽いものばかりだった。医者や刑事仲間は、あの銃撃戦の中をこれだけの傷で乗り切ったのは奇跡だと口を揃えて言った。相棒である今沢以外。彼女は佐々木が目覚めたという一報が入った時、自分でも驚く位安堵し、肩に入っていた力が抜けたのを感じたのだった。
彼女が佐々木の病室を訪れたのは、三日後。関係者の見舞いが大方終わり、病室が静かになった頃だった。
彼女はベットで上体だけ起こしている佐々木を見とめるなり、小さく笑顔を浮かべて駆け寄って来た。
「調子はどう?」
「ボチボチですね。明日には退院できそうです」
今沢はベット近くに置かれたパイプ椅子に腰掛け、カバンの中を漁った。取り出した手の中には缶コーヒーが握られていた。
病人にコーヒーは大丈夫なのか甚だ疑問だが、おとなしくそれを受け取る。
彼女も同じものを取り出し、カシュッと、小気味良い音を立てて開ける。
「そういえば、あの時の電話って何だったんですか?」
「電話?」
「ほら、強盗が来る直前に携帯に」
そこまで言うとようやく合点がいったのか、「ああ、あの事か」と頷きながら答えた。
「あれは……あの狙撃事件で進展があったから」
「進展ですか?」
「ええ。あの時、議員を撃とうとした男、ここ最近中国への出入りを頻繁に行ってた。誰に会っていたのかは分からなかったけど、入国管理局の友達にお願いしたら特別に調べてくれたから確かな情報よ。それと、工藤議員の方も、会社が出資してる事業の中で、唯一外国の企業に出資しているのは中国にあるIAROという会社だった。
そして、私たちに要人警護を命令してきた警視監は中国上層部とそれなりの関わりがある。これは偶然? それとも、必然?」
佐々木は、喉に小骨が刺さったような違和感を禁じえなかった。
「偶然、と言い切るにはそれぞれの関連性が強すぎる。逆にこの三つの事柄が関連していると言うには、決定的な何かが足りないように感じます」
佐々木は己の中にある違和感にそう結論づけた。今沢は飲み終わったコーヒー缶を備え付けの机に置いた。しかし、その顔はどこか浮かないように見えた。
「小百合さん? どうかしたんですか?」
「いえ、なんでもない」
その言葉に内心、首を傾けた佐々木だったが、これ以上聞いても答えてくれなさそうだと判断し、話題を変えることにした。
「あの、僕が退院したらその調査に協力させてください」
しかし、彼女の表情は変わらなかった。
その後、何とか協力することを了承させることに成功した佐々木だったが、今沢の様子だけが気になっていた。
*
久方ぶりに靴底越しに感じるコンクリートの硬さ。
朝一番で病院を無事に退院した佐々木を待ち構えていたのは、やはりというべきか今沢だった。脇にはいつも乗り回している車が見える。帰りの足の心配をしなくなったことに少しホッとしつつ、佐々木は彼女の元へ駆け寄った。
「おはようございます」
彼女は携帯に落としていた視線を上げ、佐々木を捉えた。佐々木は心のどこかで「良かった」と思っていた。数日前のような沈んだ顔ではなく、いつも通り、頼りになる敏腕女刑事の顔をしていたから。
「随分と早いのね。てっきり仕事をサボれるとか言って退院を渋ると思ってたのに」
所々混じる言葉の棘は相変わらずだった。
「小百合さんは僕のことをなんだと思ってるんですか? サボリ魔か何かですか?」
「極度の巻き込まれ体質のパートナーかしら?」
「そうですか……。それは喜んでいいんですかね?」
「さあ? それより佐々木君。あなたは数日間の休暇届けが出され受理されているわ」
話を強引に変えた今沢だったが、佐々木が気になったところはそこではない。
いつの間にそんな事に。何より、自分は休暇届けなんて出していないはずだ。
疑問符を浮かべる佐々木を尻目に今沢はなおも続けた。
「ついでに、所長が私に働きすぎだって言って、私にも偶然休みをくれたの。そう偶然ね。
それで、偶然、二人とも休みだし例の事件のことを調べるいい機会じゃないかと思うんだけど」
数日前から何か大きな心境の変化でもあったのか。
佐々木の疑問は尽きないが、快く参加させてくれるというならば何も言わなくてもいいだろう。もし、何か余計なことを言って彼女気が変わっても面倒だ。
「……小百合さんが申請を?」
「いや、それは課長の指示だよ、色々疲れているだろうからって。復帰したらお礼を言っときなさいよ」
「了解です」
彼女の促すままに車へ乗り込んだ佐々木。車中の中ではもっぱら例の事件に関する情報のすり合わせを行っていた。
佐々木が身動きが取れない間に、それなりに大きな動きがあったらしく開示される情報は耳寄りのものばかりだった。
一つ目は、事件には中国が関わっている可能性が高いということ。
二つ目は、警察上層部も何らかの形で関与しているということ。
三つ目は、SATが突入する前に所属不明の部隊が突入したということ。また、その目的も分かっていないこと。
佐々木は聞きながら、頭の中で情報を整理していた。
様々な不可解な点が頭の中で湧いては消えていった。今沢はそんな彼を先回りするように言葉を紡ぐ。
「これらを統合した時、幾つか分からない所があったのよ。佐々木君には悪いけど、まず、それをあらかた解決することになるから」
佐々木はその言葉に頷いた。彼女の方針には概ね賛成だったからだ。
それに、これからそう都合よく目新しい情報が降って湧くとは考え難い。ならば、わからない事を一つ一つ無くしていく事の方が今取れる最善手なのだ。もし、彼一人で事を進めていたら、おそらく半分も集まらず、ほとんど進展する事なく打ち切る事になっていたかもしれないのだ。彼女がいてくれてよかったと、心の底から思った。
それと同時に、例のヘッドホンの彼女が強盗一味だと伝えるべきか悩んでいた。今沢になら話しても大丈夫だと考える反面、本当に話しても良いのかという思いも抱いていた。
今沢は『ミナトショッピング街 500メートル先駐車場』という看板の手間でハンドルを切った。車は人通りの多い大通りから、逆に人っ子一人いない路地へと入っていった。
しばらく道なりに進むと、彼女は一つの廃ビルの前で車を停めた。一体、ここに何があるのだろうかと、疑問に思った佐々木だが、彼が聞く前に彼女は車を降りた。
二人は所々天骨がむき出しになった階段を上る。
コツンコツンと靴底がコンクリートを鳴らす音だけが響く。
「百合子さん。ここは一体?」
「私たちが巻き込まれた狙撃事件。このビルは、その時の狙撃手が居たと思われる場所」
「どうやって……?」
佐々木が尋ねるのとほぼ同時に、階段の先に鉄の扉が見えた。
彼女は錆びついて、地面と擦れるたびに悲鳴のような音を出す鉄の扉を開ける。開けた先の光景に二人は息を飲んだ。遥か上空から街を見下ろす街並みはいつもと違った感覚を呼び起こす。眼下の街へ抱いたのは、生き物みたいだという、ある意味不思議なものだった。
一人惚けている佐々木を放って、今沢はビルの北方の一辺を何往復もしていた。地面に固定されたままの視線は鋭い。
狙撃手は何を思って引き金引いたのだろうか。
不意に彼の隣から声がかけられた。
「壁に付いた弾痕の位置と男の位置関係から弾道を推測し、そこからいくつかの条件を満たした場所をピックアップしたらここが出てきたの」
「いくつかの条件?」
「一つは、周りに人がいない事。
二つ目は忍び込みやすい事。
三つ目に、周りが同じ様なものに囲まれている事」
確かに、絞り込むには丁度いい条件だと言える。しかし、そこまで大雑把で少ない条件付けだと他にも候補が出てしまうのでは? と言う疑問が佐々木の頭をよぎった。
「そして、最後に廃ビルであること」
「廃ビル? どうしてそれが条件に」
尋ねられた彼女はどこかバツの悪そうな顔をした。
「実際は半分近く賭けだったけど……その賭けにも勝ったわね」
そう言って、彼女は手を掲げた。丁度、腕が佐々木の目のある高さまで持ち上げられたことで、彼女の声が若干弾んでいることの意味が分かった。丁寧にジップロックのパックに入れられていたのは所々黒く汚れた金属の筒だった。大きさは4センチほどで、掌に乗るサイズだった。
そして、佐々木にはそれに心当たりがあった。
「薬莢……ですか」
「ええ、大きさから見てライフル弾でしょうね。そして、狙撃に使われたのも7.62ミリNATO弾」
状況だけでもここに狙撃手がいたことは確定した。しかし、それでも分からないことはまだいくつか残っている。
車へ戻り、彼女はさっきとは違い助手席に腰を下ろした。それを見て、佐々木の口からため息がこぼれる。内心、相変わらずの人使いの荒さだと愚痴を言っているのかもしれない。
車を走らせて数分後。互いに様々なことを口に出していた。徐々に事件の一部が見え始めていた。これが全てなのか、氷山の一角でしかないのかわからないまま。そんな中、ハンドルを握る佐々木がふと何かに気がついたような表情をした。
「でも、待ってください。ここからミナトショッピング街までは実に五〇〇メートル以上の距離があります。猟銃ではこの距離を正確に撃ち抜くのは難しいのでは?」
今沢は首を横に振った。
「確かに猟銃だと無理がある。けど、軍用のスナイパーライフルだったら?」
「それこそ無理ですよ。撃てるかどうか以前の問題です。入手経路はどうするんですか?」
「佐々木君。私は、君はもう少し頭は柔らかいと思っていたんだけどね」
言外に「ばか者。そんな事も分からないのか」と言われたようで佐々木は少し顔を顰めた。
「小百合さんは柔らかすぎるんです。もう少し、固くてもいいと思いますよ」
佐々木の思わぬ返しに今沢は驚いたように固まったが、すぐに「プッ」と吹き出すように笑いだした。
「アハハ。いいね、その返しは予想してなかったよ。ハァ……」
呆気にとられている佐々木を横目に、一通り笑って気が済んだのか目尻に浮かんだ涙を拭いながら彼女は口を開いた。
「まあ、固定観念を持つなとは言わないけど、たまにはそれを捨てることもできないとね。……それで入手経路の話だけど、君はごく最近、日本国内では到底ありえないレベルの厄介ごとに巻き込まれた。その時、彼女たちは何を使ってたの?」
「それは銃ですよ。あっ!」
「気がついたみたいだね。そう、入手しようと思えばできなくはないのよ。そして、あんな武器がポンポン手に入る訳ないから……というか、あんなのが好き勝手国内に入ってきたらコッチがたまったもんじゃないし……とにかく、狙撃犯候補としてはあの強盗三人組が最有力候補ね。次いで、あの正体不明の部隊ってところかな」
彼女の言い分に納得の表情で答える佐々木。
「言われてみればそうですね。次はどうします? 証拠も拾いましたし、一度署にでも行きますか?」
「いえ、もう一箇所見ておきたい場所があるから、署に戻るのはその後ね」
佐々木が頷いたのを見て、今沢はナビゲーションに住所を入力し始めた。ピッピッと機械的な音が響く。
ものの一分程度でセットしたのか、『ルート案内を開始します』という機械音声が流れた。
「あ、そこの角を右ね」
言われた通りにハンドルをきる。信号に捕まることなくスムーズなドライブであった。
その後も、ナビゲーションと彼女の指示に従い、目的地へ向かう。
隣町に入ってすぐ、今沢の携帯が震えた。バックを漁って携帯を取り出し相手を確認するなり慌てて耳に当てた。緊急の用事だろうか? と、頭の中で勝手に想像しながらも、黙ってアクセルを踏む。
最初は黙って耳を傾けていた今沢だが、途中から、何やらすごい剣幕で声を荒げた。その様子に佐々木は「彼女らしくないな」と、勝手に思っていた。怒鳴り散らして気が晴れたのか、電話を切る少し前から再び黙っていた。普段は見せない彼女の姿に、何かマズイ事でもあったのだろうか? と不安になると同時に、あの彼女を怒鳴らせる内容がどんなものなのか少し興味が出てきていた。
「どうしたんですか? 声を荒げるなんて珍しい」
彼女は佐々木の言葉に何でもないと返し、背中を向けた。たまに子どもっぽい言動をする彼女の事だからただ拗ねているだけなのかもしれない。何か言おうと口を開くにも、彼女にかけるいい言葉が見つからず、結局何も声にはならない。
目的地に着くまで、その沈黙は続いた。
*
その後、巡った場所は合計で五箇所にもなった。
その中には無駄足になる所もあったが、それ以上に価値のある情報が出てきた。
「大量ですね。それにしてもかなり大きな話になっています。これは僕たちの手に負えるのでしょうか?」
思わず口をついて出てきた不安。彼女もそれを感じていたのか、黙ったままだ。
「今朝教えてもらった情報の中に中国関連のものがありましたよね。それを踏まえると、どうも怪しいですね」
日も暮れ、そろそろ彼女を家に送り届けようかと考え始めた頃、窓の外を流れる街灯の光を眺めながらポツリと呟いた。
「佐々木君、君はここで引き返しなさい」
思いもしない一言。
それは、今まで共に事件に当たってきた彼女だからこそ聞きたくなかった言葉だった。怒りか、悲しみか、困惑か。それともそれが全てごちゃ混ぜになった何かか……。その気持ちに名前がつく前に佐々木は声を荒げた。
「何故ですか!」
再び、彼女は黙り込んだ。まるで、何か話せない事があって、でも、誰かに話して楽になりたい。そんな矛盾するふたつの思いがぶつかった様に見えたのだ。
「……私たちの予想が合っているなら、これから向かい合うのは大国と言ってもいい。そんな状況に部下は巻き込めない……巻き込めるはずがない」
「それは僕だって同じです。これは元々僕が言い始めた事です。尚更、百合子さんを残して僕だけ手を引くなんて事はできない」
彼が言い返すと今沢は首を横に振った。
「私はとある人からこの事件について調査して欲しいと頼まれたの。でも君は違う。興味心は猫をも殺す。私は佐々木君に死んでほしくないのよ」
「でも 」
呆れた様に肩を竦めた彼女は纏っていた雰囲気をガラリと一変させた。
その瞳からは決して折れないという強い決意を感じたのだ。そして、その眼光に言葉は途中で途切れ、中途半端に開かれた口は間抜け面に拍車を掛けているだろう。
「ダメだよ。もうこれは興味心だけで首を突っ込んでいい話ではなくなっているの。だから、ここは手を引いて 」
お願い。
そう言った彼女の顔はうかがい知れなかったが、どうしてもそれ以上言うことができなかった。
それは、その気持ちの根源に『 』という感情がある事に無意識の内に薄々気がついたからかもしれない。
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