第5話 ふたつめの恋

 どうしてこのようなことになったのだろう?

 私の幸せは、すぐそこまできていたはずなのに……。


 人魚姫は、手の中にある冷たい短剣を見つめながら思いました。

 短剣には、重々しいまでの彫刻が施されていて、小さく軽いはずの短剣をずっしりと感じさせました。鞘から抜かれた刃は、鏡のように歪みなく曇りもありませんでしたが、魔女の呪いの言葉が込められており、人魚姫の顔を醜く歪ませて映し出しました。

 人魚姫は、自分の顔を見てぞくりと震えました。

 無垢だった姫の顔は、いまや様々な思いが刻まれていました。

(あぁ……戻りたい……)

 冷たい刃に、ぽたりと涙が落ちました。

 姉たちが美しい髪を犠牲にして手に入れた魔剣です。これで愛する人の心の臓を奪えば、自分はもとの幸せな人魚姫に戻り、人間であったことも恋したことも忘れるでしょう。

 何も知らないあの頃の自分に戻れるのです。


 船の甲板を冷たい風が通り抜け、人魚姫はぷるりと震えました。

 海の冷たい水にも震えたことのない身が、風にすら震えるなんて……。我が身はなんて情けなくなってしまったのだろう? どうしてこのようなことになったのだろう?

 ただ、彼女は知らない世界に憧れて、禁じられた海の上に顔を出しただけなのです。大人の言うとおりに生きていくだけではなく、自分の知らない世界を見てみたいと、その希望を冒険に変えただけなのです。

 あの夜、人魚姫は生まれて初めて海の上に顔を出し、初めて月や星を見ました。そして初めて、人間を見ました。

 その瞬間……人魚姫は、初めて自分が人魚であることを呪いました。

 まったく同じ気持ちで海を見つめ、物思いに沈む王子を見て、恋に落ちてしまったからでした。



 海に住む魔女は言いました。

「人間にしてあげよう。でも、おまえの声をお礼にいただくよ。そして……この魔法が尽きるとき、おまえの体も尽きてしまう。だが、もしも王子のハートを奪うことができたならば、魔法は永遠になるのだよ」

 愛しい王子と結ばれることが、人間として生きていける条件でした。彼が自分を選びさえすれば、この魔法は永遠のものとなり、幸せになれるはずでした。

 魔女はケタケタと笑いながら言いました。

「王子のハートを奪うのだよ。心でもよし、心の臓でもよし、奪えばおまえの好きなようにしてやろう」


 海にいた頃、人魚姫は美しい声を持っていました。

 せめて声さえあれば、真実を告げることができたでしょう。

「あなたをお救いしたのは、私なのです」と。

 人魚姫は、何度も何度も悲しい目をして王子を見つめていたのです。

「気がついてください。あなたをお救いしたのは、私なのです。あなたがお探ししているのは、目の前にいる私なのです」

 せめて言葉さえ、伝えることができたのであれば……。

 しかし、王子は真実に気がつくこともなく、偽りの救い主である王女と結婚してしまったのでした。


 ——このような悲劇が、許されましょうや……。


 人魚姫は短剣を握り締め、唯一自分に残された道を歩み始めました。

 王子と王女の閨に忍び込み、そして心臓をもらうのです。そうすれば、姫は再び人魚の姿に戻ることができ、苦しい恋のことも忘れ、冷たい海の底で、再びかつての生活に戻ることができましょう。

 重厚な扉も、王子の侍女として信頼のあった人魚姫には、簡単に開けることができました。姫は短剣を斜に構えて、かすかな蝋燭の光だけを頼りに、ベッドに歩み寄りました。

 新婚ゆえの激しさで愛し合ったからでしょうか、王子と王女は蝋燭の明かりにも気がつくことなく、かすかな物音にも目を覚ますことなく、寝入っていました。

 その姿に、人魚姫の心は傷つきました。

 あまりの不条理に、姫はこの世のすべてを呪いました。

 そして蒼白な顔のまま、人魚姫は短剣を振りあげました。この世のすべてと決別するために。

 が……。

 王子は一度、軽く寝返りを打つと、幸せそうな寝顔のまま、そっと王女をかばうかのように、しっかり抱きしめたのです。それは、全く無意識でしょうが、何か殺気にきがついたかのような仕草でした。

「あの人に再び会えるならば、もう二度と離すまい」

 王子の言葉が思い出されました。

 振り上げられた人魚姫の手は、小刻みに震え、振り下ろされることはありませんでした。今まで見たことのないような幸せそうな王子の顔に、心が張り裂けてしまったのです。

 人魚姫の横にいて、王子がこのように幸せそうな顔をしたことがありましたでしょうか? 王子は常に、悲しみに打ちひしがれていたではありませんか。

 たとえ短剣という武器で胸を引裂き、心臓を奪ったところで、王子の心は人魚姫のものになどなりません。

 王子を救ったのは人魚姫です。

 でも、王子が愛したのは王女だったのです。

 たとえ人魚姫に言葉を伝えるすべがあっても、心を伝えることができたとしても、おそらく結果は同じでしょう。人魚姫は恋に負けたのですから。


 払った犠牲の量で、愛は計れぬもの……。


「あぁ、私にはできません……」

 心臓を引き裂かれてしまった人魚姫は、言葉にならない言葉で叫ぶと、部屋を飛び出していきました。

 日々、王子の悲しみを癒してきた人魚姫です。愛する人がせっかく掴んだ幸せを、引き裂くことなどできません。

 しかし、あまりにも真実は人魚姫には残酷でした。


 ——戻りたいのです! 何も知らなかったあの頃に……。


 そう心で叫ぶと、人魚姫は自らの心臓を短剣で刺し、船の甲板から身を躍らせて、海の波間へと消えてゆきました。

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