一目惚れね、それ。


 翌日、カフェであった彼女との出来事を今沢に話すと、彼女は開口一番そう言った。


 今沢いまざわ小百合さゆり。佐々木の所属する一課の先輩刑事で、唯一の女性でもある。

 年齢自体は佐々木と変わらないが、一課に配属されたのは彼女の方が先なので先輩ということになっている。

 彼女は新人である佐々木を指導するという名目で彼と一緒に捜査を進める。

 所謂、相棒というものだ。しかし彼ら場合、彼女が優秀すぎることもあり佐々木がコバンザメみたいに彼女にくっ付いているといった感じではあるが。


「そんなことないですよ」

 佐々木はそんな先輩刑事の言葉を、即座に否定した。

「だって−−」

「これは恋なんかじゃないですよ」

 そう、これは恋ではない。だって、あのコーヒーのような熱さも苦しさも甘さもないのだから。内心でそう付け加えた佐々木だが、彼女はそんな事は関係ないとばかりに二人のデスクの中間に置かれた壊れたヘッドホンを指した。


「まあ、佐々木君がどこの誰に恋しようがいいけど、それで? これはどうするの?」

 この話を今沢にする事になったのはこのヘッドホンが原因である。このヘッドホンは昨日彼女が店に忘れたものだ。


 例の彼女が店を出て行ってすぐにこれを忘れている事に気付き追いかけたが、結局、彼女に追いつく事はできなかった。

 彼女にヘッドホンを返しそびれ、肩を落として帰っている時、悲劇が起こった。


 小学生くらいの少年が道に飛び出してきたのだ。そして、運の悪いことにスピードの乗った乗用車が子どもに向かって走り込んでくるのが視界の隅に写り込んだのだ。

 頭で考えるよりも先に体が動いた。

−−走れ。


 次に佐々木が認識したのは腕の中の確かな温もりと背中に走る軽くない衝撃だった。金属にぶつかった感覚はなかったが、それでも全身をコンクリートに強く打ちつけた為、全くの無傷というわけにはいかないだろう。

 ゆっくり起き上がると辺りは騒然としていた。当然だろう。間一発だったとはいえ、閑静な住宅街で交通事故が起きるところだったのだ。


 車は近くの電柱に激突し、フロント部分が少し凹んでいる。

 運転していたらしい中年のおばさんが血相を変えて駆け寄ってくると、少年はようやく理解が現状に追いついたのか声を上げて泣き出してしまった。

「大丈夫ですか!」

「この子も怪我はなさそうなので……それより、一一〇番をお願いしても」

「ええ」

 騒ぎを聞きつけた野次馬が集まりだした。

 こういう好奇の目は、まだ幼いこの子にはよくないだろうと思い、さっきまで少年がいた公園へ連れて行った。

 佐々木の耳に遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。


「昨日、こっち来たら警察署に連れてかれたって聞いて目が点になったわよ。刑事が連行されるってニュースとかだとたまに見るけど、身近で起こるとは思わなかったわ。……それにしても、佐々木君の巻き込まれ体質もそこまで行けば才能かもね」

 今沢はヘッドホンをしげしげと眺めており、佐々木には一暼すらしていない。しかし、その口調に含まれているのは自身に対する呆れだと彼は感じ取った。

「呑気に言わないでください。大変なんですから」

 ヘッドホンはその事故の時に壊れたのだ。ちょうど耳にあてる部分がポッキリと折れてしまっている。


「コレ直しようないでしょ」

「わかってますよ。それで小百合さん、今週の日曜日とか空いてます?」

 今までずっとヘッドホンに向けられていた視線がスッと佐々木へ向いた。

「今週の日曜日っていうと明後日か。一応予定はないけど、何? デートでも誘ってくれるの?」

 彼女はニヤリと笑みを浮かべる。

「女性が使うようなヘッドホンなんてわかりませんから。それに、小百合さん曰く僕にはものを選ぶセンスがないそうですし」

 ちょっとした皮肉を交えて返すと今沢はニヤリとした笑みから苦笑いに変わった。

「まあそう言わないで。そうね……その日は用事もないし別にいいよ。その代わり、ちゃんとエスコートしてちょうだい」


 いつも通りの会話をしていると、机に取り付けられた電話が鳴り出した。電話をかけてきたのは署長だった。声には若干の戸惑いが現れていたが、要約すると、どうやら新しい仕事が入ったとかで今から、署長室に顔を出せとのことだった。

「何の用だろう?」

「さあ、昨日の件じゃない?」

 あっけらんと言った彼女に対し、当事者でる佐々木は署長から頂くであろう小言を思い浮かべ、重い溜息を吐いた。


 長く感じた廊下を抜け、署長室のプレートが貼られた扉の前で、もう一度ため息がこぼれた。この扉の前に立つ時、佐々木は毎回職員室に呼び出された学生時代を思い出す。

 コンコン、と扉をノックすると中からテノールの返事が聞こえた。今沢に続き、署長室へ入る。

 署長室は陽の光が窓から入り込み明るい。そんな中、署長は引き出しから書類を手にすると彼らを部屋の中央に置かれた来客用のソファーへ案内した。


「これを見てくれ」

 そう言って渡されたのは一枚の書類だった。

「本日の午後一時から三時までの二時間。この人物を護衛してほしい」

 書類に添付してある写真には、小太りでスーツ姿の人物が此方を見つめてくる。二人が疑問を口にするよりも早く、署長が遮るように続けた。

「質問は後で聞こう。

 この男は工藤くどう幸男さちお。県議会員、三津谷グループ取締役と、それなりに権威のある人物だ。その工藤が今日、イベントで演説をするらしい」


 三津谷グループ。

 主に飲食店を中心としたグループで、最近は数多くの方面へ手を出している。その上層部は三年ほど前に大きな人事入れ替えを行い、それまで、業績低迷が続いていたのを一年あまりで回復させ、昨年度は十二ヶ月全てで黒字を記録した……らしい。つい最近放送してたドキュメンタリーで取り上げられていたから知っているだけで、他のことはサッパリだ。


 佐々木は頭の中で情報を並べていると、いつの間にか話が進んでいるようだった。

「普通ならこの手の要人警護は要人警護課の管轄だ。それがこっちに回ってくるってことは、その普通じゃない状況ということだ。拳銃の使も許可されている」


 コーヒーカップを手に取ると、疲れたようにため息を吐いた。

「この話は警視庁の上の方から来たんだ。不慣れだろうが、これも仕事だ。やってもらう他ない」

「一つ質問があります」

 視線で許可を出されると、今沢は口を開いた。


「私たちは普段、要人警護はしません。その理由は問いませんが、ただ、これだけは聞かせてください。その仕事は、誰から回って来たのですか?」

「……菅原すがわら雄都ゆうと警視監だ」

 それと、と続けた署長は、しかしここで口を噤んでしまった。一分、二分と時間が過ぎて行くが口を開く気配はない。

 次に署長が声を出したのはそれから五分ほど経った頃だった。

 ソファーから立ち上がり、窓の外を眺める。

「行っていいぞ」

 署長は呼び止めた割に何も言わずに追い出した。その時の表情は窺い知れなかったが、何か嫌な予感がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る