第2話 プラチナの少女

 冷たい海の恐ろしい記憶が、何度も何度も波のように襲いかかりました。

「寒い、寒い……冷たい」

 王子は何度もうわごとを言いました。

 その度に、誰かが温かな手を差し伸べてくれます。

 激流の渦の中、掴まれた冷たい手でも、青白い鱗でもない、人間の感触でした。

 

 王子が目覚めたのは、温かなベッドの中でした。

 目を開くと、うすぼんやりと人影が見え、やがてはっきりと顔が見えてきました。

 プラチナの髪を持つ少女です。

「気がつかれましたか? あなたは砂浜に倒れていて、もう三日も意識が戻りませんでした」

 あの青白い顔の少女かと思いましたが、安堵の微笑を浮かべる顔には紅が差し、まるで太陽のように明るく輝いていました。

 起き上がり、あたりを見渡すと、そこが田舎小屋らしき建物であることがわかりました。でも、天井に渡った梁は太く立派で、壁に塗られた漆喰は白く、ヒビのひとつもありません。

 異国の建物かと思いましたが、民家を絵でしか知らない王子には、何とも判断がつきませんでした。ただ、興味深くきょろきょろとあたりを見回すだけでした。

 母親らしき女が、粥を運んできました。しかし、すぐに王子は、この二人が親子ではなく、言葉と態度から主従関係にあることに気がつきました。

 少女は村娘のように見えますが、少し立場が上のようです。それとも、ここではそれが当たり前なのでしょうか? 王子は戸惑いました。

 しかし、少女の笑顔があまりにも美しいので、それ以上は何も考えず、王子は粥をいただいたのでした。


 王子は元気になりました。

 時々、波にもまれた恐ろしい記憶が蘇り、海が時化る日は恐怖に震えたりもしましたが、少女の優しい微笑みが悪夢を振り払ってくれました。

 ここはどうやら隣国の小さな村のようです。

 やがて王子は少女や世話係の女と共に村を歩けるようにもなりました。

 けして豊かではないけれど、平和がそこにはありました。王子にとって、人が集まる市場の活気や駆け回る子供たちの声、行き交うロバや馬がとても新鮮に見えました。

 村外れの丘に王子が行ってみると、たくさんの新しい墓ができていて、やはりたくさんの花が添えられていました。 

 船は沈没してしまい、誰も助かったものはいないということ。吟遊詩人もたくましい軍人も幅広のスカートのご婦人方も、もうこの世にはいませんでした。

 村人たちは流れ着いた屍を手厚く葬ってくれたのです。

 王子の胸は痛みました。日に日に本来の色を取り戻していた顔は、死者のように蒼白になり、がっくりと膝を付いてその場を動けなくなりました。

 プラチナの少女は、王子に声をかけることなくその場にいましたが、手は優しく王子の肩に触れられていました。


 それから数日後、王子の顔色が戻った頃。

 夕食の合間に、少女がいきなり話し出しました。おそらく言うか言わぬべきか、長く迷っていた事なのでしょう。

 船の沈没原因が不明ゆえに、両国の間に不穏な空気が広がりつつあるようだということ。戦争が迫りつつあるということ。

「! そんな。この村の人々は、死者を丁寧に扱ってくれたではありませんか!」

 父王がそのような決断をするはずがないと、王子は信じておりました。でも、少女は悲しそうに首を振りました。

「もしもあなたがあの船の生き残りだとしましたら、名乗り出て原因を説明しなければなりませんね。このままですと、わが国はあなたの国に攻め込まれて滅んでしまうかもしれません」

 少女は政にも関心があるらしく、真剣な顔で言いました。

 王子の心は痛みました。このような小さな村の少女ですら自国の未来を心配しているのに、王子は生まれてはじめて味わう生活に満足していて、どうしても国に帰る気持ちになれなかったからです。

 国に帰れば、待っているものは政略結婚なのですから。

 そこで王子は、少女の言葉は悲観的でありえないと、何度も自分に言い聞かせました。

「残念ですが……そうしたいのですけれど、私は難破した時の記憶がないのです」

 王子の嘘を、少女は全く疑いませんでした。それどころか、美しい水色の瞳を伏せて言いました。

「きっと、たいそうつらい思いをなされたのでしょう。記憶が戻られるまで、ここで養生してくださってかまいません。きっと、そのうちに良くなりますから」

 王子は、ちくりちくりと痛む胸を押えました。

 いつか記憶が戻ったことにして、国へ帰らねばならないときが来ましょう。

 でも、今はまだ、この日々を味わっていたい——後一日、後一日と、王子は帰国を引き延ばしてしまいました。


 質素ではありますが、開放的な生活でした。

 今まで何も自分でやったことのない王子でしたが、世話係の女は容赦なく王子を遣いましたし、プラチナの少女は感謝の言葉を述べてくれました。

 女二人の生活に、荷物運びなどの力になれることがわかると、王子はますますこの生活が気に入ってしまいました。

 それに、少女はとても美しく、そして優しかったのです。

 ふたりはまるで夫婦のように村を歩くようになり、時々、少女の世話係の女に釘を刺されるほどでした。

「記憶が戻られたら、去られる方ですよ。このような生活をしていたって、あなた様だって立場がおありです。それを、よもや忘れたわけではありますまいに」

「でも、まだ記憶が戻られたわけではありませんわ」

 そのような二人のやり取りを影で聞いて、王子はいぶかしみました。少女と世話係の女には、何か秘密があるようです。

 それでも、少女と一緒にいる時は、いつも心が踊りました。

 このまま、王子は死んだことにして、この少女とずっと一緒にいたい、と切に願うようにすらなりました。



 しかし、その幸せも長くは続きませんでした。

 ある日のこと、少女を訪ねて数人の兵士がやってきました。ちょうど王子が買出しから帰ってきた時のこと、その兵士達に少女は無理やり連れ去られようとしていたのです。

 王子は慌てて近くの鍬を手にすると、兵士に向かっていきました。

 実践はしたことのないものの、王子はそれなりに剣術を心得ていましたから、勝負はなかなかつきませんでした。しかし、多勢に無勢です。体力に勝る兵士達が、結局は王子を追い詰めました。

「お待ちなさい! 私はあなた達についてゆきます!」

 兵士が王子の首を刎ねそうになったときに、少女は叫びました。

 いつも笑顔にあふれた少女の顔に、悲壮な決意を感じて、王子は驚きました。

「あなたは国にお戻りください。そして、船の沈没のわけを……。この国の疑いを晴らしてくださいませ」

 そう言い残して、少女は兵士達に連行されていってしまいました。

 王子は何もできなかった自分を悔やみました。

 少女を助けるどころか、再び命を助けてもらったのです。その代償に、少女は失われてしまいました。

 怪我の手当てを少女の世話係から受けると、再び兵士達を追おうとしましたが、世話係の女に張り倒されてしまいました。女に張り倒される程度では、少女を救い出すことはできないでしょう。

「大丈夫です。あの方は殺されるようなことはありません。ただ……いるべき場所に連れ戻されただけのこと。あなたもお帰りになるべきです」

 王子は、世話係に諭されて、少女の言葉通り国に帰るしかありませんでした。

 しかし、心の中は後悔でいっぱいでした。

 なぜなら、少女を愛していることに気が付いたからです。

 そして、おそらく二度と彼女に会うことができないことも……。




 世話係に船に乗せられ、少女に未練を残しながらも国に帰ると、国は大騒動になっていました。何でも隣国の闇討ちにあい、王子の船が沈没したことになっていて、明日にでも戦争が始まりそうな勢いだったのです。

 王は、王子が無事なことを知ると、大喜びで戦争準備を止めました。

 隣国は、王子と結婚させる予定だった王女を、王の側室に捧げて戦争を避けるつもりだったようです。王は、若い女を得ることよりも、亡き妻に似た王子を愛していましたので、そのような申し入れには乗らなかったのでした。

 恋に狂って、自分の立場を忘れていた恥ずかしさに、王子は歯噛みしました。もう少し長く幸せな生活に埋没していたら、両国はとんでもないことになっていました。

 我が身はただ自由になりたいかどうかでは計れない、もっと立場であることに王子ははじめて気が付いたのでした。

 そして、世話になった隣国の村の運命が、我が身の振り方いかんによって運命が変わることに気が付いて、ぞっとしたのです。


 こうして、王子は和平のため、心を捨てる決心をしました。

 王子と隣国の王女との結婚話は、再び動き始めました。

 しかし、王子は、憂鬱なまま、海辺を散歩する日々を過ごしたのです。

 海はプラチナの少女へと繋がる道でした。

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